第443話
時をさかのぼること少し。
クロによって閉ざされた結界のなか。
ジリジリと焦りを募らせながら、ヒカルは暗闇のなかで必死に眼を凝らしていた。
「ここは、どこだ? 魔王は、クロはどこに……?」
『エラー。本体との接続状況が不良です。本体になんらかのエラーが発生したと推察されます。エラー——』
「まったく! こういう肝心なときにバグらないでよ!」
『エラー、エラー、エラー……』
なかば八つ当たりにも似た叫び声だったが、それはヒカルの本心でもある。
クロが作った結界に囚われてからというもの、ヒカルの脳に語りかけていた無機質な声は、すっかりその明晰さを失ってしまっていた。
今となってはほとんど意味のない言葉をわめくばかりの、邪魔でしかない存在だ。
(だけど、本当にどうすればいい。あまり時間の余裕もないっていうのに……)
光も音も風すらもない空間。
そんな閉鎖的な場所にあって、ヒカルの時間感覚はすっかり狂ってしまっていた。体感ではまだ一時間くらいのはずだが、もしかしたらその数倍は経ってしまっているかもしれない。
早く脱出しなければ。
その思いは秒ごとに強くなっていくが、だからといって具体的な手が思いつくはずもない。
黙考する。
(聖剣の力を解き放つ? 全力でやれば、もしかしたら結界を壊せるかもしれないけど——)
それが力技であることは、疑いようもない。
確かに結界は壊せるだろう。だがそうしたところで、結界の外で待っているはずのクロたちをも突破できるとは思えない。
せいぜい、消耗したところを改めて捕らえられるのが席の山だろう。
(——だけど、それ以外に手もない)
深呼吸をする。
こうしてただ時間を浪費していても、これ以上状況が改善するとも思えない。ならばいくらか力が残っているうちに、勝負に出たほうがいいはず。
そう頭のなかで考えをまとめて、腰もとの聖剣に手をかけた。
『エラー、エラー、エラー……』
「うるさいから少し静かにしていて」
ひと言だけ呟いて、無機質な声を意識から追い出す。
(どれくらいの力をこめればいいのか、見当はつかないけど——)
もてるかぎりの全力を出すしかない。
覚悟を定め、いよいよ聖剣を抜こうとしたところで、
「——そんな物騒なモノ、ここで抜こうとしないでください」
「お前は……!?」
突然割りこんできた声に、集めていた力が霧散する。
ギンッと視線だけで人を斬れそうな鋭い眼差しを向ければ、降参というように両手を上げたクロの姿がそこにはあった。
「クロ。どうしてここに——いや」
問いかけて、考えを改める。
(ここでクロを倒せば、そのまま脱出することもできる)
ヒカルがあと少しでも冷静であったならば、クロが結界のなかに現れた不自然さに気づくこともできただろう。
だが時間感覚さえも狂うような空間に閉ざされていたことで、ヒカルの理性は想定以上にすり減っていた。とっさに判断を暴力的なほうへと傾けてしまうほどに。
そうと自覚することもできないまま、ヒカルは聖剣の鯉口を切る。
「あらあら。ずいぶんと荒れていますね」
「………」
「まあそう身構えないでください。私も、ここであなたと戦うつもりはありません。むしろ有益な情報を持ってきたんですから」
「問答無用」
クロになくとも、こちらにはある。
その思いに任せて、踏みこむべく腰を落としたところで。
「——地球への帰りかた、知りたくないですか?」
「なっ!?」
足先が迷った。
「どうして」。
なにに向けた疑問なのかも自覚できないまま、その言葉がグルグルとヒカルの頭のなかを駆けめぐっていく。
そんなヒカルの逡巡を見て、クロは意味深な笑みを口もとに描いた。
「興味がない、わけがありませんよね? なにも分からないままこの世界へ拉致され、勇者ごっこなどというおままごとをさせられているあなたには」
「な、にを……」
「ごまかそうとしなくていいんですよ。私には分かりますから」
なんの根拠があって、その言葉を口にしているのか。
だがそんな疑念がたやすく吹き飛んでしまうほどに、クロの言葉は甘く耳に滑りこんできた。理性に甘言がからみつき、思考回路が麻痺していく。
これではいけない。
そう警鐘を鳴らす自分を自覚しながらも、その通りにすることができない。
「おおかた、あなたもこう告げられたのでしょう? 魔王を倒したならば、もとの世界に戻れるかもしれないと。信用はできないものの、それ以外に希望もない。だから従わざるを得ない」
「………」
「それは、ある意味では事実でしょうね。確かに魔王討伐を果たせた暁には、あなたはもとの世界に帰ることができる——けれどね」
理想と幻想でデコレーションされていたヒカルの認識——いや願望に、クロは容赦なく楔を打ちこんだ。
「たとえ本当にもとの世界に帰れたところで、あなたにもとの生活は帰ってきませんよ」
「………」
「あなたも気づいているはずでしょう? かつてあった自分と、今の自分。それが呆れるほどにかけ離れているという現実に。おままごとにつき合わされるうちに、この世界の汚泥にまみれてしまったあなたには、もうあちらの世界に居場所なんてないということに」
「それ、は——」
気がつけば、ヒカルは自分の頭をかき抱いていた。
クロの言葉を聞きたくないという気持ちと、それを冷静に認める気持ち。ふたつの感情がせめぎ合い、ヒカルのなかで軋みながら衝突を繰り返す。
(そんなことはない。私は変わっていない。私はあの日のまま、ずっと私のまま——)
(——本当に?)
せめぎ合う。
(本当に私は変わっていない? 地球に、日本にいたときのままの私でいられている?)
(当たり前だ! 私は私で、それ以外のナニカじゃない!)
(じゃあ、考えてみて)
だが、ふいに。
保たれていた均衡が崩れた。
(今の私は、日本に住めると思う?)
(なにを……)
(魔物を——動物を殺すことになんのためらいもない。戦うことだってできる。実際になんども戦ってきた。そんな人が、日本にいるのかな)
ズキンと頭が痛む。
とりとめなく思考が散っていく。だがヒカルは徐々に、自分の頬が悲痛な形にゆがんでいくことを自覚してしまった。
再びクロの声が滑りこんできた。
「——こんなの、許せませんよね」
「ゆる、せない?」
「えぇ。勝手にこんな場所に拉致したあげく、もとには戻れないほど変えられてしまったんですよ。こんなこと、許せるはずがない。許していいはずがない」
「………」
「だからね」
うつむくヒカルの顔を、クロが——その黒い瞳が覗きこんだ。
見知らぬ者の、だがどこか親近感や安心感のわいてくる色合いをした瞳。
だがその正体に気づくよりも早く、クロは口を開いた。
「あなたには少しだけ協力をしてほしいんです」
「きょう、りょく?」
「えぇ。あなたをこんな風にしてしまった諸悪の根源を、こらしめてやるために。あなたの力を貸してほしいんです」
「諸悪の根源って」
「うるさい声が、頭のなかで響いているでしょう?」
そのひと言で、クロが言わんとすることを察せた。
クロは“こいつ”を——無機質な声でヒカルを振りまわしてきた“ナニカ”に、喧嘩を売るつもりなのだ。
ぐらりと理性の針が揺れる。
「あなたのような被害者を二度と出さないために。そして、あなたが本当の意味でもとの世界に帰れるように」
「かえ、れるの?」
「えぇきっと。……そうでなくては、私も困ります」
決定的だった。
どこか遠いところでサイレンが鳴っている。そのことを理解しながらも、あくまで他人事と一蹴する。
頭のなかで、カチッと奇妙な音が響いた。
「そう。それでいい。これであなたは、そして私も——」
クロがなにかを呟く。
それがとてつもなく重要な意味を秘めていたような。そんな予感につき動かされて、思わず顔を上げて。
暗闇に慣れきっていた眼に、細く——だが確かな光が差した。
「……これはこれは。想定外にもほどがありますよ」
呆れ、怒り、喜び。
様々な感情が混ざった声とともに、クロが光のほうを睨めつける。
「どこまで邪魔をすれば気が済むんですか。あなたという人は」
「——別に、お前の邪魔をしようとしているわけではない。ただ、俺とお前の道がどこまでも食い違っていたというだけのことだ」
どこまでも強固なはずだった結界の壁に、無数のヒビがはしっていく。
その奥から聞こえてきた声に、ぐらぐらと揺れていたヒカルの理性が落ち着きを取り戻していった。
視線を向ける。
「……ヤマト、どうしてここに」
「悪い。遅くなった」
結界の壁が粉々に砕けていく。
その破片を踏み越えて、ヤマトが姿を現した。