第52話
空を見上げる。
先行き不安なヤマトたちの心境とは裏腹に、空には雲一つ浮かんでおらず、平穏そのものを体現するかのような有り様だった。
「まぁ、生きてるだけでも運がよかったってことなのかなぁ」
「素直に喜ぶとしよう」
意識を取り戻したノアは、傍目からでは平時と変わらない様子でそこに立っていた。
その身を包んでいるのは、レレイが着ていたものと同じく、鮮やかな赤と緑に染め上げられた衣装だ。ゆったりとした印象を受ける服ではあるが、着ている側からすると動きやすい機能的な品であるらしい。気になることは、妙に服の裾がヒラヒラと揺れて女性的な感じがある部分か。
対照的に、ヤマトが着ている服は青と緑色に染め上げられている上に、下半身と上半身の一部のみを覆うような品になっている。いささか防御面で不安の残る服ではあるが、動きやすいのは確か。こちらはノアが着ている服とは異なり、ただ最低限の覆いをしているだけという、実に男らしさを感じずにはいられないものだ。
ヤマトと同じものを見ていたらしい。ノアは自分の服を摘みながら、首を傾げる。
「やっぱりこの服、おかしくない? なんか女物を着てる気がするんだけど」
「……さてな」
口では誤魔化すが、結論は明確に出ている。女物で違いない。
日頃から傾城やら絶世の美女やらと形容したノアだが、今の服を着て佇む様は、ヤマトの目からしても女性にしか見えない。帝国文化に染まった者らしい白い肌が微妙に浮いているものの、色鮮やかな衣装はその美貌を充分以上に引き出している。よもや、今のノアを見て男性であると看破できる者はいまい。
とは言え、そのことを正直に口を出すのは躊躇われた。
(ノアにこの服を着せるのはな)
自分が身につけている服を見下ろして、ヤマトは内心で溜め息をつく。
この島の男性は外見に無頓着なのだろうか。明らかに男物らしいこの服は、ヤマトの常識からしても露出過多な品だ。もはや、上裸に等しいと言っても過言ではない。
そんな服をノアが身につけてしまった日には、何が起こるやら。
レレイという頼れそうな保護者を得ることはできたものの、ヤマトたちにとって、この島はまだ危地に等しいのだ。いらない火種は作らないに越したことはない。
「すまない。待たせた」
ノアの服を横目で見ながら思考していたヤマトの耳へ、レレイの言葉が届く。
振り返れば、家の中で見たときと変わらず、ノアが着ているような赤と緑の服をまとったレレイの姿がある。相変わらず、異国の民であるヤマトでも思わず目を惹かれる美貌だ。
レレイはヤマトとノアの間で視線を巡らせると、満足気に頷いた。
「よかった。二人共よく似合っている」
「そうか? ならばよかった」
「やっぱり僕の、女物じゃない?」というノアの声は聞き流す。
長期に渡る船旅を想定して荷物に着替えはしこたま積んできたヤマトとノアであったが、船が大破して海へ放り出された際に、荷物全てが海水に浸ってしまったのだ。無理すれば着れなくもないだろうが、一度洗ってしまった方がいい。その判断に従って、レレイが家に保管していた服を借りることにしたのだった。
一人暮らしをしていたレレイの家に、なぜ男物の服があったのか。詳しいことは聞いていないが。
(聞かない方がいいのだろうな)
下手に個人の事情を掘り返す趣味はない。
そんなヤマトの思考を放って、レレイは前方を指差す。
「この森を抜けた先に集落がある。まずはそこへ行こう」
「分かった」
レレイの家で保護されることになったヤマトとノアだが、脱出方法は模索しなければならない。そのためには、島の探索をする必要がある。その旨を伝えたところ、手隙である上に島に詳しいのだからと、レレイがヤマトたちの案内をしてくれることになったのだ。
ずんずんと歩いていくレレイの背中を追いながら、ヤマトは辺りの森を見渡した。
「ずいぶん深い森だね」
「人の手が入っていないから、そう見えるのだろうな」
ノアの言葉に頷く。
木々の一つ一つが大陸ではもう見られないほどに太い。ヤマトが精一杯に手を伸ばしてみても、木の外周に満たないほどだろう。分厚い葉が頭上を覆い隠して、快晴の昼間だと言うのに、森の中へはほとんど陽光が差し込まない。風の通りも悪いようで、むわっとむせ返るほどの熱気が森の中に充満しているようだった。
辺りに潜む獣の気配が気にならなくなるほどに、熱気が鬱陶しい。
その思いはヤマトやノアのみならず、レレイの方も同様であったらしい。顔をしかめたレレイは、ヤマトたちの方に振り返る。
「さっさと抜けよう。あまり長居はしたくない」
「同感。家の中はそうでもなかったんだけど」
「私の家は島でもっとも高いところにあるから、風もよく通る。そのためだろう」
言われて思い返せば、レレイの家は確かに夏の暑さは感じられたものの、鬱陶しいほどの湿気はなかったように思える。陽射し自体は真っ直ぐに突き刺さっているはずだが、湿度がないだけで快適度が違うのだから、面白いものだ。
ノアの言葉に応えたレレイは、早足になって森の中を進んでいく。
「ついてこれるか?」
「とりあえず余裕」
ヤマトもそれに続いて首肯する。
深い森の中だけあって、地面の上にまで姿を見せる太い根に気をつけなければならない不自由さはあるが、それで走れなくなるような二人ではない。家の中でも感じた体力の減衰を自覚しながらも、まだ余裕ではある。
「ならば、もう少し速くするとしよう」
どことなく嬉しそうに笑ってから、レレイは駆け足になる。
まるで平原を走っているかのような確かな足取りに、思わずヤマトは感心する。
「上手く走るねぇ」
「緩めるか?」
「必要ないよ!」
レレイに対抗するように駆け出すノアに続いて、ヤマトも足を速める。
湿った地面は支えにするには心許なく、途中途中で不規則に木の根が張り出している。走路としては悪路もいいところだが、体力の落ちたヤマトにはいい鍛錬になりそうだ。
多少息を乱しながらも、遅れずに駆けるヤマトとノアの様子に、レレイは「ふむ」と頷く。
「驚いたな。外の者がこれほどに鍛えているとは」
「冒険者だからね。こういう経験も多いんだよ」
事実、二人だけでは抗いようのない魔獣と遭遇してしまった際に、一番頼れるのは己の脚だ。冒険者たるにもっとも必要なものは、剣の腕でも機転のよさでもなく、長く速く走り続けられる健脚と言われるほど。
そんなノアの言葉に、レレイは感心するように溜め息をつく。
「冒険者という者は、ずいぶんと豊富な経験を積んでいるようだな」
「珍しい体験に事欠かないのは確かだね」
「……そうか」
どこか熱情を秘めたレレイの瞳に、ヤマトは一瞬だけ気を取られる。
レレイはすぐにその感情を理性の奥に仕舞い込むと、頭上を見上げた。
「思ったよりもずっと早く着くことができたな」
「もう到着?」
「そう広い島でもないからな」
レレイの苦笑いと同時に、木々の間から光が漏れ出ていることにヤマトは気がつく。出口だ。
「すまない、話がある」
その言葉と共にレレイが足を止める。
続けてヤマトとノアが立ち止まったのを見て、レレイは言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「その、言いづらいことなのだが」
「どうかしたの?」
きょとんと小首を傾げるノアに対して、レレイは苦虫を噛み潰したような表情になっている。
「この島の者は排他的な気質だ。だから、恐らく二人も歓迎はされないと思う」
「ふむ、そうか」
ヤマトは平然とした面持ちで頷く。
グランダークやアルスのような栄えた街でならば、旅人に対して寛容な者が多いのが普通だ。だが、この島のように人の手があまり入っておらず、長年に渡って一つの集落のみで完結してきたような場所では、余所者に対して冷淡になるというのはよく聞く話だ。
「出会い頭に襲われるほどではないのだろう?」
「そこまでではない。……はずだ」
そこは断言してほしいところだ。
旅人に対して排他的な集落は珍しくないとは言え、攻撃的な集落は滅多にない。あるとすれば、首狩り族を始めとする戦闘民族の集落くらいだろうか。
レレイの様子を見る限りでは、この島に住むのはそうした者ではないように思える。ならば。
(過去に何かあったか?)
この島――ザザの島と言うらしい――は、アルスから海を長く渡った先に位置している。ヤマトたちがヒカルと共にアルスの騒動を解決するまで、遠洋での航海はグランツ一派の独占状態にあったという話だ。ゆえに、関わりがあるとすればグランツ一派くらいだが。
とは言え、このままうだうだと考え込んでいても仕方ないことだ。
「まぁ大丈夫だよ。僕もヤマトも、一応腕に覚えはあるし」
「あぁ。自分の身を守るくらいはできる」
言いながら、ヤマトは腰元の刀を揺らす。ノアの方も手持ちの魔導銃の他に、咄嗟に投げられる冒険者用の道具も持ち込んでいるはずだ。
そんな二人の言葉に、まだ少しの躊躇いを残しながらも、レレイはやがて頷いた。
「分かった。ならば行くとしよう」
「おう」
首肯して、ヤマトたちは木の間を抜けていった。