第444話
黒いドームのような形をしていた結界が、粉々に砕けていく。
その破片を踏みしめ、ヤマトは結界のなかへと歩を進めた。
「……ヤマト、どうしてここに」
「悪い。遅くなった」
まず眼に入ってきたのは、力なく座りこんだヒカルの姿だ。
見たところ外傷はひとつも負っていない。きらびやかな聖鎧も素顔を隠すための鉄兜も、ヤマトが記憶している通りの姿だ。
だが、その割りには妙なほど消耗している。
(魔力的なものか、精神的なものか。いずれにせよ最後の一線を守ることはできたか)
どれだけ疲弊していても、ここから無事に連れ出すことさえできたならば、それで万事解決だ。
ひとまず安堵の息をこぼしてから。
次いで、この場の犯人——今も飄々とした態度で立ちはだかるクロを睨みつけた。
射殺すようなヤマトの眼差しを前にして、クロは大げさに肩をすくめる。
「おぉ怖い怖い。そんな眼をしないでくださいよ」
「……邪魔だてするならば、即刻斬り捨てるぞ」
「たとえ邪魔をしなくても、私を放っておくつもりなんてないくせに」
それは、そうだろう。
今までの記憶——刀の目覚めとともによみがえった、かつてあっただろう未来の記憶も含めて。クロは、そのすべての真犯人とでもいうべき人物だ。
もしこのままヒカルを連れ戻せたとしても、そのまま放置するわけがない。
それにヒカルのほうも、すぐには立てないほど消耗している。
(なんとか時間を稼ぐ必要があるな)
そんなヤマトの闘志を見て、だろうか。
「まったく。青鬼さんも足止めに失敗したとなると、いよいよ骨が折れそうですが」
「む」
クロの身体から、すさまじい闘志がほとばしった。
赤鬼に青鬼。いずれも強者というに相応しい面々を破ってきたヤマトをしても、思わず戦慄してしまうほどの猛々しさだ。
ジットリと脂汗をにじませ——同時に、隠しきれない高揚を覚えながら。ヤマトも刀を構える。
『んー? 今度はあいつと戦うの?』
(あぁ。また力を貸してもらうぞ)
『なんか変なやつだけど……。分かった、頑張ろうね』
刀自身も、その意気を示すように刀身をきらめかせる。
ふと、その輝きを見て。
「おや。それは……」
クロのまとっていた闘志がやわらいだ。
わずかに動揺するような視線の動き。ヤマトと、彼が握る刀との間をなんども行き来する。
やがて。
「——つくづく、あなたには驚かされますね」
溜め息をもらした。
『なにあの人。急に私のことジロジロ見てきて』
(さてな)
投げやりに返すが、ヤマトの頭のなかには大まかな答えがあった。
おそらく、クロも赤鬼や青鬼と同様だろう。
見せびらかすように、ゆっくりと刀を揺らしてみせた。
「こいつがそんなに気になるか」
「えぇ。それは、ただの人間が持てるような代物ではありませんから。あなたがそれを持っているというだけで、私の——そしてアナスタシアさんの見込みが正しかったということになる」
「なんだと?」
ふいに出てきたアナスアシアの名に、胡乱げに眼を細めた。
クロとアナスタシアとの間につき合いがあることは知っていた。だがどうして、ふたりの間でヤマトのことを話したというのか。
そんな疑念を置いたままに、クロは話を進めていく。
「なぜあなたを保護したのか。なぜあなたを警戒するのか。そんな話をしたことがありましてね。方向性こそ違いましたが、私もアナスタシアさんも、ともにあなたに似たモノを感じていたようなのですよ。それがなにか、あなたには分かりますか?」
「………」
「まあいいでしょう。ひと言にしてしまえば、あなたからは明らかに異質なモノを感じる。ただ思想や精神体系が異なるという話ではありませんよ。そのまま放置しておけば、世界のあり方すら変容してしまうような——そんな破格なモノをね」
「ふっ」
戯言だ。
そう鼻で笑い飛ばしてみせるが、クロは気を害した様子はない。むしろ同意するように、深々とうなずいてみせた。
「おかしな話でしょう? 結局、私もアナスタシアさんも似たことを考えながらも、本気にはせず、そのまま放っておいたのです。ほんの少しだけ期待しながらね」
「ですが——」とクロは言葉を続ける。
フードで覆い隠されているものの、彼の眼が一点——ヤマトの刀に向けられていることは、明らかだった。
「その刀。見たところ意思が宿っていますね。それも邪念寄りのモノが」
「………」
「血をすすり魂を喰らうことで目覚めた邪念は、そのまま持ち主をも侵そうとする。ですがあなたはそれに蝕まれていないばかりか、むしろ手懐けているようだ。——そんなこと、普通の人間ではありえない。たとえどんな才気に恵まれていたとしてもね」
「なにが言いたい」
「簡単に言ってしまえば」
クロの粘着質な視線が、ヤマトの身体を——魂をからめとろうとする。
その不快感に耐えながら、ヤマトは続きの言葉に耳を傾けた。
「あなたが、選ばれし者だということです」
「———」
「世を変革する英雄か、はたまた秩序を乱す破壊者か。救済の担い手たる勇者か、破滅の導き手たる魔王か。正体までは分かりませんがね。ですが間違いなく、あなたは世界に選ばれた。その魂に、果たすべき大任が刻みこまれている」
熱に浮かされたようなクロの言葉。
なににつき動かされているのかは皆目見当もつかない。だが、それを最後まで聞き届けたヤマトは、
「——くだらん」
端的に吐き捨てた。
「へぇ?」
「くだらない戯言は聞き飽きたと言っている。とっとと構えろ」
「それはそれは……」
意外そうにたじろいだクロを、鼻で笑う。
「なにを呆けている」
「……どうやら、本当になにも思っていないようですね」
「俺は俺だ。それ以外になにを思えと」
「ククッ、なるほどそうですか。まあ、確かにそうかもしれませんね」
感心にも似た溜め息をひとつ。
そうしてクロは先程までの高揚を引っこめ、また飄々とした雰囲気に落ち着いたところで、手もとのナイフをクルクルと回し始めた。
だが、そのままナイフを構えようとはしない。
(………? なぜ構えない)
『戦う気がないのかな。さっきと違って、全然迫力がないもん』
戦う気がない。
刀から伝わってきたその言葉に、ヤマトは「なるほど」と静かに首肯する。
言う通りだ。確かに今のクロからは、先程まであったはずの真剣な闘志が感じられない。
(戦意がない。つまり、戦う必要がなくなったということか)
チラリと視線をそらし、ヒカルの様子を確かめてみる。
相変わらずの疲弊具合。数分前と比べてもほとんど回復していないところは気になるが、それ以外におかしなところはない——はず。
だが、そんなヤマトの視線をどう受け取ったのか。
「……私も、やるよ」
ヒカルがゆっくりと立ちあがった。
見るからに消耗したたたずまいのまま、腰もとの聖剣を手にする。
「おや。無理しないほうがいいですよ」
「無理じゃ、ない……!」
「あなたのためにと言っていることなんですけどねぇ」
クロに噛みつくような勢いで言い返したヒカルは、そのままに聖剣を鞘から抜き払った。
刀身から神々しい光が放たれる。
「聖剣よ。ここにその力を——」
退魔の光。
魔を討ち光を招く聖剣の力が、ヒカルが求めるがままに放たれようとして。
霧散する。
「………これは」
「ほら。だから止めたほうがいいって言ったのに」
聖剣の光が萎んでいく——だけでない。
もともとあったはずの神々しい輝き。それに付随する退魔の力が、みるみるうちに失われていく。
無論、ヒカルが意図したことではない。
「クロ。お前のしわざか」
「クククッ、半分正解とだけ言っておきましょうか」
「ちっ」
やはり余計な時間を与えるのではなかった。
その後悔をわずかに抱きながらも、動きには一切にじませることなく。踏みこむと同時に、刀を鞘走らせた。
「死ね」
「おっと!?」
紙一重のところで、クロが身を翻した。
刀はクロのフードを大きく裂くことしかできず、その奥にある額を割ることはできない。
舌打ちがもれる。
「油断も隙もない人ですね……。ですが、これで——」
ふっとクロは頭上を見上げる。
釣られて視線を上げたヤマトは、そこにヒカルの聖剣から散ったはずの光が集まっていることに気づき、口奥でうなった。
「あれは……」
「——ようやくこのときが来ましたか」
散っていた光の粒子が、徐々にひとつの形を作っていく。
言うなれば、それはクリスタル。
見た者すべてが、思わずその美しさに瞠目しかねない輝き。それを四方八方に振りまいて、半透明なクリスタルが虚空に浮かんでいた。
(なんだあれは)
『……なんか気持ち悪い』
不穏な胸騒ぎ。
思わず呆然と見上げるしかできなかったヤマトを尻目に、クロはクリスタルのほうへと歩んでいく。
「やっと顕現してくれましたか。ここに来るまで、どれほどの時が経ったことか」
「……あれはなんだ。お前が呼んだモノなのか」
「知りたいのですか。ならお答えしましょう。その通り、アレは私たちの手によってこの世に顕現させられたモノ」
大事を成し遂げたという達成感ゆえか。
いつになく饒舌な語り口で、クロは喋りだした。
「言うなれば、アレは人工神とでもいうべきモノですよ。かつて人の手によって生み出され、にも関わらずその事実を忘却し、思うがまま人を支配しようとする愚かな神」
「なにを言っている」
「分からないならそれでいいですよ。あなたが知ったところで、意味があるわけではない」
歩みは止まらない。
その姿は、クリスタルの神々しさを讃えるようであり、また醜さを嘲笑うようでもあり、そして貴重な宝石を破壊しようという凶暴さを秘めているようでもある。
クリスタルのすぐそばまで近づいたところで、芝居がかった動きで手を広げてみせた。
「あぁ神よ。ようやく顕現してくれましたね。私たちがこの日を、どれほど待ち望んだことか」
『———』
その言葉に、クリスタルが反応することはない。
だがそれも想定を越えるものではなかったのだろう。フードの奥から希望の眼差しと禍々しい笑みとを覗かせて——クロは宣誓した。
「あなたがこの世に顕れ、眼で見え、手で触れられる存在になった。今この時ならば——私は、あなたを壊すことができる」