第436話
刀をわずかに引き抜く。
『殺ろう! 殺っちゃおう! 私もうお腹空いて我慢できないよ!』
刀身があらわになった瞬間、刀から伝わる思念が一気に強くなった。
どういう理屈かは分からないが、童女の声がガンガンと頭のなかで響く。そのうるささに顔をしかめたヤマトは、たしなめるように刀の柄を叩いた。
(うるさい。静かにしろ)
『いいじゃんいいじゃん! あなただって、もう興奮が抑えられないでしょ!?』
「一緒にするな」と声を大にして主張したいが、そうしている暇はなさそうだ。
ヤマトの視線の先。
腰もとの刀を同じように引き抜いた赤鬼が、ゆっくりと得物を正眼に構えていた。
「……貴様」
「む」
「ずいぶんと物々しいモノを手にしているな」
仮面越しに、赤鬼の視線が一段と鋭くなったことを悟った。
彼も一廉の戦士だから、ヤマトの持つ刀がどうやら尋常でないことに気づいたのだろう。その視線は刀を警戒するようであり、また忌避するようでもあった。
「知っているのか」
「むしろ貴様のほうは、ろくに知らないくせにそれを持っているのか。豪胆なことだ」
「………」
嘲るというよりも、むしろ感心するような口振り。
そのことに違和感を抱いたのもつかの間。「余計なことを喋りすぎた」とでも言うように、赤鬼は軽くかぶりを振る。
「貴様がそいつの闇に飲まれるのが先か、俺が斬るのか先か。叶うならば楽に死なせてやりたいところだが」
「余計な世話だ」
「ククッ、だろうな」
ふいに、赤鬼からすさまじい剣気が放たれた。
触れるだけで肌が裂けそうになるほどの威迫。それなりに修練を積んだ者でなければ、ただ気迫にあてられただけで戦意を失せさせていたことだろう。
念入りに丹田へ力を送りつつ——一方でヤマトは、奇妙な感覚に内心で首を傾げた。
(どこかでいちど相対したことがあるのか? 妙になつかしい気がするが……)
『———? そりゃそうだよ。一回戦ったことがあるもん』
「なに?」
戸惑いのあまりに、思わず声がもれた。
赤鬼は怪訝そうにこちらを見つめているが、それには構わない。ヤマトの意識は、手にしたままの刀へと向けられていた。
(どういうことだ)
『どういうことって? 私とあなたで戦って、あとちょっとだったのにあいつ逃げたんだよ。もう忘れちゃったの?』
(……そうか)
ただの戯言。
そう切り捨ててしまえないほどに、刀の言葉に納得している自分がいた。
刀を握った瞬間にフラッシュバックした、いくつもの光景。そのなかでヒカルがこぼしていた「時間遡行」という言葉。
なにがあった。
「く——っ」
ズキンと、頭になにかが刺さるような痛みがはしった。
一瞬だけ視界が真っ赤に染まったものの、呼吸が落ち着くにつれて元通りに戻っていく。
『大丈夫?』
(問題ない。それより、来るぞ)
まだ頭の奥に鈍痛は残っている。
だが、それに気を取られている余裕はなさそうだ。
「——ふぅ」
相対する赤鬼の気迫が、一瞬だけ萎んだ。
戦意が失せたわけではない。むしろその逆。意気を極限まで収縮させ、己の内側に溜めこんだのだ。
(来る——!)
身構えた。
どんなにわずかな初動であっても見逃すまい。そう眼を凝らしたヤマトの、視線の先で。
ふっと赤鬼の姿がかすんだ。
『右だよ!』
「シャッ!!」
刀から警告の意思が飛ぶのと、ほぼ同時のことだった。
いつの間にか肉薄していた赤鬼が、その勢いのままに刀を振り抜く。
そしてそれを、なかば予知していたかのようなタイミングで——ヤマトの足が半歩後ずさっていた。
胸もとを、赤鬼の刀が空振っていく。
(避けた?)
我がことながら、にわかには信じがたい。
戸惑いながらもカウンターの一撃を繰り出さんとすれば、赤鬼はするりと間合いを離してしまった。
再び、当初の間合いへ戻る。
数秒ほど遅れて危険にさらされたことに気づいたのか、心臓がバクバクと早鳴り始めた。
(なんだ今のは!?)
その叫びがなにに向けられたモノなのか、ヤマト自身も理解することはできなかった。
人間離れした赤鬼の技。
その動きに、ヤマトよりも早く反応してみせた刀の声。
そして——それらに一拍の遅れを取りながらも、およそ最適な回避行動をしてみせた自分の身体。
いったいなにが起きた。
「妙な男だ」
「………?」
グルグルと思考が空回りする。
考えが浮かび、まとまりそうになっては散っていく。それを数度繰り返したところで、ヤマトはいちど理性を停止させることにした。
代わりに、口を開いた赤鬼へ向きなおる。
「なにが言いたい」
「若さの割りにはよく鍛えている。青が遅れをとったという話も納得はできる。……だが所詮はその程度。先程も俺の動きに反応できているようには見えなかった」
「………」
「だというのに、避けられた」
つとめて無表情でいようとするヤマトを嘲笑うように、赤鬼は鼻を鳴らした。
「理由はその刀か? 持ち主に力を与える呪物の噂は、聞いたことがあるが」
「さてな」
「答える気がない——というよりも、貴様自身も知らないのか。ならば、問うたところで無駄か」
赤鬼の手に力がこめられたと、確認する暇もない。
気づいたときには、赤鬼の身体はすぐ眼前にあり、刀を構えていた。
そしてその胸もと目がけて、ヤマトの身体は刀の切っ先を突きこんでいる。
「———!」
「ちっ。やはりやりづらい……」
突き自体は、難なく避けられた。
さらに追撃をする間もない。赤鬼は再び滑るように間合いを離していく。
ほっとひと息入れようとしたところで、赤鬼の足が止まる。
「これならばどうだ」
「くっ!?」
気を抜く暇もない。
一歩だけ離れた間合いから、赤鬼の刀が大上段へ振りかぶられた。肩と腕、そして指先までをさながら鞭のごとくしならせ、刃をはしらせる。
見た目以上の威力をこめられていることは、想像にかたくない。
濃密すぎる死の気配。
「舐めるなッ」
だがまたしてもヤマトの身体は勝手に動き、斬撃を対処しようとする。頭上の刃の横っ腹を、渾身の力で薙ぎ払った。
火花が散る。
「ちっ」
苛立たしげな舌打ちをひとつ。
ひとまず仕切りなおすべきと判断したのだろう。赤鬼は今度は不意を討とうとせず、素直に間合いを離していった。
その姿を見送りながら、ヤマトはジンと痺れる指を軽くこすった。
そうしながら考えるのは、当然ながら、理性の制御を越えて動く自分の体のことだ。
(何者かが身体を操っているような感覚はない。どちらかといえば、長い修練の果てに動きが染みついたときに近いか)
不快感はない。
むしろ心地よさを覚えているくらいだ。
(お前がなにかしたのか?)
『なんのこと?』
(……そうか)
念のためにと刀に問いかけてみるが、肯定の返事はなかった。
そのことに安堵感に近いモノを覚えるが、顔には出さないでおく。
今の状態がどのようなものだったとしても、ひとまず好調であることに違いないのだ。ならばここは素直に、その恩恵を受け取っておくべきだろう。
「……評価を上げなければならないな。クロに話は聞いていたが、それ以上だ」
「ずいぶんと買われたものだ」
ふいに赤鬼が口を開いた。
視線にこめられた戦意の質が変わっている。あくまで上位者としてヤマトを確実に勝とうとしていたモノから、対等な立場として勝利をもぎ取ろうとするモノへ。
「三合。貴様は凌いだだけでなく、そのたびに動きを研ぎ澄ませていた。気づいているか? 数分前と今とで、ずいぶんと己が様変わりしていることに」
「………」
「単なる成長というよりも、もはや変異や変革の類といったほうがふさわしいだろう。まったくの別人に変わっていくように、貴様の存在が変わっていく。それが貴様自身の資質ゆえか、あるいはクロの言う“時渡り”ゆえかは知らんが——」
“時渡り”。
赤鬼の口から出てきたその言葉に、ヤマトは興味を惹かれる。
だがそのことを問いただす間もなく、赤鬼は刀を掲げた。切っ先はまっすぐ、ヤマトの喉もとへ向けられている。
「いずれにせよ、貴様はここで斬る。どのように化けたところで、ここから生きながらえることはないと思え」
「……嫌われたものだ」
にじむ脂汗の感覚を、軽い言葉でごまかす。
高まった緊張感が、真綿のようにジワジワとヤマトの喉を締めつけてくる。それにあらがうべく深呼吸をして、荒ぶる鼓動を落ち着かせた。