第442話
刀を振りぬいた姿勢のまま、ヤマトは大きく息を吐いた。
「く、はぁ……っ」
虚脱感。
ビリビリとした痺れが指先にはしり、手にした刀すら落としてしまいそうなほど。気をぬけば、その場に膝から崩れ落ちるという確信があった。
そんな満身創痍な状態にありながらも、ヤマトは眼光をやわらげることはない。むしろさらなる鋭さをもって、もうもうと立ちこめる土煙を睨めつけた。
『当たった、当たったよ! これならもう大丈夫じゃない?』
(そうであってくれると、いいのだがな)
手応えはあった。
ヤマトの渾身の力と、刀に秘められた妖力とでもいうべきモノ。ふたつが合わされた斬撃はおよそ理外にあると言っていいほどの威力を誇っており、並大抵の者では凌げるはずのない代物となっていた。
いかに青鬼といえど、その直撃を喰らって無事でいられるとは思えない。
だが——、
(これで終わるようなたやすい相手とも、思えない)
気をゆるめず、静かに息を整える。
待つこと数秒。
ふいに吹きぬけた風にあおられて、土煙が晴れた。
そこに立っていたのは、五体満足なままでいる青鬼だ。
「———!」
「大したものだよ、本当に。前に戦ったときより強くなっているとは考えていたけど、まさかここまでだったとはね」
「やはり凌いでいたか」
「これを凌いだと言っていいのかは、正直迷うところではあるけど」
そう言って、青鬼は視線を下に落とした。
とても人が放ったモノとは思えない力で、地面が深々とえぐられている。それを放った当人ですら、にわかには信じられない威力だ。
その分だけ、眼前に立っている男のことが信じられなくなってくる。
『むぅ、少し浅かったみたい』
(これで仕留めるつもりだったのだがな)
クラリと眩暈に襲われるが、ここで膝を折ってしまうわけにはいかない。
身体の奥底から力を振りしぼり、なんとか背を正す。その勢いのままに、刀を正眼に構えたところで。
「む」
青鬼のかぶった仮面に、甲高い悲鳴とともにヒビがはしった。
そのままふたつに割れ、地面へと落ちていく。
「あぁ。これは……」
無手のまま両手を頭上へ、青鬼が手を上げた。
思わず小首を傾げる。
「………? なんのつもりだ」
「降参、降参だよ。やせ我慢してみたけど、もうろくに動けそうにないから。降参だ」
「なんだと」
問い返す間もなかった。
言い切るや否や、その言葉が真実であったことを裏づけるように、素顔をあらわにした青鬼の身体が傾く。呆気に取られるヤマトの視線の先で、地べたに腰を下ろし、手にしていた擬似聖剣をも霧散させてしまった。
「………」
「そう警戒しないでくれ。もう文字通り、一歩も動くことはできそうにない。だいたい、僕ひとりにこれだけのモノを喰らわせておいて、よくそんな顔ができるね」
黙したまま、青鬼の気配を探ってみる。
闘志の類はもう感じられない。どうやら本人の言葉通り、すっかり戦意を失ってしまったようだ。
今ひとつ釈然としない心地のまま、ヤマトも刀を腰の鞘に収めた。
『終わり? もう終わっちゃったの?』
(そのようだ)
『ふぅん。もうちょっと頑張ると思ってたのに』
声にこそしないものの、ヤマトも内心では同意する。
まだやれるはずだ。
青鬼は満身創痍を装っているが、本当にやらねばならない戦いであるなら、もういくつかの無理を通すくらいはやってみせるだろう。それくらいの余裕を、今の彼からは感じられる。
だというのに、ここで剣を下ろしてしまうとは。
(なにか別の狙いがあるのか。それとも)
青鬼の眼を覗きこむ。
「うん? なにか僕に用があるのかい?」
「……いや」
次いで、自分の手へと視線を落とした。
つい数秒前と比べれば回復してきたとはいえ、手にはしった痺れはまだまだ根深い。もうしばらく休ませないことには、満足に刀を握ることもできないだろう。
どうせあと数分ほどは動けないのだ。
ならばその間に、気がかりをひとつでも消しておくべきだろう。
改めて青鬼に向きなおった。
「結局、お前の目的はなんだったんだ」
「目的?」
「かつて牢に入れられたお前は、敗者ゆえの濁りこそあれども、ひとつの区切りを迎えたように見えた。こうして脱獄してまで目的を果たす男には見えなかった」
それがまるで見当違いだったということは、おそらくないだろう。
リーシャを前に敗北した青鬼の表情は、悔しげでありながらも、どこか妹の成長を喜ぶ色があった。少なくとも当時の青鬼には、そのまま表舞台を去ろうという意思があったはずだ。
だというのに、こうして舞い戻ってきた。
「……単に、僕が諦めの悪い男だったというだけのことさ」
「ならば、こうもたやすく敗北を認めることもなかったはずだ。現にお前は、まだ余力を残しているだろう?」
「そんなことは——」
「あるはずだ」
有無を言わさず、押し切った。
青鬼を名乗っている以上、彼の実力は赤鬼と同等であるはず——にも関わらず、あまりにも手応えが薄かった。
彼の実力が不足している、わけではない。
むしろ不足しているのは、彼の気概とでもいうべきモノ。
地を這い泥をすすってでも勝利を掴まんとする気概が、今の青鬼から感じることができなかった。
「足止めをする気がなかった、わけではないな。お前の闘志は本物で、気をぬけば負けていたのは俺のほうだった」
「………」
「——迷っているのか?」
そのひと言を呟いた瞬間のことだ。
青鬼は疲れ果てたように、深々と溜め息をもらした。
「まったく。極東流の鍛錬では、人の心を読む術まで教えこまれるのか? 恐れいったね」
「どういうことだ」
「赤鬼にも似たようなことを言われたのさ。迷いは命取りになるぞって」
言外に、ヤマトの言葉を認める口ぶり。
それについて問いつめるまでもなく、青鬼はあっさりと白状した。
「自覚は薄いけど、確かに僕は迷っているんだろうね。このまま進んでしまっていいのか。なにか大切なモノを見失っていないか。君たちが感じたとしたら、そういうことだろう」
「リーシャの、妹のことか?」
「さあね」
曖昧に答えは濁しているが、どこか照れくさそうでもある。
それ以上の追及を避けるべく、青鬼は強引に話を進めた。
「それでもクロが掲げたモノに惹かれる自分もいた。だからひとまず、クロに協力してきた。そのことを後悔するつもりはないし、止めるつもりもなかったけど」
「内心には迷いを抱えていたか」
「だから、妙に赤鬼の態度も悪かったんだろうね」
ふぅっと物憂げな溜め息。
もはや座ることもせず地に寝転がった青鬼は、ふと視線をヤマトの腰もと——そこに下げられた刀に向けた。
「その刀」
「む」
「呪われているね、それもかなり重度に。ここまで進行していると、普通なら正気を保ったまま振ることはできないはずだけど」
思わず、苦笑いがもれた。
「赤鬼にも似たことを言われたな」
「あぁ。やっぱり赤鬼にも会っていたんだ。その様子だと、そっちも倒してきたのかな」
「……知らなかったのか?」
「知らなかったよ。あいつ、僕たちにも黙って独断専行するやつだから」
赤鬼らしいと言えば、らしいのだろうか。
曖昧にうなずくかけたものの、すぐに首を横に振った。
「お前たちはクロの仲間だろう? さすがに咎められるのではないか」
「仲間とはいうけど、目的を共有しているってくらいだから。厳密には協力関係ってわけでもないし、そういう制約はないんだよ」
「目的?」
「あー……。まあ僕のほうからは言わないでおくよ」
言い切って、青鬼は身体から脱力する。
なおも言い募ろうとしたヤマトをさえぎって、青鬼はゆらりと手を上げた。指で巨大な結界を示す。
「その様子だと、そろそろ回復した頃合いでしょ? 勇者ちゃんも待ってるだろうし、行ったほうがいいんじゃないの」
「………」
「それに、聞こうとしていたことだってすぐに分かるよ。これから君が会うのはクロなんだし」
ごまかされたようでもあるが、彼の言葉は事実でもある。
なんどか手を開閉する。
(痺れはなくなった。あと数回くらいならば耐えられるか)
思い返すのは、刀の力を最大限まで引き出した一撃のことだ。
その一撃をもって青鬼を倒してみせた通り、威力のほうは絶大。だがその分だけ反動のほうも、数分とはいえまともに戦えなくなってしまうくらいには大きかった。
奥の手だ。
土壇場になるまでは温存する——むしろ、普通は使えないくらいに考えておくほうがいいだろう。
『大丈夫?』
(……大丈夫だ、問題ない)
自分にも言い聞かせるようにしつつ、顔を上げた。
睨みつけた先には、クロが貼った巨大な結界がある。
「あのなかに、ヒカルが……」
「今はクロが儀式をしている頃かな。急げば間に合うと思うんじゃない」
「間に合わせるさ」
鞘に収めていた刀に、再び手をかけた。
整息。
結界の表面を流れている気を読み、なぞるべき斬撃の軌道を脳裏に描く。
「まさか……」
「——斬る!」
驚くような、呆れるような。複雑な感情をはらんだ青鬼の言葉を封殺し、ヤマトはひと思いに刀を振りぬいた。