第51話
「―――」
思わず目を閉じたくなる倦怠感に包まれながら、ヤマトはゆっくりと意識を浮上させた。
かつて感じたことがないほどに、身体が重い。指先一つ動かすこともままならないほどだ。加えて、喉がひどく乾燥している。火が出ているのではないかと思わず錯覚してしまうほどだ。細々と呼吸するのが精一杯で、何かを話そうとしても声が出てこない。
どうにか目を開けたところで、近くに誰かの気配を感じる。
「目が覚めたか」
少女の声が耳に届く。
不思議な訛りはあるものの、聞き取ることに難があるほどのものではない。
「……ここ、は」
「喋らなくていい。まずは水だな」
たった一言だけ話しただけで、喉から血が滲むような痛みを覚える。
思わず顔を歪ませたヤマトは、少女が口元へ運んだ杯から水を飲み干す。喉が痛みを訴えるが、それを上回るほどの快感に病みつきになる。
二杯目三杯目をそのままの勢いで飲み干してから、ようやくヤマトは息をつく。まだ身体を覆う倦怠感は晴れないものの、先程までと比べれば雲泥の差だ。意識もはっきりとしている。
「助かった。礼を言う」
「気にすることではない」
顔を上げて、ヤマトは先程から介抱していた少女の姿を目の当たりにした。
身の丈はヤマトよりも低く、華奢な体躯をしている。か弱い令嬢のような儚さと言うよりは、しなやかな肉食獣のような力強さが感じられる身体つきだ。その肌には、どことなく覚えのある紋様の入れ墨が彫られている。そんな身体を包み込んでいるのは、鮮やかな赤と緑で染め上げられた衣装だ。顔つきはどことなく幼く見えるものの、その一部ごとを見ていけば、その印象はずいぶんと異なる。目は猫を思わせるように丸く大きく愛らしいものの、その眼光は猛禽を思わせるほどに鋭く獰猛そうだ。また一方で、深く澄み渡る茶色の瞳からは、長年を生きた竜種の如く理知的な一面を覗かせている。
日頃からノアを見慣れていなければ、少女の美貌にヤマトは圧倒されていたかもしれない。
「ふむ。落ち着いたようだな」
「ここはどこだ?」
「……何と答えたものか」
しばし思考を巡らせる様子の少女であるが、そこに困った様子はない。日頃は意識していないことを思い出そうとするような仕草。
「あぁ、そうだ。前に来た者たちは『ザザの島』と呼んでいた」
「ザザの島?」
「うむ。意味は分からないが、きっとそういう名前なのだろう」
あまりに無頓着な少女の振る舞いに、思わず苦笑いを漏らす。
「そのザザの島に住む、私の家だ」
「見つけてくれたというわけか」
「うむ。海に流れ着いていたところを偶然だが。そちらの者はそなたの知り合いか?」
言いながら少女が指差した方を見れば、ヤマトと同じく簡素な寝床に横たわるノアの姿がある。気配は感じていたものの、やはり実際に見ると安堵が込み上げてくる。
「あぁ、仲間だ」
「そうか。まだ目は覚めていないようだが、傷はない。あと少しすれば目を覚ますはずだ」
見れば、ノアの胸元が微かに上下しているのが分かる。呼吸の乱れもない。
嵐の大海原に放り出されて、体力は消耗していても、二人共五体満足でいられたのだ。運がよかったと言う他ない。
「そなたらの荷物らしきものは、そちらにまとめてある。何か足りなければ、後で案内するとしよう」
「何から何まで助かる」
壁際に荷物袋が数個並べられている。
見覚えのないものも混じってはいるが、ひとまず、自分の刀とノアの魔導銃が置いてあることに気がつき、溜め息をつく。
「俺たち二人の他に誰かいなかったか?」
「いや? 私が見かけたのは二人だけだな」
その表情に嘘をつくような様子は見られない。
だとすれば、船員たちや旅に同行していたゴズヌはどうしているのだろうか。
「仲間が他にいるのか?」
「……仲間、とは少し違うかもしれないが。同じ船に乗っていた者が少しいる」
「ふむ。既に村の者が救助しているかもしれないな」
特に親しくない相手とは言え、海の藻屑となったという結末はあまりに無慈悲だ。どこかで無事でいることを願うばかりだ。
心の中で軽く祈ってから、ヤマトは面を上げる。あまり気落ちしていても仕方がない。
気を取り直して、ヤマトは寝床から身体を起こし、少女へと向き直る。まだ倦怠感は取れないが、締めるべきところは締めなくては。
「うむ?」
「改めて礼を言う。俺は極東出身の冒険者、ヤマトと言う。この恩は必ず返すと約束しよう」
「うむ。気にすることはない。それが誰であろうと、怪我人を介抱するのは当然の行いだ」
それから、少女は一瞬だけ視線を彷徨わせる。
「どうかしたか」
「私も何か名乗ろうかと思ったのだが、流儀が分からない。どうしたものかとな」
その言葉に、ヤマトは思わず笑いそうになる。
人里離れた島に住む者らしい考えではある。
「大して格式張ったものではないのだから、名前くらいでいいはずだ。あとは、せいぜい職があれば述べるくらいか」
「ふむ。名前と職か」
応え、少女は口の中で何事かを反芻してから、口を開く。
「私の名はレレイだ。ここで、当主の真似事をしている」
「ほぅ?」
ヤマトの疑問の視線に、自嘲するような笑みを少女――レレイは浮かべる。
「大したことをしていないからな。ただの飾りの当主だ」
「それでも大したものだと思うが」
当主のあるべき姿は千差万別。積極的に手を下して変革する当主を求める者もいれば、ただ象徴として君臨しているだけでもいい者もいる。レレイは、後者に属する当主ということになるか。
そんなヤマトの言葉に、レレイはどう答えたものかと頭を働かせたものの、やがて説明しないままに口を閉ざした。
(ふむ?)
レレイの様子に、ヤマトは内心で首を傾げる。
通常、人というものは何かしらの権力を得ていることには得意になる生き物だ。そうでなければ、嫌悪感を抱くのが大抵の場合。だが、目の前の少女レレイは、そのいずれにも当てはまっていないように見える。自分が島の当主という立場に就いていることに、心底から関心がないような態度だ。
結局その理由は分からないものの、あれこれ詮索するのもよくないだろう。咄嗟に話題を変えることにする。
「ならば、この家も当主としてのものということか」
「そうだな。比較的広い方ではある」
言いながら、ヤマトは辺りをグルッと見渡す。
木造建築。帝国の技術が普及した大陸では、既にほとんど見られない建築様式だ。太い木材で大まかな枠を作り、その間を分厚い木の葉や枝で覆うようにして作られた家のようで、大雨が降れば雨漏りしそうな頼りなさも少し感じられる。
大陸の家屋と比べれば、正しく未開の文明のものと言ってしまいたくなるような簡素な家だ。だが、極東出身のヤマトからすれば、こうした家の方が馴染みがある。
ふと、家の中がずいぶんと静かなことに気がつく。
「一人で暮らしているのか?」
「……あぁ。おかげで持て余しているところだ」
そう応えたレレイの言葉に、一瞬の詰まりを感じる。
その正体を何となく察して、それ以上の追求をヤマトは取り止める。
「一人では何をするにも広すぎたんだ。二人がよければ、ここを使ってくれ」
「ならば、その言葉に甘えるとしよう」
右も左も分からない島に放り出されてしまうのは、少し困る。拠点を提供してくれると言うのだから、その言葉に甘えるべきだろう。
「う、ぅん……?」
「ふむ? そちらも目を覚ましたようだな」
ノアが呻きながら身動ぎをする。
それを見て、レレイは慌ただしく立ち上がる。恐らく、ヤマトにしたのと同様に水を持ってくるのだろう。
家の奥へ去っていくレレイの背中を見送る。その後を追おうと腰を浮かせてから、ヤマトは思わず溜め息を漏らした。
(しばらくは鍛錬漬けだな)
これまでの鍛錬で作り上げた身体が嘘のように、信じられないほどに鈍ってしまっている。立ち上がることすら意のままにできないとは。
幸いにも、身体を動かすくらいはできているのだ。ならば、これまで以上に身体を苛め抜く必要がありそうだ。
(長い道のりだ)
ここがどこなのか、正確な場所が分かったわけではない。
元いた場所へ戻るための手段も、未だ手がかりすら掴めていない。
前途多難とは正しくこのことだろう。あまりに多い難題を前に溜め息をつきたくなる。が、それと同時に。
窮地にあってこそ、魂は熱く燃えると言うが。沸々と好奇心や気力をたぎらせている自分の有り様に、ヤマトは苦笑を漏らす他なかった。