第448話
この世のどことも知れない、不可思議な場所。
見る者が見れば、そこを神域とでも名づけたことだろう。どこからともなく光が差しこみ、影の存在さえ許すまいと、執拗なまでに空間すべてを照らしている。
常人には脚を踏みいれることすら許さないほど、厳かで静謐な空気がその場には満ちていた。
そんな空間に、物言わぬクリスタルがひとつだけたたずんでいた。
『———』
平穏無事であることを確信しているのか。
クリスタルの表面はやわらかい光を規則的に明滅させるばかりで、それ以上の動きをみせようとしない。
見方によれば、クリスタルが空間の主のようでもあった。
ただクリスタルが存在するためだけに創造された、無機質な世界。時間の流れすら必要とされず、ゆえに何事も起きるはずがない。どこまでも平穏無事な場所だ。
だが、その平穏はふいに破られる。
『異常を検知しました。子機からの不正なアクセスを確認、通信をシャットアウトします。繰り返します。子機からの不正なアクセスを確認、通信をシャットアウト——』
クリスタルからもれていた光が、カッと強さを増した。
赤色。
アラートを空間いっぱいに響かせんと、四方八方にすさまじい光を撒き散らしていく。
その光景を目の当たりにして。
「ククッ、予想以上に慌ててくれたみたいですね。こうも派手に騒いでくれると、こちらもやった甲斐があったというものです」
光に満ちた世界に、影がひとつ差しこんだ。
クロだ。
相変わらずの黒いフードで顔を隠した男が、どこからともなく光のなかに立っている。
彼の存在を警戒するように、クリスタルの光が鈍く輝いた。
『種族を人と推定、人物照合を開始します——失敗。データベース上に存在しない人物です。再検索。過去二百年分のデータベースと照合します』
「無駄ですよ無駄。二百年程度をさかのぼったところで、私の正体は分からない。本気で知りたいならば、それこそ千年はさかのぼらないと」
『不明。推定種族:人では千年間生存することは不可能です。現存する種族で千年生存できる種族は竜のみです』
「あなたを殺すためですから。人をやめるくらいのことはしますよ」
『否定。あなたの種族は人です。身体構造魔力構造ともに、あなたが人であることを示しています』
「……そうですか。それならばそれで、私は構わないのですが」
どこに立っているのか。そもそも本当に立っているのか。
それすら定かではない状況のなか、クロはクリスタルに向けて一歩踏みだした。
『警告。この空間は本機の支配下にあります。今すぐに停止してください。本警告が無視された場合、あなたの安全は約束されません』
「なにを悠長なことを」
ゆらりと手を掲げる。
その動きになにか不穏なものを検知したのか。クリスタルはその表面にせわしなく光信号をはしらせようとするが——ふいに停止する。
ポツポツと、数度の点滅。
『……本機の稼働状況が不安定です。原因を解析中——失敗。本機からのアクセスが遮断されました』
「すべてが手遅れなんですよ。あなたがここでのうのうとしている間に、すべてが終わった。悪あがきすらできない、文字通りの詰みです」
『不可能です。本機の管轄下において、本機の脅威となりうるモノは検知できませんでした。現在の状況を論理的に説明することはできません』
「……あくまで自身が上位に立つことを信じ、その仮説を疑おうともしない傲慢。それがあなたという神の本質であることは理解してしましたが、やはり見るとうんざりしますね」
ひとまず話を区切るべく、パンッと両手を打ち合わせた。
「端的に私がしたことを申しあげましょうか。あなたが現界に送りこんだ子機——勇者に埋めこんでいたモノを、私が秘密裏に乗っとりました。この空間にアクセスできたのも、その賜物です」
すぐに反論しようとするクリスタルを、手で制止する。
「ありえない、なんてつまらない反論はしないでくださいよ。あなたが認めるかどうかは知りませんが、私はあなたの眼をあざむいた。それだけが現実です」
『———』
「そして、あなたはもう詰んでいる。自機防衛機構、世界管理機構。その両方がまともに機能していないことはさすがに気づいていますよね」
その言葉が、致命的だったのか。
クリスタルの表面で点滅していた光が、あっという間に力をなくしていく。弱々しい光をほのかに明滅させるにとどまり、抵抗をする気すらないようだった。
クロがフードの奥に、禍々しい笑みを浮かべる。
「さて。現状を理解していただけたところで、本題に入るとしましょうか」
『———』
「端的に申しあげれば、あなたの権能すべてをいただきたいのですよ。人類を進化させるという名目であなたが持っている、管理権限をね」
言うや否や。
ほのかな光を放っていたクリスタルの表面に、ヒビ割れるように影がはしっていく。白から黒へ、光から闇へ。はじめはわずかに影が差す程度だったものが、やがてはクリスタル全体へといたっていく。
『——あな、たは』
「おや。まだ話せましたか』
全体の九割ほどが黒く陰ってしまったところで。
完全に沈黙したかにみえたクリスタルが、再び表面に光を宿らせた。
わずかな驚きを示しつつ、クロはクリスタルに向きなおる。
『あなたは何者ですか。データベースにあなたの誕生履歴は存在していません。外部世界からの侵入は、完全に管理できていました。防壁に対する干渉も認められませんでした』
「……それほどまでに私の正体が気になりますか」
クロの問い返しに、クリスタルはなにも答えようとしない。
答えるつもりがないのか、それとも答える力すらないのか。
しばし考えこむ素振りをみせたクロだったが、やがてひとつうなずくと、クリスタルのほうへ顔を向けた。
「確かに、このまま終わりにしてしまうのも寂しいですね。せっかくですから、顔くらいは見せておきましょうか」
『———』
「もっとも、顔を見ただけで私のことが分かるとは思いませんが」
人の眼がどこにもないからだろうか。
かたくなに外そうとしてこなかったフードを、ほとんどためらうことなく脱ぎ捨てた。
素顔のままでクリスタルに向き合う。
「どうです? 私の顔を見て、なにか思い出せましたか」
『……データベースに照合、成功しました』
「おやこれは意外」
『ですがあなたが存命していることに説明ができません。すでに、あなたの寿命は終えたものと推測されます』
「言ったでしょう? あなたを殺すためです。人をやめるくらいのことは、いくらでもしますよ」
『……不可解、です』
その言葉を最期に残して。
クリスタルにわずかに宿っていた光が、ついに消えてしまう。
後に残されるのは、もはや元来の輝きすら失いただの石となってしまったクリスタルと、その前に立ちつくすクロのみ。
「不可解ですか。結局あなたは、人というモノをほとんど理解できていなかったのでしょうね」
徐々に闇に閉ざされていく世界のなか。
クロは再びフードをかぶりなおした。
「なんにせよ、これで計画のほとんどが成就しました。竜たちが茶々を入れてくれたおかげで、どうにか時間も稼げましたからね」
クロの姿が、段々とぼやけていく。
この場にはもはや用件も、未練もないのだろう。
どこにも焦点の合っていないクロの眼差しは、はるか遠い地を望もうとしているようだった。
「……あと少し。あと少しで、私は——」
結局、なにを言おうとしたのか。
それを確かめる間もないまま、眼でとらえられないほどに薄まったクロの姿は——ふっと消え失せてしまった。