第49話
翌日。
アルスを襲った竜種の攻撃によって様々な建物が倒壊した中、奇跡的に無事であった海鳥亭で、ヤマトとノアは早めの昼食を前にしていた。
「ここもずいぶん静かになったね」
「昨日の今日だからな。仕方あるまい」
先日、ヤマトたちがこの海鳥亭に訪れたときには、席を埋め尽くすほどに元『海鳥』一派の男たちがいっぱいであったが。
今の海鳥亭は、そのときの喧騒が嘘であったかのように、静かで穏やかな時間が流れている。現在の客はヤマトとノアの二人だけ。看板娘であるララは所用で外へ出ているために不在であり、店主であるララの母親は、どことなく落ち着かないような佇まいだ。
とは言え、本来の飲食店ならばこれくらいの落ち着きはほしいところだ。特に何を思うでもなく、ヤマトとノアは卓上の昼食に手を伸ばす。
「あの人たちも、後遺症が残るようなことはないらしいね」
「あれくらいの切り傷ならば当然だ。充分に加減もされていた」
「あぁ、やっぱそうなんだ」
『海鳥』一派の男たちは、グランツの屋敷でロイと戦った際の負傷を癒やすため、現在療養中らしい。ヤマトの直感では、それはただの建て前だが。
ヤマトが到着したときには、見た目こそ派手に出血していたが、ロイに刻まれた傷口自体はそこまで深くなかった。加えて、早期にララが応急手当をしていたのだ。よほどのことをしない限りは、命を落とすような惨事にはならない。まだ一夜しか経っていないが、動けないような者はいないはずだ。
きっと、海鳥亭に彼らが姿を現していない原因は別のところにある。
(あれほどの醜態を晒してはな)
昨夜の一件までは、彼らは元『海鳥』一派としての誇りを胸に、この海鳥亭に足繁く通うことができたのだろう。未だにアルスでも屈指の実力者だと、自分たちを過信していた。
だが、現実は違うとロイに叩き込まれてしまった。かつて大海賊として名を馳せた頃の面影は既に失われ、ただの柄が悪いチンピラ同然になっていた現実を突きつけられた。過大な自信を木っ端微塵に砕かれてしまったのだ。
今の彼らがどうしているのかは、ヤマトには分からない。自信喪失のあまりに廃人同然になっているかもしれないし、かつての己に近づくため奮起しているかもしれない。ただ、いずれにしても。
(勘違いしたままよりは、何倍もマシか)
ノアやヒカルならば、違う意見を出すのかもしれないが。
その思いが、ヤマトの中では一番しっくり来るのが確かだった。
「早く元気になるといいけど」
「そうだな」
また元通り、海鳥亭が荒くれ者の集う場所になってしまうのは、少し心惜しい気もするが。
一刻も早く彼らが立ち直ることは、ヤマトとしても本望だ。
ノアへ頷き返しながら、ヤマトは焼き魚を口に運ぶ。相変わらず絶妙な味つけで舌を楽しませてくれるが、この前に来店したときとは、少しだけ味つけが違うように思える。
ヤマトと同様のことをノアも感じ取ったらしい。何度か不思議そうな表情で魚を口に運び、やがて納得したような表情になる。
「昨日より香辛料が控えめになってるんだ。その分、塩を上手いこと使ってるみたい」
「……なるほど。グランツが失墜したからか」
「たぶんね」
アルスではもはや一般的なほどに出回っていた、香辛料。それは、唯一遠海まで安全に航海し、そこでの収益を獲得してきたグランツの尽力があってこその富であった。だが、昨夜の一件を機に、グランツ率いる『刃鮫』一派は数多の知識と共に、跡形もなく姿を消した。
まだしばらくの間は、アルスから香辛料が尽きるようなことにはならないだろう。だが、それもいつまで保つか。やがては豊富な香辛料も希少になり、かつてのように価格高騰する未来が予想できる。
それを素早く察したからこそ、ここの店主は味つけの変更を決断したのだろう。
「流石の慧眼って感じだよね」
「元『海鳥』は伊達ではないということだ」
客のいない店内で、ララの母親は穏やかな面持ちで窓の外を眺めている。
彼女が何を思っているのかは想像できない。だが不思議と、アルスがどうなろうと海鳥亭は無事なはずだと、ヤマトには確信できた。
しばらく、無言のままで焼き魚を口へ運び続ける。
「――そういえばさ」
唐突に、ノアが口を開いた。
見れば、既に昼食を片づけてしまって手持ち無沙汰になってしまったらしい。
「どうした」
「ヒカルは今、復旧作業の指示に忙しいって話だよね」
「らしいな」
結局、昨夜の竜の襲撃はヒカル一人で片づけてしまった。その功績もあって、ヒカルはしばらく復興の旗頭として指揮を取らなければならないらしい。
アルス全体を揺るがすほどの衝撃であったために、その犯人であるところの竜の威圧感は、アルスに住む全員が目の当たりにした。普段は守り神として崇める竜の怒り狂った威容に、多くの者が恐慌したと聞く。だからこそ、そんな竜に単騎で立ち向かい、撃退してみせたヒカルへの人気は、グランダークでのそれを上回るほどに大きくなっている。
グランツが人知れず身を潜めたため、現在のアルスには主導者たる人物に欠けている。そこへ登場した勇者ヒカルという救世主の存在は、旗頭とするのにうってつけであったのだろう。
「大変だよねぇ。結局昨日は何も手助けできなかったし」
「俺たちで手が出せる戦いではなかった」
「ふぅん?」
面白がるようなノアの視線に、すっとヤマトは目を逸らす。
正直に言えば、ヒカルと竜の戦いに介入できなかったことに忸怩たる思いは残っているのだ。何の加護も得ていないヤマトとノアには荷が勝ちすぎていると理性で分かっていても、感情が納得していない。せめて、ヒカルの戦いを支援できていれば、心の慰めにもなっただろうが。
そんなヤマトの内心を悟ったか。楽しげな笑みを浮かべながらも、ノアはそれ以上言及することを止めた。
「それに、ここでの作業が終わったら聖地に行かなくちゃいけないんでしょ?」
「そういう話だったな」
「勇者様っていうのも忙しいね。まるで使いっ走りだ」
冗談めかしてノアは口にするが、きっとそれは、現在においては事実なのだろう。
着々と功績を積み上げているものの、今のヒカルは、救世の英雄というよりも太陽教会の使徒として見られている面が強い。いずれは待遇も変わるはずだと願う他ないが、ヤマトたちからすれば少なからず歯がゆい部分ではある。
もっとも、当の本人は少しも気にしていない様子だから、ヤマトたちがあれこれ悩むだけ無駄なのかもしれないが。
「ただ、そうなると僕たちは少し暇になるね」
「聖地には流石に入れないな」
ノアも苦笑しながら頷く。
聖地は太陽教会が唯一所持している土地だ。部外者が入ることは基本的に許されず、入るとしても、厳正な調査を経た後のこととなる。流石に、それほどの手間暇はかけられない。
「どこか行きたい場所とかある?」
「そうだな……」
問われて、ヤマトは窓から外を見やる。
アルスの街は竜の襲撃でボロボロに崩れているのに対して、海の方は平穏そのものだ。傍目では、いつもと変わらない穏やかな姿を見せている。
「まだ船には乗っていなかったな」
「島国巡りでもする?」
先に述べた通り、遠海の航海術はグランツ一派がほとんど独占していた。ゆえに、今から遠洋へ乗り出すのは困難が待ち構えているだろう。
だが、逆に言えば、今ならばヤマトと同様のことをする人が少ないとも取れる。
海を越えた先の島々には、帝国の文化に染まった大陸とはかけ離れた、言わば未開の文明が広く展開していると聞く。その島独自の作物や技術に武術が発展しているのだろう。噂では、魔導とは少し違う摩訶不思議な技を使う巫女の存在や、古代文明の遺跡が現存しているという話が流れてきている。
それらに思いを馳せれば、ヤマトの胸中に好奇心がむくむくと立ち昇ってくる。
「ふふっ、それじゃあ決まりだね」
「あぁ。出発はいつにする?」
「ヒカルに伝えなくちゃいけないけど、遅くとも数日の内に」
ノアの言葉に頷く。
ちょうど昼飯も食べ終える。
ララの母親に締めのデザートを注文したところで、店の扉がゆっくりと開かれる音がする。
「ふむ?」
「あらら、これまた意外な人だね」
ノアと共に思わず客の姿を確かめたヤマトは、そこに立っていた青年の顔に、感慨深げに頷く。
燃えるような赤い髪に、腰には二振りの曲刀。身体中に怪我の処置をした痕が残っているが、不思議と痛々しい印象はない。目の輝きが爛々と強く明るくなっているからだろうか。
「……お前たち、なぜここに」
「見ての通り、食事中だよ。この前立ち寄ったら美味しかったから」
ヤマトも首肯する。
赤毛の青年――ロイは、しばらく反応に困った様子であったが、やがて諦めたように溜め息をついた。
「それよりさ。ここに来て大丈夫なの?」
「さてな」
グランツの護衛としてヤマトたちに立ち向かってきたときには、ずいぶんと張り詰めた雰囲気をまとっていたようだったが。今のロイは、そのときよりもかなり砕けた態度になっている。
一度刃を交えた相手を前に気張るのも無理があるだろうと、ヤマトは内心で頷く。
店主がまだ厨房から戻っていないことを確かめて、ロイはヤマトたちの卓に同席する。
「その様子だと、とりあえず身の安全は確保できたってところ?」
「お前たちに教える義理はない」
ぶっきらぼうにロイは返すが、攻撃的な反応が返ってこない辺り、ノアの言った通りではあるのだろう。
グランツ。アルスを統治する立場ながら、魔王軍と手を組んで他の商船を襲うという非合法な行為を繰り返した罪人だ。本来であれば、その護衛をしていたロイも含めて、アルスの評議会なりに突き出すべきなのかもしれない。
しかし、去り際のグランツの様子や今のロイの様子から察するに、そうする必要はなさそうだとヤマトは判断する。
「そっか、まあ気をつけてね。知り合いが捕まったりするのはあまり気分よくないし」
「………」
「これからどうするの? 人の目を避けながら、再起の目を探るとか?」
無愛想な態度に懲りずに声をかけ続けるノアに、ロイは溜め息を零す。
「……そんなところだ」
「そっかそっか。また悪いことしてたら僕たちが行くから、注意した方がいいよ」
「肝に銘じるとしよう」
会話が途切れた辺りで、ロイは息をつきながら席を立つ。
「どこに行くつもり?」
「お前たちには関係ない」
「いや、せっかくだから挨拶していきなって」
呆れたようなノアの物言いに、反論しようとロイが振り返る。
そこへ、厨房からララの母親が姿を現した。皿を持ったまま、ロイを見て目を大きく開き、呆然とその顔を見つめる。
「ロイ!? あんた、なんで」
「母さん……」
手から滑り落ちそうな皿を回収して、ヤマトは店の端の卓に陣取る。
それについてきたノアは、見つめ合っている二人の様子を密かに伺いながら口を開く。
「離れ離れになっていた親子の再会、感動のシーンってやつだね」
「覗き見とは趣味が悪いな」
「失礼だねヤマト」
抗議しようと振り返ったノアは、ヤマトが目の前に置いている皿を見て、思わず表情を歪めた。
「ヤマト、それって……」
「おう。食べるか?」
「遠慮する!!」
何回嗅いでも強烈極まりない臭気が、ヤマトの鼻孔を攻撃する。
数日前までは食欲が減衰していたこと間違いなしの臭いであったが、その中央に横たわる黄色がかった果実の甘味を知るヤマトにとっては、さしたる問題ではない。木匙を手に取り、異形を見るような目つきになったノアを極力無視しながら、それを口に運ぶ。
「――うむ。やはり美味いな」
「絶対におかしいよそれ」というノアの言葉を聞き流しながら。
海鳥亭での時間は、穏やかに流れていくのだった。