第459話
「ヒカル、どうして——」
問いかけて、今はそれどころではないと考えなおした。
弛緩しかけていた手の力をこめなおし、ヒカルのほうへ向きそうになった顔を黒竜へと固定させる。
ヤマトの代わりに問いかけたのは、アナスタシアだ。
「お前。どうして手を出した!?」
「どうしてだなんて、大層な理由はないよ。ただ見ているだけなんてことはできなかった。それだけ」
「分かってるのか! 加護もほとんど残ってない今のお前じゃ、あいつとまともに戦うことはできない。今の攻撃だって、マグレみたいなものなんだろ?」
「それは……」
詰問するアナスタシアの声を他所に、ヤマトは黒竜の様子を窺う。
見たところ、ヒカルの一撃は大きなダメージを与えられたらしい。グニャリと身体をゆがめた黒竜は、もともとの人型を保つこともできず、むしろ泥だまりに似た姿で地面に散乱していた。
ともすれば死んでいるような姿でもある。
だがその身体から、依然として強い覇気——強者のみが放つ風格がただよっていることを、ヤマトの本能は鋭敏に察していた。
(もうひと押しか、ふた押しか。いずれにせよ、まだ気は抜けそうにない)
追撃するべきだろうか。だが追撃するとしても、どのように?
そう逡巡するヤマトの耳に、再びアナスタシアたちの会話が滑りこんできた。
「悪いことは言わねえ。お前は今すぐにここから離れろ。ここにいちゃ、黒竜の敵意を買うことになる」
「……それはできないよ。私も戦う」
「どうして! 自殺行為だ!」
「それでも。私がいることで、少しでも役に立つなら——」
背中に強い視線を感じた。
ひとまず黒竜に動きがなさそうだと確かめてから、振り返る。
「ヤマト。いいよね?」
「………」
「足手まといにしかならないっていうなら、正直に言ってほしい。けど今の私なら、あいつの気を惹くくらいのことはできる。それは、ヤマトの役に立つはずだよ」
顔をしかめた。
それはつまり、ヒカルを捨て石として使えということだ。彼女の身を守ろうなどとは考えず、ただのデコイとして利用しろと言っている。
心理的抵抗を度外視すれば、確かに有効的な手だ。ただ一点に集中されていた黒竜の敵意を、二点に分散できる。ヒカルがほとんど戦力にならなかったとしても、その意義ははてしなく大きい。
——だとしても、だ。
(そんなこと、できるはずがない!)
そう吐き捨てたい衝動を、すんでのところで抑えた。
深呼吸を数回繰り返して、荒ぶる鼓動を落ち着けさせる。
「……どうしても、やる気なのか」
「もちろん」
「危険だ。これまでとは違って、俺もフォローできるとは思えない。ヤツに狙われたときには、ヒカルひとりで戦わなくてはならない。……それでもか?」
「それでも、だよ」
恐怖を感じていない、わけではない。
だがヤマトを見返すヒカルの瞳には、いつになく強い光が宿っていた。どれほど言葉を重ねてみても、彼女が翻意することはない。そう確信してしまえるほどの、まぶしい眼光だ。
思わず溜め息がもれる。
「なぜ——」
「うん?」
「なぜ、そこまでして戦おうとする。お前はもともと戦いは好きではない、むしろ嫌いだったはずだが」
気がついたときには、そう問いかけていた。
対するヒカルは、少し驚くように眼を見開いた後——ややあってから、恥ずかしそうに視線を逸らした。
「……友達だから、だよ。たぶん」
「なに?」
「友達だから。友達が危ない目に遭おうとしているのに、知らないふりなんてできない。それだけ」
死地に向かおうとする人の想いとしては、あまりに素朴なものだ。
だが――だからこそ、真実味が増している。
気恥ずかしそうな表情と、その反対に力強い眼差し。そのふたつを見比べて、ヤマトは諦めの溜め息をもらした。
「……仕方ない」
「ヤマト!?」
アナスタシアは素っ頓狂な声をあげる。
だがそれに構うことなく、ヤマトは黒竜へと向きなおった。
「それより、そろそろヤツも動くぞ」
気配だけは、先程から強く感じていた。
地面にぶちまけられたようなスライム。その欠片が、ヤマトたちの視線の先で、段々とひとつの形にまとまっていく。
「効いていなかったの!?」
「いや、そんなことはないはずだ」
人型を取り戻していく黒竜。
だがその肉体から感じられる覇気は、ひと目で分かるほどに減じていた。
あれがなんらかの擬態でないならば、ヒカルの攻撃はちゃんと効いていたと考えていい。
(黒竜もちゃんと弱っている。まだまだ希望はあるんだ)
己を鼓舞する言葉。
だがそれは、決して儚い希望などではない。むしろ煌々と輝くほどにまぶしい希望だ。
こんこんと湧いてくる力を身体にめぐらせて、ヤマトはヒカルとともに黒竜と向かい合った。