第432話
ノアがリリとともに立ち去った後。
ひとり残されたヤマトは、昼の活気が徐々に収まっていく駅構内を見渡しながら、物思いにふけっていた。
(既視感か、それともまったく別の感覚か。いずれにせよ——)
昨夜から始まったことだ。
いつも通り。特別おかしなことをしているという自覚はないにも関わらず、奇妙な感覚がヤマトの意識を惑わせていた。
既視感、焦燥感、危機感。
そのいずれもが当てはまり、また見当違いなようでもある。
放っておけば解決するかとも考えていたが、そんなことはない。むしろノアにも悟られてしまうほどに違和感は強まり、ヤマトから正常な思考回路を奪っていた。
このままではいけない。
「……どうにかしなくてはな」
そのためにも、ノアはヤマトをひとりにしてくれたのだから。
だが、そうは言っても解決の糸口がない。
なにか意識に引っかかるモノはないかと視線をめぐらせてみても、ただ無為に時間がすぎていくばかり。
(素振りでもするか?)
溜め息を吐いているうちに、そんなことが思い浮かんだ。
素振りをしてみたところで、悩みを根本から解決することはできないだろう。だがこのままウジウジと立ちつくしているのは、自分らしくない。
それに少しでも身体を動かしてみれば、気がまぎれるかもしれない。
(そうと決まれば——)
駅の出入り口に足を向ける。
近場であれば、駅勤めの兵士たちから奇異の眼を向けられることはあっても、魔獣に襲われることはないはず。
そんなことを考えながら、腰の刀へ手をのばした瞬間のことだった。
『私を使うの?』
「———っ!?」
驚きのあまり、肩が跳ねあがった。
童女の声。もはや今になって、それを幻聴と疑うこともない。ラインハルトに気づく直前にもその声は聞いていたからだ。
周囲を見渡してみても、声の主らしき人物の姿はない。
「誰だ」
『ひどい。私のことを忘れるなんて』
「なに?」
会話が通じている。
これまでになかった展開に内心当惑しながらも、言葉は止めない。
「妖の類か。姿をみせろ」
『どういうこと? 私はずっと、すぐそばにいるのに』
「そばにいる?」
念のためにと気配を探ってみるが、周囲にそれらしいモノは感じられない。
ここにいるのは、正真正銘ヤマトだけ——
「……まさか」
腰もとの刀に、再び手を這わせた。
旅するうちに握りなれた柄。握りしめればスッと手に吸いつく感覚は、愛刀でなければ得られないモノだろう。
だが、わずかに刀を抜こうとして。
「くっ!?」
『あれ、どうして抵抗するの?』
刀と鞘とがくっついてしまったかのようだ。
渾身の力をもってしても、少しも刃が露出することはない。ガッチリと噛み合い、抜かんとするヤマトの力に抗う。
——いや、違う。
(俺のほうが押さえているのか!?)
ヤマトは刀を抜こうとしながら、必死に刀をしまいこもうとしていた。なにがあっても抜くまいと、必死になって刀と鞘を押しつけている。
身体を操られているわけではない。むしろその逆で、無意識のうちにそうすることをヤマトは選択していたのだ。
その根底にある感情は——恐れ?
『そんな必死にならなくていいのに。それより、早くご飯食べたいよ』
「……うるさい、黙れ!」
『もうっ、意地悪』
もはや確かめる必要もない。
声が伝わってくるのは、腰にさげ、今こうして手をかけている刀からだ。どういう因果ゆえかは分からないが、ヤマトの愛刀は意思あるモノとして——それも悪性のモノとして、ひとつの意思をもってしまったらしい。
深呼吸をする。
(落ち着け。今はとにかく、こいつに意識を乗っ取られないように——)
『ひどぉい。私そんなことしないのに』
どうだか。
およそ呪剣やら妖刀やらと呼ばれるモノは、使用者の意識を侵食しようとするのだ。いちどそれに身を任せてしまえば、取り返しのつかない過ちを犯してしまう。そうリーシャも言っていて——、
(リーシャが?)
リーシャがそう説明していた、はずだ。
だがそれはいつのことだったか。どんな状況で、なぜ説明をしていたのかが思い出せない。
(くそっ、いったいなにが起きている!?)
刀からほとばしる意思の奔流。
さらに、朝から止まることを知らない違和感の嵐。
そのふたつに苛まれたヤマトの意識が、ガンガンと警鐘にも似た音を鳴らしながら、鋭い痛みを訴えていた。
なんだ、これは。
『うーん? 変なフタみたいなモノがあなたのなかにあるけど、これなに?』
「なにを、言って……!」
『あれ、知らないの? じゃあそんなに大事なモノじゃないのかな』
嫌な予感がした。
なにをしようとしているかは知らない。だが今すぐにそれを止めなければ、致命的なモノが壊れてしまう。そんな直感がヤマトのなかに渦巻く。
思わず声がもれた。
「よせ、やめ——」
『壊しちゃえ』
ガラスが割れるような音。
限界をも越えてしまったのか。痛みのあまりに、頭が内側から砕ける光景を幻視した。
苦悶の声をあげることすらできないまま、ヤマトの視界は、極彩色の光に包まれた。