第452話
『——ぉ——』
魔王。
理性を失い、魔族の王らしい壮麗さをも失ってしまっている。ただ悶え苦しむばかりの姿を見るかぎり、まともに戦えるようには思えない。だがクロの言葉によれば、それでも魔王の特性——勇者以外には屠れない加護だけは、いまだに宿しているようだ。
「……加護に喰われたか。単にその器でなかったのか、それとも重すぎる責に耐えられなかったか。いずれにせよ、ここで引導を渡してくれる」
ラインハルト。
帝国の武を象徴する英傑であり、その戦いぶりは百戦百勝。真偽は定かではないが、彼はその身に絶対勝利の加護を宿しているという。なんにせよ、竜を退けたクロをものともしなかった武勇は、まぎれもなく本物だ。
勇者以外には屠れぬ魔王と、帝国の敵すべてを屠るラインハルト。
互いに相手が不倶戴天の敵であると直感しているのか。真っ向から向かい合い、一歩も譲るまいと牽制し合っているようですらあった。
そして、そんな彼らを背にして笑う者がひとり。
「壮観ですねえ。かたや世界を滅ぼす魔王に、かたや帝国を導く英雄。どちらも奇特な因果によって守られ、ゆえに大抵の手では退けることもできない」
「クロ……!」
「どちらの因果が——呪いが上をいくかは、少し気になりますが。せっかく稼げた時間を、無駄にはできません」
ラインハルトと魔王の戦いは、すでに幕を開けていた。
戦いの趨勢はラインハルトに傾いているだろう。鋭い踏みこみで果敢に攻めたてるラインハルトに対して、魔王はろくに反撃もできず、ひたすら耐えているようにみえる——が、傷は浅い。いくつもの斬撃を身に受けながらも、そのたたずまいが崩れることはない。
クロが言う通り、決着がつくまではまだまだ時間がかかることだろう。
(ラインハルトの応援には期待できない。ならば——)
ヤマトたちの手で、クロの狙いをくじくしかない。
その想いを胸に視線をめぐらせれば、ノアたちも小さくうなずいてくれた。
だがそんなヤマトたちの考えも、クロにとっては想定内だったのだろう。
機先を制するべく、トンと足踏みをひとつ。
(一歩遅れたか)
気がついたときには、巨大な魔法陣が空に描かれていた。
それがなにを意味しているのかを、読解することはできない。だがノアやリーシャたちの反応を窺うかぎり、よくないモノであることは確かなようだ。
警戒を強める。
だがそんなヤマトたちを嘲笑うように、クロは魔法陣にこめる力を高めた。
「ちっ、まずいな」
「アナスタシア?」
「さっさと止めねえと面倒なことになるぜ」
その脅威は分かりながらも、クロがなにをやろうとしているかが分からないため迂闊に手を出せない。
そんなヤマトの耳に、アナスタシアの忌々しげな言葉が滑りこんできた。
思わず眼を向ける。
「あの陣の正体が分かるのか?」
「大まかな推測ができるってくらいだけどな」
首肯をひとつ。
アナスタシアの言葉に、クロが興味を惹かれたように視線を移した。
「聞かせていただいても?」
「大陸南部でわずかに伝えられている、勇者召喚の儀。その魔法陣の、ちょうど逆模様が多用されている」
「……へえ」
「つまり——送還の術式ってことだろ。異世界からここに人を拉致する召喚術とは逆で、ここから異世界へ人を送りこむ送還術」
おもむろに、クロは手を叩いた。
「お見事! 念のためにあなたには術を見せないできましたが、どうやら正解だったようですね。まさかひと目見ただけで看破されてしまうとは」
「特に隠蔽もされていないんだ。知識があるやつが見れば分かる、それだけだろ」
「勇者召喚の術式を正確に理解している人なんて、あなたくらいしかいませんよ」
会話を聞きながら、ヤマトは思案する。
送還術。
つまりクロが用意している術は、ただ移動するためだけのモノということ。
ならば、クロにケジメをつけさせられないという一点に目をつむるならば、へたに手を出さないほうが賢明なのでは——、
だがそんなヤマトの思考に、アナスタシアは明確な否定をもって答えた。
「世界を渡る術。そんなモノが、なんの代償もなく使えるはずがない」
「……どういうことだ」
「世界には、ある種の隔壁とでもいうべきモノがある。世界がひとつの存在であるためには、なくてはならないモノ。だが召喚術やら送還術ってやつは、その隔壁に風穴を開けようとするんだ」
聞くからに、いい感じはしない。
そんなヤマトの直感に、アナスタシアは首肯で応じた。
「勇者召喚の儀ってやつは、世界を管理していた遺物——いわゆる人工神がになっていた。人が想像できるレベルを越えた演算能力で、世界に悪影響が出ないように術式を発動させていたんだ。だが——」
「私が不用意に穴を開けてしまえば、どうなるか分からない」
「……ま、そういうことだ」
アナスタシアの懸念を、クロは言い当ててみせる。
「一番ありえるのは、別世界との融合か。割れた穴から別世界の情報が流れこみ、そのまま混ざっちまう可能性。だがまあこれは、またひとつの形に落ちつくって意味で楽観的でもある。問題は起きるだろうけどな」
「………」
「だが一番やべえのは、隔壁がそのまま崩れちまうことだ。世界がひとつの形に留まることができず、次元間の闇に飲まれる。そんなことになればすべてが終わりだ。……いや。それこそがお前の狙いなのか?」
にわかに緊張感がはしる。
相対するクロは、変わらず感情の読めない黒眼を濁らせ——ふっと嘲笑った。
「かもしれません。ですが、私にはもう関係ないことです」
「な——っ」
「復讐したいという気持ちがないとは言いません。やろうと思えば、今の私ならばきっと簡単にできるでしょう。——ただそんなもの、今となってはどうでもいい。私が去った後にどうなろうが、もはや知ったことではない」
伊達や酔狂で、そんなことを口にしているようではない。
まごうことなく本心。
心の奥底から、クロはこの世界のことをどうでもいいと考えている。彼の目的はただひとつ——異世界へと渡ることのみに、向けられているようだ。
黒い瞳の奥深くに隠された、燃えたぎる意思の炎。それを目の当たりにしたヤマトは、これ以上の問答が無意味であることを悟ってしまった。
「そうか」
腰もとの刀に手をかける。
結局、ヤマトたちがやることは変わらない。立ちはだかるクロの意思が想像以上に重かったからといって、道を明け渡すわけにはいかないのだから。
「ヤマト……」
「退がれアナスタシア。ここからは俺たちの戦場だ」
口で言い聞かせたところで、今さらクロが翻意することはない。
ならば後は、どちらの道理が通るかを競うのみ。
決意を新たに刀を抜きはらえば、それに続いてノアたちも構える気配がした。
「ククッ。分かりやすくて結構なことです。どれほど言葉を尽くしたとて、最後には力で押し通す。人がなんども繰り返してきた過ちであり、ゆえに、なによりも確実に解決する」
「ぬかせ」
「ただ問題点をあげるならば、あまりにも現実が見えていないというところでしょうか。力をもって無理にでも私を止めようとする。その気概は立派ですが、あまりにも無謀だ」
そんなことは、言われずとも分かっている。
相手はクロ。しかも人工神とやらの権能を奪ったとかで、その力は大きく増している。至高の竜種五体をあっという間に封殺した手並みは、およそ人の常識では測れないほどのものだ。
対するヤマトたちは勇者一行という肩書きこそあるものの、結局のところは人でしかない。大なり小なりの加護に守られたところで、果たしてクロに届くのかどうか。
(だが、やるしかない——!)
勝ち目が薄いことは百も承知。
それでも、万が一の勝利に賭けなければならない。
どこか悲壮的ですらある決意を胸に、まずはヤマトが先陣を、
『—————ッッッ!!』
雄叫びが、どこからともなく吹きぬけた。
誰があげた咆哮なのか。
皆が咄嗟に魔王のほうを見つめたが、そちらに変化はない。魔王は相変わらずラインハルトと相対し、その勢いに圧されている。
では、誰が?
その疑問を皆が頭のなかに浮かべたところで。
(——っ。この気配は……!?)
ヤマトの肌が粟だつ。
誰よりも早くヤマトが勘づいたのは、ほとんど偶然だ。あえて理由をあげるならば、ヤマトは“それ”との対峙をいくつも重ねてきたから、気配に鋭敏になっていたから。
ともあれ、少なくない衝撃を胸にしたヤマトが、察知した気配のもとへ視線を投げて。
いた。
『———』
人の頭ほどのサイズ。
つるりと滑らかな表面に、ゆがみない起伏を描く形。例えるならば——そう、餅に近いか。
ヤマトの視線を受けていることが、果たして関係しているのかどうか。ふるふると柔らかく震えた餅は、その黒い身体を、
(黒い身体?)
ガチッと脳の奥でナニカがはまる音がした。
同時に、黒い餅——否。黒いスライムは、小刻みな震えを止める。
ゾッと悪寒がはしった。
「こいつ、黒竜——!?」
『—————ッ』
悲鳴をあげる暇もない。
ただがむしゃらに後退するしかできなかったヤマトの前で、黒いスライムはギュッと小さく萎み。
閃光と爆音とをともなって、大爆発を引き起こした。