第437話
火花が散る。
その輝きに眼を灼かれながらも、目蓋を閉ざすことができるはずもない。すぐそこにまで迫っている死神にあらがうべく、ヤマトは必死に眼を凝らしていた。
風がはしる。
「そこか!」
風の正体がなにかなどと、考えているだけの余裕もない。
ほとんど直感がささやくままに任せて、思い切り刀を振りあげる。後先考えることも許されない、その場を凌ぐためだけの必死な防御だ。
一瞬だけ時間が止まるような錯覚。
ジンと痺れる腕の先を見やれば、そこには刀と刀がかち合い、金銀きらびやかな火花を咲かせているところが眼に映った。
「これも凌ぐか。厄介な……」
刀の先に見える赤鬼は、まだまだ疲弊した様子はない。
むしろどのようにしてヤマトの防御を崩そうかと、試行錯誤している様子ですらあった。
思わず舌打ちをこぼしたくなる。
「なら、これはどうだ?」
「———ッ!?」
腕にのしかかっていた力がふいに緩んだ。
均衡を崩されたはずみで、ヤマトの刀が空を泳ぐ。その隙を狙い澄まして、赤鬼の腕がいくつにもブレた。
脊髄を死の予感が駆けめぐる。
(迎撃は不可能! なら避けるしかない!!)
わずかな望みに賭けて、後ろへ——すんでのところで思い直し、もっとも死の気配が色濃い前へ滑りこんだ。
刃がひらめく。
肩が裂け腕が割れ、まるで噴水のように全身から血が噴き出た。
カッと全身が熱くなる感覚。次いで鋭い痛みが駆けめぐり、声にならない悲鳴が喉奥からもれる。
(だが、痛みがあるなら——)
まだ、生きている。
手のひらから滑り落ちそうになっていた刀。その柄を掴みなおし、刃を立てる。
一閃。
「む」
(浅い……!)
振り抜いた刃は、赤鬼の頬を浅く斬るに留まった。
血飛沫だけは派手に散っているが、大した痛手でもないことは明らか。それでも一瞬だけ赤鬼の動きが止まった隙に、ヤマトは一気に間合いを離した。
目測して、およそ十メートルほど。
(ひとまず凌げたか)
赤鬼がすぐには動こうとしていないことを確かめ、ようやくひと息入れた。
ふっと肺のなかの空気を入れ替えたところで、ドッと全身が重くなった。まだ気を張れば動けるだろうが、逆に言えば、絶えず気を張らなければならないほどに消耗している。
それほどまでに、この数回ほどの交錯が劇的だったということに他ならない。
少しでも体力を回復させようと深呼吸を繰り返しながら、ヤマトは先ほどの戦いを回想した。
(だんだんと動きはよくなっている。赤鬼ともなんとか戦えるようにはなってきた)
赤鬼が指摘する、成長というにはあまりに異質な変化によるものだろう。
先の赤鬼の猛攻ひとつを取ってみても、当初のヤマトでは凌ぐことも叶わなかったはずだ。それが、避けたばかりか反撃ひとつ加えるほどにまで迫れている。
刀を合わせるたびに、動きのキレが増しているのだ。
(このまま戦い続けたならば、いずれはやつの動きを上回ることもできるかもしれない。その手応えも、わずかだが掴めている。だが——)
そんな悠長なことができるほど、赤鬼という男は甘くない。
反撃ひとつを見舞えたところで、その前にヤマトはいくどか斬られているのだ。その傷は決して浅くないし、今こうしている間にも着々と血を流している。
たとえここからヤマトが赤鬼と互角に戦えたとしても、勝ち切るところまでいけるだろうか。
敗北。
不吉な二字が脳裏に焼きつき、鮮やかなまま消えてくれない。
(弱気になるな! ここは凌ぐしかない。凌いで、機を窺うしか——)
『どうしたの。そんなに怯えて』
怯えているだと?
刀から伝わってきたその言葉に、ヤマトは無意識のうちに剣呑な眼差しになった。
(なにが言いたい)
『あなたが怯える必要なんかないってこと。私が力を貸せば、あいつなんかすぐに殺せるのに』
(馬鹿なことを)
『本当のことだもん。ほら、見てて?』
制止する暇もない。
ヤマトが見ていた先。緩やかに刀を握っていた腕が、おもむろに持ちあがった。
大上段の構え。だが間合いは変わらず十メートルほど離れているため、こんなところで
構えても意味はない。
首を傾げそうになる。
「なにを——」
『えいっ!』
可愛らしいかけ声とは裏腹に。
熟達の踏みこみをともない、刀は大上段から一気に振りおろされた。
「これは!?」
刹那。
どこからともなく現れた黒い刃が空をはしり、赤鬼めがけて殺到する。
赤鬼は驚いた素振りを一瞬だけ覗かせながらも、すぐに平静を取り戻す。慌てず落ち着いて迎撃を——棄却、回避した。
結果として、黒い刃はわずかに地を削るに留まった。
『もう、避けないでよ!』
「……面妖な技だ。貴様なにをした」
体勢を立てなおした赤鬼が、刀で地面を指しながら問う。
そちらに視線を移せば、映ってきたものは黒く穢れた地面の痕だ。ベッタリとこびりついたヘドロを彷彿とさせる黒いモヤからは、鬼や魔物に似た禍々しさが感じられる。
ヤマトの眼にも明らかなほどの、濃い瘴気だ。
思わず閉口する。
(これがお前の力か)
『そうだよ。すごいでしょ?』
(確かにすさまじくはあるが……)
『なにか気になることでもあるの?』
その言葉とともに、刀から伝わってくる思念の奔流がぐっと強くなった。頭の奥がズキリと痛む。
思わずこめかみに指を当てる。
そんなヤマトの様子を見て、赤鬼は思わしげに口を開いた。
「……そうか。刀に蝕まれたか」
「なんだと?」
「血を吸い魂を喰らい、呪物として目覚めた刀剣は人を侵す。力を貸すなどという甘言をもって心の隙間に入りこみ、その内側から蝕もうとする」
妙なほどに的を射た言葉だ。
やたらとうるさい心臓の鼓動を落ち着かせつつ、ヤマトは刀を正眼に構えた。
「その果てに、なにがある」
「呪いによる自我の喪失。理性を失い、ただ刀の本能に振りまわされるだけの傀儡となる。そうなればあとは、斬り捨てるより他はない」
言いながら、赤鬼もまた刀を構えた。
「貴様もまた一廉の戦士だった。このまま修練を積めば、あるいは俺を越えるほどにな。——だがその刀を手にしている以上、殺さねばならない理由がまたひとつ増えた」
「———っ」
再び、濃い殺意がヤマトの身体を包みこむ。
「せめてもの情けだ。楽に終わらせよう」
「……冗談」
虚勢混じりの悪態をこぼし、頬の肉を噛む。
鋭い痛みに、恐怖に囚われかけていた理性が正気を取り戻した。
(ここで殺されるわけにはいかない——!)
恐怖はある。
だがここで死ぬというのは、つまりこれまで培ってきたモノ全てを捨てるということだ。力や技だけではない。この世で結んだ縁のすべてを。
到底、認められることではない。
ゆえにヤマトは——一縷の望みに賭けて、悪魔に魂を売ることにした。
(——力を貸せ)
刀にささやく。
ある意味で降伏にも等しい宣言。それを告げられた刀は、握る手を通して、歓喜を爆発させた。
『いいよ。貸してあげる——』
ドクリと心臓が脈打つ。
その理由を考える間もなく、刀から“ナニカ”が流れこんできた。
身体が内側からひっくり返されるような感覚。頭が割れるほどの痛みがめぐり、視界がチカチカと明滅する。
「ぐ、ぅ」
己の存在が、根本から覆されていく。
陽が隠へ。
光が闇へ。
かくあるべしという世の摂理に真っ向から喧嘩を売り、土足で踏みにじるような所業。
「……飲まれたか」
哀れむ赤鬼の声。
それを意識の片隅でとらえながら、ヤマトは千切れそうになる理性をすんでのところで引き留めることに専心した。
ぐらりと視界が傾く。
『来るよ』
己がどこに立っているのか、眼になにが映っているのか。
なにも分からないまま、それでも視界を持ちあげれば。すぐ近くにまで迫る赤鬼の姿をとらえた。
体内をめぐる“ナニカ”が、燃えるほどの熱とともに騒ぐ。
「———ッ!!」
ほとんど無我夢中だった。
肉体に染みついた動きをそのままに、刀を思い切り振りあげる。
わずかにとらえた景色のなかに、大げさなくらいに飛び退く赤鬼の姿があった。
「ちっ。想像よりも進んでいるな。だが——!」
「ォ、ォォ」
赤鬼の身体がいくつにもブレる。
幻覚——違う。見た通りに分身しているのか。
計八体。幻影のひとつひとつがまったく異なる動きをとり、ヤマトを包囲。四方八方から一斉に駆けだした。
「止められるものなら止めてみろッ!」
「———」
どんな技なのかと考える余裕はない。ただ眼に映り肌で感じたがままに、幻影すべてを相手どる。
脇に刀を構える。さながら居合のごとき構え。
一閃。
己を中心とした真円をなぞるように、刃が横一文字にはしる。幻影ひとつひとつの胸もとを薙ぎ、やがて八体すべてを斬り捨てた。
手応えは——ない。
『どういうこと?』
刀から伝わる戸惑いの意思。
図らずもそれが、ヤマトを侵食せんとする思念の奔流を一瞬だけ緩ませた。防戦一方だった理性が反逆し、己を蝕まんとする“ナニカ”を無理矢理にねじ伏せていく。
鍛えあげた戦士の直感が、赤鬼の居場所を探り始めた。
「——そこか!」
後方、やや下方。
ヤマトの視界と真円の斬撃を潜るべく、身を屈ませていた赤鬼の姿をとらえた。
胴を断たんと刀を脇に構えている。
なにやら赤鬼が驚くような雰囲気が感じられたが、それに構うことはない。
「ふっ」
短い呼気。
瞬時に整息し、刀を上段へ。
脳裏に必殺の一撃を描き——そのイメージすらも越える己を予期して、振り抜いた。
「『斬鉄』ッ!」
鋼と鋼が合わさる。
交錯は刹那。
まるで雷がはしる一瞬のごとく、互いの闘志がぶつかりはじけ。
「———!?」
中心で断たれた刀の切っ先が、空高く舞いあがった。