第450話
「なにを言って……」
クロからの提案に、ヒカルはかすれた声で問い返した。
そこには当惑の色がほとんどではあったが、ほんのわずかに、藁にもすがるような希望の色がふくまれていることに、ヤマトは気がつく。
それと同様のことを悟ってか。クロの口もとがゆるやかに孤を描いた。
「協力といっても、そう難しいことではありません。あなたがあの神に召喚されたときの術式を、私に解析させてほしいのです」
「………」
「私の記憶を頼りにするには、少々時間が経ちすぎていますからね。座標を正確に追うために、できれば協力していただきたいのですが」
「いかがですか?」と問う視線をクロはヒカルに向ける。
ヒカルは兜のなかで視線をさまよわせながらも、口は開かない。拒絶——ではなく、逡巡しているからだ。
ヒカルが胸に秘めていた、強い望郷の念。
それを知るヤマトからしてみれば、その逡巡はたやすく理解できるものだ。
(ヒカルがもといた世界に帰る。そのことだけを優先するならば、クロの手を取るのもひとつの手だ。だが……)
これまでの彼の行い——いくつもの街でむやみに混乱を招いてきたことを思えば、安易に信用するわけにもいかない。
きっとヒカルも、そのことには思いがいたっているはずだ。
それでも、胸を焦がす望郷の念が、彼女に首を振らせることをさせない。
このまま待っていても、状況はよくならないだろう。
(しかけるか?)
『殺るの?』
(タイミング次第にはなるが)
そっと刀を握る手に力を入れなおす。
クロは竜たちを片手間で封殺してしまえるほどの敵手だ。ヤマトひとりが立ち向かったところで事態が好転するとは思えないが、かといって黙って見ているわけにもいかない。
ダメもとでも、やってみるべきだろうか。
迷うヤマトをよそに、クロはヒカルへと詰め寄っていた。
「賛同しては、いただけませんか」
「……それは」
「仕方ありません。無理強いをすることはできませんからね。ここはおとなしく私ひとりで——」
気落ちした雰囲気でクロが踵を返す。
自然、クロの視界からヤマトの姿は消え——瞬間、雷光のようにヤマトの脳裏に直感がはしった。
『殺っちゃえ!』
「———ッ」
神速の踏みこみ。
ものの一秒にも満たない時間で、クロを刀の間合いにとらえた。
その背を視界の中心に収め、腰もとに構えた刀に渾身の力をこめる。
「あなたなら、きっと来ると思っていましたよ」
「くっ!?」
悪寒がはしった。
今すぐに退かなければ、取り返しのつかないことになるという直感。それに従い、足先が鈍る。
クロがゆっくりと振り返る。
(退くには——近すぎる! もう退がることはできない!)
焦りが頭のなかを埋めていくなか、わずかに残った理性で判断した。
ヤマトの選択は、退避ではなく前進。攻撃をもって活路を見出さんとするもの。
駆けのぼる悪寒をとどめ、なかばがむしゃらな心地のままで刀を振りぬいた。
わずかな——だが確かな手応え。
「これは……」
はらりと、黒い布地が空を舞った。
なにを斬ったのか。
つかの間の疑問は、だがクロを見た瞬間に氷解する。
フードだ。
かたくなに彼の素顔を隠してきたフードが、ヤマトの一刀によって大きく裂かれていた。
もはや本来の用途を満たせなくなった布切れの奥から、クロの——黒髪と黒眼が、白日のもとにさらされる。
「………え……?」
「やれやれ。かなり念入りに防護術式をかけていたはずなんですが。まさかただの物理攻撃で破られてしまうとは。つくづく予想を裏切ってくる人ですね」
呆然と戦いを見つめていたヒカルが、戸惑いの声をあげる。
極東生まれのヤマトよりも、はるかに純粋な黒色。
その艶に一瞬だけ視線を奪われた瞬間に、クロは倒れこむほどの勢いで姿勢を低めた。
「な——」
「少しおとなしくしてもらいますよ」
そっと腹部に手がそえられる。
傍目では、ほとんど力を入れているようには見えなかっただろう。だが想定の数倍にもなるほどの衝撃が、ヤマトの身体を貫いた。
足が地から離れる。
「がっ!?」
「……咄嗟に衝撃を散らしましたか。やはり、技の駆け引きでは少々分が悪いようですね」
大げさなほどの勢いで、ヤマトの身体が空を舞う。
だが、ただ飛ばされるくらいならばもう慣れたものだ。
空中で体制を立てなおし、両足から着地する。膝のクッションでその衝撃もほとんど完璧に受け流し、ひとまず身体にダメージがないことを確かめた。
すぐにクロのほうへ視線を投げたが、彼の動きがないことに気がつく。
クロはかつてはフードだった黒い布切れを手にし、断面を手でなぞる。
「管理者気取りの神を殺し、権限を剥奪した。その時点で単なる力の大小を比べるならば、私に匹敵する者はいなかったはず。事実、至高を自称する竜たちも、ああしてたやすく封じることもできた」
「なにが言いたい」
「大したことではありませんよ。さすが本物は違うと、そう感じただけのことです」
「本物だと?」
「ええまあ」
答えながら、クロはその場で足踏みをひとつ。
ヤマトが気がついたときには、すでに手遅れだった。
地面から現れた半透明な檻がヤマトの四方を囲む。
「くっ」
「ヤマト!?」
「へたに欲張ると、万が一もありえそうですから。今は時間稼ぎだけさせていただきますよ」
クロの言葉には耳を貸さず、周囲の檻に眼をはしらせた。
魔力は分からずとも、力の流れだけならば感じとることはできる。その循環を調べ、人の手によって編まれたがゆえの“ゆがみ”を探していく。
そこを断てば、檻を破壊することもできるだろうが——、
「それではヒカルさん。先程の答えを、もういちど聞かせてください」
「な、なにを……」
「私に協力するか否か。もし協力していただけるのでしたら、あなたがもといた世界に帰れることはお約束しますよ」
再び、クロがヒカルに甘言をささやく。
どうにかその口を閉ざさせたくなるが、焦れば焦るほどに、檻を破るまでの時間がのびていく。
あと十数秒ほどは、指をくわえて見ているしかない。
「私は……」
「さあ手を。この世界に義理立てする必要も、あなたにはないでしょう?」
クロが決断を迫る。
その威迫を前にして、ヒカルが視線を迷わせ、ためらいながら口を開こうとしたところで、
純銀の聖剣が、空から殺到する。
「ちっ」
「ヒカルから離れなさい!」
術者が誰かと考えるまでもない。
リーシャだ。
兄譲りの聖剣術で、クロの死角から完璧な奇襲をしてみせる。クロとヒカルとの間を断つように天上から剣が降りそそぎ、さらにクロを追って剣が空を舞う。
クロも退魔の剣に斬られることは嫌ったのだろう。ひらりと身軽に身をひるがえし、殺到する刃を避けていく。
「まったく面倒な。なんて都合の悪いときに——」
「まだ終わってないぞ!!」
小さな影が走りこむ。
眼にも留まらぬ俊足で肉薄し、クロのふところへ。その勢いのままに、岩のように固めた拳を振りぬいた。
ゴンッと、人と人が衝突したとは思えないほど重い音が響く。
「レレイ……!?」
「くっ」
「竜の巫女。強化した今の状態でさえ、なんとか押さえこむので精一杯とは」
剛力という言葉すら生温いほどの、レレイの馬鹿げた膂力。
だがクロは、それを真っ向から受け止めていた。
力が拮抗する。
そうなれば、魔導術という手札を秘めているクロのほうが優位に立てる。
「退がって!!」
「———っ」
リーシャのひと声。
次いで降りそそいだ疑似聖剣の雨に、クロの力がゆるんだ隙を突いて。レレイは思いきり飛びずさった。
「リーシャ、レレイ……!」
「すまない。待たせたな」
「ヒカル、怪我は——ないみたいね。よかった」
「ヤマトも、ひとまずは無事のようだな」
間一髪のところだった。
ヒカルとクロとの間をさえぎる位置で、リーシャとレレイが構える。
その頼もしい背にほっとひと息もらしつつ、ヤマトは刀を振りぬいた。クロの作った檻を一刀で破壊する。
リーシャとレレイに続いて現れた少女に、嘆息とともに話しかけた。
「なんとか間に合ってくれたか」
「ギリギリもギリギリだったけどな。もう少し早く着けばよかったんだが」
「来てくれただけで十分だ」
少女——アナスタシアは、周囲の状況をぐるりと見渡して顔をしかめる。
「竜たちが揃いも揃って封印されてやがる。どういう状況だこれ……?」
「分からん。神がどうとかは言っていたが」
「神。神ねえ。なるほどなるほど」
ひとつふたつとうなずき、アナスタシアは今度はクロへと視線を投げた。
「よおクロ。少し見ない間に、ずいぶんと雰囲気が変わったじゃねえか」
「……誰かと思えば、アナスタシアさんでしたか。あなたもずいぶん変わったように見えますが」
「そうか? 自覚はねえが——まあなんだっていいや」
コホンと咳払いをひとつ。
そうして場を仕切りなおしたアナスタシアは、灰色に濁ってしまったクリスタルの残骸に眼を向けた。
「ありゃ子機だな。勇者に埋めこまれていたモノを、無理矢理に顕現させたってところか。無茶やるぜ」
「鋭いですね」
「誰の研究のおかげで、お前がここまで来たと思ってんだ。当たり前だろ」
言いながら、今度は視線を虚空へとさまよわせはじめた。
なにかを見ようとしているのではない。思案をめぐらせ、自分の世界に入っている証だ。
「ただ神もどきの権限を奪ったってだけじゃ、ここまで竜を圧倒することはできねえはず。別のモノ——昔の力でも取り戻したか?」
「さあ、どうでしょう」
「ふぅむ。そうなると、色々と面倒になるな」
トントンと爪先で地を蹴る。
「野郎が昔の力をそのまま取り戻したとなると、真っ向勝負を挑むのは分が悪い。なんか別の手を練らねえとな……」
「それほどか」
「あー、お前なら可能性はなくはないんだが、賭けになっちまう。できれば避けたいな」
アナスタシアがなにを懸念しているかは分からないが、確かにクロの力は強大。無策で挑むのは、瀬戸際に追いこまれるまでは避けたいところだ。
曖昧にうなずきながらも、「ならば」と問い返した。
「ならばどうする。このまま眺めているわけにもいくまい」
「さて。へたに魔王でも来たら、いよいよ手がつけられなくなるからなあ——」
言いながら、人の気配を察知する。
疲労で重くなりはじめた身体に鞭打ちながら、ヤマトはそちらに身体を向けなおした。
驚きに、眼を見開く。
「お前たちは……」
「これはすごい状況だね。なにがなにやら」
「どうやら、ひと足遅かったようだ」
ノアとラインハルト。
混沌極まる場面に、さらなる一石が投じられた。