第438話
刀身をなかばで断たれた刃が、クルクルと空を舞う。
時間の流れが止まってしまったかのような空白。
ややあってから、空にあった刃がまっすぐ地に突き刺さった。
「……これは……」
にわかには信じがたい。
そんな内心を窺わせる声音で、ボソリと赤鬼は呟いた。
先程まで刃が待っていた空を仰ぎ、妙なほど軽くなった手中を確かめ、そして五体満足なままのヤマトを窺い。
やがて、深い溜め息をもらす。
「負けたのか、俺は」
「———」
「見事だ」
素直には賛同しがたい。
だがだからといって、偶然に近くとも勝者の座を手にしたヤマトが、敗者たる赤鬼にかけていい言葉などあるはずもない。
そんな内心をそのままに顔をゆがめれば、赤鬼はどこか愉快そうな笑い声をあげた。
「勝者がそんな顔をしてどうする。胸を張れ。貴様は確かに俺の技を破り、そしてこの刀をも斬ってみせた。これを見て、貴様の勝ちでないなどとほざく者はいまいよ」
「……ほとんど不意討ちだ。もし正面から備えていたならば、お前に届くこともなかった」
「だとしてもだ」
赤鬼の身体から立ち昇っていた闘気が、あっという間に萎んでいく。
軽くなった刀を鞘に収めようとして——ふっと苦笑いをこぼし、その動きを止めた。
「あのとき、俺は貴様が刀の邪念に飲まれたものと信じて疑わなかった。理性などとうに消え失せ、ただ力のままに得物を振る獣になったのだと」
「ほとんどそのようなものだった」
「いや違う。貴様は獣のごとき姿をさらしながらも、その力を技で御していた」
「そんなことは……」
そう言われたところで、ヤマトには素直に認めることはできなかった。
ただ必死にあらがっていた記憶しか残っていないからだ。当然、赤鬼が言うように力を技で御していた記憶もない。がむしゃらに、刀から伝わる意志の奔流に飲まれまいとしていただけだ。
その沈黙が、どう映ったのか。
しばらく無気力に折れた刀を見つめていた赤鬼は、ややあってから顔を上げた。
「……その刀」
「———?」
「もうなんともないのか?」
言われて、ヤマトも手中の刀に視線を下ろした。
呪剣。妖刀。
ひとりでに禍々しい意志に目覚めた刀は、その邪念をもって、ヤマトの正気を侵そうとしてきた。
だがその濁流にも似た邪念は、今となってはすっかり鳴りを潜めていた。
『………』
(意識はまだある。なら、ただおとなしくなっているだけか)
手応えを確かめるついでに数度振り、ヤマトはうなずく。
「どうやらそのようだ」
「そうか。ならば貴様は確かに、その刀を調伏したのだろうな」
「調伏?」
「貴様を主と認めたということだ。そのような者が現れるとは、思いもしなかったが」
「……そうか」
褒められている、のだろうか。
どう反応すれば分からず、首を傾げることしかできない。
そんなヤマトに言い聞かせるように、ぐったりと地面に腰を下ろしながら、赤鬼は口を開いた。
「過去数度、貴様と同じように呪われた剣を手にした者がいた。いずれもその力に恐怖し歓喜しながら、やがては剣の呪いに心身を蝕まれ、正気を失うことになったのだ。貴様という例外を除いてな」
「ずいぶんと詳しいな」
「まあ、聞け」
ヤマトの疑念をひと言で殺し、話を続ける。
「なぜ貴様が呪いを退けられたのか。過去の呪剣の担い手たちには、古今無双と称えられるほどの猛者や、数多の苦難とともにあった勇者がいた。そのなかで、なぜ貴様だけが?」
「………」
「呪いを前にして自我を保てるほどの強靭な精神。それは認めよう、だがそれだけではない。まだ別の、不可解なモノが貴様のなかには眠っている」
「不可解なモノだと?」
いぶかしげに首を傾げてみせるが、赤鬼ははっきりと首肯してみせた。
「おそらくはそれこそが、クロが貴様を気にかける理由だ。貴様ならば、己の描いた絵をひっくり返しかねないと」
「……ずいぶん買いかぶられたものだ」
「そうか? 俺には、そうとも思えなかったがな」
言い切ってから、赤鬼はぐらりと身体をよろめかせた。
あふれるほどの闘気が萎んだ今となれば、病的なほどの痩身が眼についてくる。決して不健康なわけではなく、磨きあげた技を振るうため最適化した体躯なのだろう。だが傍目から見ている分には、無性に心配になってくるのも事実。
思わず声をあげそうになったところで、赤鬼は再び上体を起こす。
「む……、少し気を張りすぎたか」
「なに?」
「いつものことだ。死合の後は身体が重くなる。数時間ほど休めば、すぐによくなる程度のものだ」
「……病の類ではないのだな?」
「無論」
ろくに頭も働いていないのだろう。
ひと言だけ返した赤鬼は、それで精魂果ててしまったのか。がくんと首を落とした。
「俺のことは放っておけ。貴様にはまだやることがあるのだろう?」
「放っておけだと? こんな場所に——」
言い返そうとして、すぐに口を閉ざした。
当の赤鬼が、すでに意識を手放していることに気づいたからだ。戦いが終われば体力も尽きるという言葉の通りに、赤鬼はすぐに寝入ってしまっていた。
(こんなところで寝るやつがいるか)
軽く揺さぶってみたところで、彼が起きることはないだろう。大地に座りこむ姿勢のまま、ずいぶんと深い眠りに落ちているようだ。
だが、ここに置いていくわけにもいかない。
駅近郊の穏やかな場所とはいえ、魔獣は出没する。そこに寝入っている人間がいたとなれば、彼らの格好の餌となることだろう。
さすがにそれは寝覚めが悪い。
「……仕方ないか」
溜め息がもれた。
本当ならばすぐにでも行動に移したいところだったが、やむを得ない。
すっかり眠ってしまった赤鬼に肩を貸し——軽い。さっさと担いだ。
「こいつは駅員に任せるとして……、その後にどうするかだな」
駅に向かって足を進めながら、ヤマトは空を仰いだ。
赤鬼の気配に勘づいたときには、まだ曖昧なものでしかなかった予感。漠然と“何か”があるくらいにしか分からなかったものが、今ははっきりとした形で感じられる。
赤鬼と刃を交えるうちに、感覚が研ぎ澄まされていったからだ。
(時渡り、とこいつは言っていたか)
担いだ赤鬼に視線を投げながら、彼の言葉を思い返す。
“時渡り”。
文字通りに解釈するならば、時間を遡るか飛び越すということだろう。無論、そんなことをした記憶はヤマトのなかに残ってはいないが——、
(妙なほど鮮やかに焼きついている光景。これは過去に——もしくは未来に起こったことか)
そういえばと、思い出す。
「お前もこの記憶を持っているようだったな。となると、実際にあったことなのか?」
『……知らない、そんなの』
「知らないはずはないだろうに」
語りかけた先は、腰にさげた刀だ。
だが返ってきたのは、ふてくされたような言葉だけ。
思わずもれそうになった苦笑いを、すんでのところでこらえた。
(ともかく、すぐに確かめる必要はありそうだな)
ようやく手に入った手がかりなのだ。
感覚任せで確証もないようなものだが、捨ててしまうには惜しい。ノアやアナスタシアらにも連絡して、すぐに探ってみるべきだろう。
深呼吸をひとつ。
ヤマトは足早に駅への道を歩いていった。