第48話
屋敷から、刀を下げた青年と銃を手にする少女、そして『海鳥』のララが立ち去っていく。
彼らの背中を見つめながら、グランツは一人物思いにふけっていた。
(私はいったい……)
執務室に逃れてからここまで、今から振り返ってみればまるで理性的でなかったような気がする。感情に翻弄され、欲望と衝動のままに身体を動かす獣の如き有り様。それが晴れたのは、きっと彼らの刃が理由か。
いや、思えばもっと前から、自分は理性を保てていなかったのかもしれない。理性があるような演技だけをして、現実には、欲望を満たすことだけに腐心していた。
(いつから、こうなってしまったのでしょうね)
その独白と共に、グランツの意識は過去へとさかのぼる。
グランツがまだ幼い少年だった頃、アルスという街は文字通りの地獄であった。
人の死などは日常茶飯事。どんな非道であろうとも平然とまかり通り、力の大小だけで序列が決まる。強者は心ゆくまでの富を獲得し、弱者は完膚なきまでに搾取される。そんな街で、グランツは当時の『刃鮫』の後継者として育てられた。
思えば、ずいぶんと恵まれた少年期だったのだろう。悪党が跋扈するアルスの中で、身の危険を感じられずに成長して。理知的かつカリスマ性にも長けた父の背に憧れ、いつかは『刃鮫』を継ぐのだと無邪気に信じていた。それは、アルスの暗部を身に沁みて理解してからも変わらない。自分の手でアルスを変えてやるという意気が、今のグランツの根幹にもなっている。
そんなグランツの思いを、父は真摯に受け止めてくれた。グランツが成長すると、すぐに『刃鮫』を継がせて、自分は隠居して表舞台から去った。かくして、グランツによるアルス変革事業が幕を開けた。
(一番の難関だったのは、『海鳥』の戦いでしょうか)
『刃鮫』と同等以上の勢力を誇っていた海賊団『海鳥』。
万全を期して臨んだその戦いは、グランツの想定を凌駕するほどに激しいものとなった。アルス全体を巻き込んだ大抗争は、アルスという街を正真正銘の地獄へと変貌させた。死屍累々という言葉すら生温い惨状を目の当たりにして、グランツは初めて自分の行動に疑念を抱いた。
アルスを平和な街にする。その理念が間違っていたとは思っていないが、だからといって、アルスを地獄に叩き落とすような真似が許されるものか。
『海鳥』に競り勝ってからも、その疑念は晴れるどころか、ますます膨らんでいく。信頼していた仲間は戦いの中で死に、周りにいたのが元々は別の海賊だった者ばかり。誰にも心を開けず、信じられたのは自分だけ。そんなグランツが心の拠り所にできたのが、「金」だった。行動するたびに増えていく金の輝きだけが、自分を肯定してくれるように感じられたのだ。
(私は、どうすればよかったのでしょうね)
きっと、そのときのグランツは崖っぷちだった。
頼れる者を皆なくし、自分だけでアルスという街を支えなければならない。その重圧を前に、何かを拠り所としていなければ、グランツはとっくに潰れていたはずだ。そうして、金を拠り所にする道を得た。それがいつしか、金を集めることが――拠り所をより強くすることが目的になっていたのだ。
魔王軍の手を取ったのも、思えばこの時期だったか。今にして思えば、分かる。金のためにアルスの同胞を下そうとする行為の、いったいどこに正義があったのか。かつてのグランツは、それに納得するのだろうか。かつての『刃鮫』なら――。
グランツの思考を遮るように、地面が大きく揺れた。
視線を外へ向ければ、空が白くなっているのが分かる。夜明けだ。
『始まった』
クロが宣告した、竜種によるアルス攻撃。
どうにかしてアルスを守らなくてはならない。そんな焦燥感が胸に募るが、身体は少しも動こうとしない。目を背けたくなるほどの絶望が心を覆い、指先を動かすだけの気力も許さない。
『……終わりですか』
分かっていたはずだ。
グランツが必死に作り上げてきたアルスが、今にも崩れ去ろうとしている。慕っていた父から任され、信じた『刃鮫』の仲間たちから託されたアルスを、魔王などという存在の気まぐれで壊される。
覚悟はしていた。だが、この感情はどうしたものか。
(我ながら、未練がましいですね)
大地に亀裂が走る。
屋敷の壁が縦に割れ、床も真っ二つに割れる。天井も崩れ、瓦礫が降ってくる。
『ここで死ぬのも、一興でしょうか』
「――グランツ様! 早くここを出ましょう!!」
無気力に虚空を眺めていたグランツの肩を、ロイが揺さぶる。
ロイ。『海鳥』の息子であり、男であるがゆえに後を継ぐことはできないものの、優れた才覚ゆえに『海鳥』一派の中核となっていた青年。『海鳥』に辛勝したグランツが、『海鳥』の力を削ぐと共に人質とすべく引き抜いた男だ。契約でひたすらに縛りつけたから、この男だけは傍に置くことができた。だが、それもここまでだ。
アルスが崩壊する。つまり、これまでの契約全てが無効となる。きっと、ロイは恨みを抱いているはずだ。復讐されても不思議ではない。
『死に様など、何であっても変わりませんか』
「グランツ様!? 私の声は聞こえていますか!!」
何を躊躇っているのだろう。その腰に下げた剣で、早くこの首を落としてしまえばいいのに。
ぼんやりとロイの顔を見つめていたところ、「失礼します!」と声をかけてから、ロイがグランツの肩を支え、立ち上がる。
『何を――』
「まずはここを出ましょう! 全てはそれからです!」
場所を選ぶつもりか。
何を考えるでもなく、ロイに連れられてグランツは玄関の戸へ近づく。唐突に、その扉が開け放たれた。
「グランツ様! ご無事ですか!」
屋敷の衛兵だ。
元々はアルスを拠点に活動していた海賊の一味。飴と鞭の契約で縛り、警護の任に就かせていた連中。
(あなたたちも、きっと私を……)
何も信じられない。何を信じる気にもならない。
かつては心の拠り所となった金や自分自身ですらも、今は信じることができない。まるで心が死んでしまったかのように、感情すらも凍てついている。
「グランツ様、そのお姿は……」
「話は後です! まずはここを脱出します!」
「はっ! かしこまりました!」
ロイの言葉に敬礼した衛兵までもが、「失礼します」と声をかけてから、グランツの肩を支える。
これ以上、自分に何をさせようというのか。もはや灰同然に燃え尽き、風に吹かれて散るしかできない自分に、何を。
惑うグランツの心境を他所に、二人はグランツを屋敷の外へ担ぎ出す。庭へ出ると、屋敷を守護していた衛兵たちが皆、どこか憔悴した様子ながらも、グランツの方へ駆け寄ってくる。
「グランツ様! ご無事でしたか!」
「申し訳ありません! 賊を中に入れるなど、守衛としての恥! いかようにも処分を!」
「今やアルス全体が危地です! まずは安全な場所へお逃げください!」
『お前たちは、なぜ』
なぜ、自分を守ろうとするのか。
跪き頭を垂れる衛兵たちの目には全て、グランツへの忠誠が浮かんでいるように見える。かつて『刃鮫』にいた者たちと同じ目だ。
信じられない。全員、グランツに恨みを抱いていたはずだ。だから、契約で縛りつけた後も必要以上に近づけず、距離を保つようにしていた。なのに、なぜ彼らの姿が重なるのか。
そんなグランツの思いを悟ったわけではないだろうが。
グランツを庭の中央に座らせたロイは、その前で膝をついた。
「グランツ様! 我ら一同、グランツ様へ変わらぬ忠誠を誓っております!」
ロイに続いて、衛兵たちも膝をつく。
その全員の目に、固い意思が秘められているようだった。グランツが思わずのけぞるほどの輝きを、目の奥に宿している。
『なぜ、私に……』
「グランツ様は私たちの故郷を、このアルスを変えられました。グランツ様のおかげで、今のアルスは皆に誇れる街になりました」
「グランツ様がアルスを何よりも愛していること、私たちも分かっています」
「その理念に賛同したからこそ、私たちはグランツ様に従っているのです!」
口々に衛兵たちがグランツを称賛する。
その言葉に偽りがないことを、目の当たりにしたグランツは理解できる。全員が心から、グランツのことを慕っている。
いっときだけの感情かもしれない。ただの勘違いかもしれない。魔王軍と結託した真実を知れば、その心が離れるかもしれない。そんな疑念が胸中に渦巻くも、
(信じてみても、よかったのかもしれませんね)
同じアルスに住み、同じアルスを愛する同胞なのだ。
そのことに、今更ながら思いが至る。
(けれど、もう遅いでしょうか)
諦念で頭を垂れるグランツの耳に、その轟きが届く。声だけで大地を揺るがすような恐ろしい叫び声。
視線を上げれば、朝日が姿を見せつつある空を、一頭の竜が舞っているのが分かる。長年に渡ってアルスを守護してきた竜種だ。その守り神の手によって、アルスは崩壊する。
人が竜に抗うことなどできない。アルスに住む全員が一丸になったところで、あの竜の攻撃を食い止めることは難しいだろう。
「――あれは」
そんなグランツの諦めを打ち砕くように、ロイが小さく呟いた。
釣られてロイが見ている方へ視線をやると、一人の鎧武者が、アルスに背を向け、竜の前に立っていることが分かる。
『勇者、ヒカル』
遠目で顔は見えないが、そう直感できる。身にまとっているのは、評議会が保管していたはずの鎧に似ているが、記憶の中の姿よりも遥かに輝きを増しているようだ。
幾ら勇者と言えども、竜に抗うことなどできない。その思いの裏腹で、勇者ならばもしかしたらという思いもまた生まれる。
無意識に願いながら、グランツは勇者と竜の相対するところを見つめ続ける。その視線の中、竜がゆっくりと動き出した。
それからは、正しく伝説の再来と言うべき光景であった。
『あなたは、それほどまでに……』
「凄まじいものですね」
怖気がするほどの勢いで猛攻する竜に対して、それを正面から勇者ヒカルは受け止める。
物理的威力を伴った咆哮を聖剣の一振りで相殺し、尾の一撃を腕で払い除ける。振るわれた爪には聖剣の刃を合わせ、頭からの突貫すらも全身で押さえ込む。対して、勇者が振るう聖剣の刃を、竜は受け止めることができていない。剣が薙ぐたびに竜鱗が弾け飛び、大地に血飛沫が降り注ぐ。
あれが人であると言われて、信じられるものか。宝石の力を手にしたグランツであっても、勇者の前では塵芥と同然であろう。
勇者と竜の戦いが均衡を保っていたのも、結局は一瞬だけだった。次第に、勇者ヒカルが竜を圧倒し始める。
その姿を見て、グランツは胸中から、長らくドロドロと渦巻いていたわだかまりが解けていくのを自覚した。視界が明るくなり、頭がかつてないほどに軽やかに回る。身体を蝕むほどに荒れ狂っていた力が、いつしか、グランツが意識せずとも制御できるようになっていく。
「――完敗ですね、これは」
いつしか、体皮から黄金色の鱗が姿を消していた。爬虫類同然だった面長の顔も、人だった頃と同様に戻っている。
一際強い光を伴った聖剣の一撃が、竜の全身を飲み込む。苦悶の叫び声。全身を傷つけられた竜が、ゆっくりと海へ帰り、遥か彼方へと逃げるように去っていくのが見える。
危機は去った。
アルス中から轟くような歓声を浴びる勇者ヒカルを最後に見やって、妙に晴れ晴れとした表情のまま、グランツは溜め息を零した。