第455話
黒い刃が空をはしる。
数多の情念が重なり、一種の呪いをおびてしまった刀。その力を最大限に引きだした斬撃は、常人であれば、肌をかすめることすら危険な代物だ。
だがそれは、あくまで常人であればという話にすぎない——はずだった。
『———ッ!?』
瘴気の刃を浴びて、黒竜が苦悶の叫びをあげた。
間違いなく、効いている。
だが刀を振りぬいた張本人であるヤマトは、その黒竜の姿を目の当たりにして、思わず眼を点にさせた。
「これは……」
「——っ。考えるのは後だ! たたみかけるぞ!!」
ラインハルトが叫ぶ。
その声に我を取り戻したヤマトは、振りぬいた刀を脇に戻し、膝に力を溜めた。
黒竜は悶え苦しむように身をよじっており、まだヤマトたちのことを眼中にとらえていない。
たたみかけるならば、今だ。
「続け!」
「言われるまでも!」
ラインハルトが踏みこみ、続いてヤマトも間合いを詰める。
初手はラインハルト。腰もとに構えた軍刀を、駆ける勢いをそのまま横一文字に薙ぎはらった。
岩どころか鋼をも断つほどの鋭い一撃。
だが対する黒竜は、刃の勢いにグニャリと身体をゆがめるものの——ついにその場から跳ね飛ばされることもなく、しなりながら受け切ってみせた。
ラインハルトの横顔がゆがむ。
「チッ」
「——退けっ!」
一瞬の停滞。
ラインハルトと黒竜の視線が交錯していたところへ、ヤマトは声をあげた。ふたりの間へ割って入るべく駆けぬけ、刀を振りかぶる。
『———ッ』
「くっ!?」
明確に、黒竜からあふれる敵意が濃くなった。
なにがなんでも刀を振らせまいとする、強い敵意。
わずかにたじろぐものの、停滞はほんの一瞬だけ。すぐに気を取りなおし、萎みかけた闘志をたぎらせた。
踏みこみ、刀を振る。
「しッ!」
『———!?』
かすかな手応え。
過敏になった神経のままに視線をはしらせれば、刀の先に、わずかほどだが黒竜の欠片が付着していることに気づいた。
(やはり効いている。だがなぜ——)
考えてみる。
が、当然ながら答えが浮かぶはずもない。
斬られた衝撃に再び黒竜が苦悶したところで、ヤマトはハッと我に返った。
「まだ終わっていないぞ!」
「分かっている!」
ラインハルトの警告に従い、勢いよくバックステップをした。
直後、ヤマトがいた場所を黒竜から生えた鞭が薙いだ。
「ちっ」
狙いこそブレていたものの、その一撃にこめられていた威力と殺意は段違い。執念じみた敵意をもって、ヤマトを殺そうとしていた。
気を抜けば、たった一撃で勝敗が決することだろう。
背を駆ける悪寒を舌打ちでごまかし、身体の震えをすんでのところで抑えこんだ。
「……お前、ヤマトといったな」
「む」
間合いを離してひと息吐いたところで、同じく体勢を整えているラインハルトは口を開いた。
黒竜への警戒は解かないままに、ヤマトも応じる。
「なんだ」
「お前の攻撃だけがなぜ通っているのか。聞きたいことはあるが、今は置いておく」
言いながら、ラインハルトは黒竜を指差した。
「ヤツに通るというならば、話は早い。お前はひたすらにヤツを斬れ。俺がサポートする」
「……分かった」
「好きなタイミングでしかけろ。後は俺が合わせる」
力強い言葉だ。
本来ならばラインハルトの力量が勝っているのだから、彼が主導となるべきだろう。だが黒竜に対しては、ヤマトの攻撃だけが通用しているという不可思議なことになっている。
少々歪な構成ではあるが、こうするのが手っ取り早い。
(なにはともあれ、俺はヤツを斬る。それですべてが片づく)
深呼吸をひとつ。
複雑な感情を腹の底へ飲みこみ、刀を正眼に構えた。
「行くぞ」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
慎重に間合いを見計らい、機を窺う。ヤマトのそうした動きを察したのか、ラインハルトは静かに剣気を昂らせていく。
そのまま静止すること、数十秒。
『———ゥ』
黒竜の身体が、かすかに揺らめいた。
(ここ——!)
踏みこむ。
十メートルほどは開けていたところを一瞬で詰めた。すぐに刀の間合いに入る。
腰をひねり、その力を刀身へ。
『——ッ!』
「叩っ斬るッ!」
横一文字の斬撃。
先のラインハルトに比べれば、月とスッポンにも等しい劣悪な太刀筋だろう。だが黒竜にとっては、こちらの刀こそが脅威に映る。
ラインハルトを前にみせた余裕などわずかほどもなく、黒竜は身をひるがえした。
紙一重のところで、刀が空を斬る。
「チッ」
「——まだだ!」
わずかな空隙。
だが黒竜が反撃に転じるには十分以上の隙に、今度はラインハルトが割りこんだ。
疾風のごとき踏みこみのまま、すくいあげるような軌道で軍刀を振りぬいた。
『———!?』
「いけヤマト!」
相変わらず、ラインハルトの一撃はまるで効いていないようにみえる。
だがその衝撃だけはそのままに、黒竜の身体を空へ浮かせた。
絶好の機。
振りぬいていた刀を脇に戻し、再び黒竜との間合いを詰めた。
「今度こそ!」
避けられるタイミングではない。
黒竜の身はいまだ空中にあり、もがいたところで高が知れている。対してヤマトのほうは万全の体勢にあり、生半可な抵抗ならば無理矢理斬ることができる。
まさしく必殺。
——だからこそ、心の片隅に慢心が生じた。
「これは……っ、退がれ!!」
ラインハルトが叫ぶ。
一瞬、その意図が理解できなかった。
わずかなためらいが足取りを遅らせ、太刀筋を鈍らせ、さらに隙を大きくする。
警告の意味が理解できたときには、ほとんど手遅れに近い状態だった。
『———……ッ』
空中で身体を丸めて、黒竜が力を溜めていた。
なにか大技を放つつもりなのか。
遅すぎる危機感が身体をめぐり、少しでも距離を離そうと足が勝手に動く。
だが、もう遅い。
『—————ッッッ!!』
咆哮。
だがただ叫んだというだけではない。空気の揺れが破格すぎるがゆえに、その波はヤマトの肉体を撃ち、体幹をも崩す。
つかの間だが、視界が黒く染められた。
(まずい……!)
時間にしてみれば、一秒にも満たないだろう。
だがそれほどの間を無防備でいたことは、この戦いにおいてはあまりに大きな意味を持つ。
気がついたときには、黒竜は着地を済ませていた。
攻勢に転じる。
『ゥ———』
わずかに身体を屈曲させた黒竜が、ヤマトの胸もとに向けて突進する。
見た目でこそ軽くも思えるが、そこに秘められた威力は破格のひと言。直撃したならばただでは済むまい。
なかば諦めにも似た感情がこみあげるなか。
ヤマトと黒竜との間を、さえぎる者がいた。
「させるか!」
「な……っ」
ラインハルトだ。
黒竜の突貫からヤマトを庇うべく、剣を胸もとに構えて割りこんでいた。
瞬時に黒竜の狙いを看破し、その間に割って入った度量はすさまじい。だがそんな英雄の力をもってしても、黒竜の一撃を凌ぎきることは難しかったらしい。
ヤマトの眼前にあった頼もしい背中が、跳ね飛ばされた。
「ラインハルト!?」
ノアの悲鳴。
だがそれに構っているだけの余裕も、今はなかった。
攻撃を終えた直後だというのに、黒竜に隙はない。気がついたときには体勢を立てなおし、今度こそはとヤマトへ意識を向けていた。
(ここで攻め——いやだめだ!)
とっさの判断。
今度のそれは、どうやら功を奏してくれたらしい。
バックステップで間合いを離せば、そのすぐ後を黒竜の鞭が薙いでいった。あと数瞬ほどでもためらっていれば、ヤマトも無事ではいられなかったことだろう。
ツッと冷たい汗が背を伝った。
(どう戦えばいい。多少はヤツの速さに眼も慣れてきたが、まだ追いつけてはいない。どうすれば……)
攻めれば熾烈、守れば堅牢。
ラインハルトとのふたりがかりをもってしても、たやすくは破れない難敵だ。しかも先の交錯を経て、ラインハルトは大きなダメージを負ったとみえる。
ヤマトひとりで、どう戦えばいいのか。
刀を構えてはみたものの、迷いがグルグルと渦巻いていた。気づかないうちに切っ先が震え、狙いが定まらなくなっていく。
「チッ」
焦りを怒り、苛立ちでごまかした。
そうこうしているうちに、黒竜は再びヤマトへ狙いを定める。
『———』
(来るか)
身構える。
初動を見逃すまいと眼を鋭くさせたヤマトだったが、対する黒竜の動きに、思わず首を傾げそうになった。
「なにを……?」
ぐにゃりとたわんだ。
スライムの身体が柔軟すぎるほどに伸縮を繰り返していく。ヤマトに対する敵意だけはそのままだが、今のところはそれ以上のモノは感じられない。
ゆっくりと、黒竜が変形していく。
『———ッ』
餅のような造形だったスライムが、縦方向に伸びていく。
やがて突起が五本。ちょうど人の手足頭を模すように、黒竜の身体から生えでた。
(あれは、人を真似ている。竜の里を襲ったときのモノか?)
黒竜の姿を前にして、ヤマトは眼を見張った。
小人だ。
かつて竜の里を襲った際にも、黒竜はその形をとっていた。人そのままではなかったが、人が使うような技を模倣していたことを覚えている。
(だがなぜ今になって。人の形を模倣することに、なにか意味があるのか)
思案する。
だがその答えが導かれるよりも先に、変形を終えた黒竜は闘気を噴きあげた。
『———!!』
片腕の先から、刀が生えてくる。
その変化に驚愕する間もないうちに、黒竜はその腕を鞭のようにしならせ、離れた間合いから刀を振りぬいてきた。
「な……っ」
戸惑いながらも、本能が全力で警鐘を鳴らした。
その意味が理解できないながらも、身体が勝手に動くがまま、衝撃に身構えて。
「ぐっ!?」
すさまじい衝撃に、意識が暗転した。