第431話
「……行ったか」
ラインハルトが立ち去った後。
場を覆っていた圧倒的な気配が遠かったことに、ヤマトは思わず安堵の息をもらした。
ノアも苦笑する。
「なんとか穏便に済ませられたね。リーシャたちがここにいなかったのは、不幸中の幸いってやつかな」
「あぁ。いたら、生半可な言いわけは通らなかっただろうからな……」
しみじみと頷く。
ノアは皇室の二男という高貴な立場であり、ゆえにラインハルトも、ノアとヤマトがここに来ていることへの深い追及は避けてくれた。
だが先の事件の当事者——混乱のどさくさに紛れて皇都を脱したリーシャたちがここにいたならば、彼も軍人として追及せずにはいられなかったはず。
そうなれば、今のように穏やかな会話は交わせなかったに違いない。
(なかば見逃されたようなものではあったが——)
ひとまず、窮地を脱したことを今はただ喜ぶべきだ。
相好を崩すヤマトだったが、ふとノアから向けられた視線に気がつく。
「……どうした」
「いやさ。もとはと言えば、ヤマトがラインハルトに気づいたことが発端だったよね。よく気づいたなと思って」
「あぁ」
「僕だって気を緩めていたつもりはなかったけど、全然気づけなかったし。ラインハルトのほうも、ちょっと驚いた感じだったよね」
「そうだったか?」
曖昧に応えながら、ヤマト自身も思い返してみる。
ラインハルトに気がついたとき。より正確には、ラインハルトを意識してしまっている官兵たちに気がついたときのこと。
あれは本当に、ただ勘が冴えていただけなのか。
(普段の俺では気づけなかった。あのときは、他の誰かに囁かれたような——?)
そのことに考えが至った瞬間。
ゾクリと、背筋に冷たいモノがはしった。
「———っ!?」
思わず振り返った。
誰かに凝視されているような感覚。それも、ただ冷徹に観察するような視線ではない。もっと狂気的な執着心を感じさせる、ずいぶんと熱っぽい視線だった。
だが振り返ってみても、後ろには誰もいない。
(なんだ、今の感覚は……)
敵意をにじませた視線であれば、こうも敏感に反応することはなかっただろう。
問題は、今の視線に敵意のようなモノはまったく含まれていなかったところにある。むしろ長年恋焦がれた想い人へ向けるような、狂おしいほどの熱情が押し出されていた。
そしてその視線に、なぜか——強烈な既視感を覚えていることを自覚する。
「………」
「ヤマト、ねぇヤマトってば。大丈夫?」
「……あぁ」
ノアの表情を窺うかぎり、今の視線を感じたのはヤマトだけのようだ。
なんとか小さな首肯だけを返してから、改めて視線のことを考える。
(あんな眼を向けてくる者に心当たりはない。向けられた覚えもない——なら、この既視感はなんだ)
ただの気のせいと言いきってしまうには、あまりに鮮明すぎる。
いくら記憶を探ってみても、既視感を裏づけてくれるモノには見当もつかない。
だがヤマトの胸中で渦巻いているモノは、この感覚の正体について解き明かさなければならないという使命感にも似た感情だ。さらにはここで思考を止めてはならないという焦燥感が、ジリジリと募っていく。
そんな、心ここにあらずな姿が眼に余ったのだろう。
「——ヤマト。ここは手分けをしよう」
「なんだと?」
一瞬だけ、焦燥感のことも忘れた。
なにを言い出すのか。
そんなヤマトの疑念に、ノアは少しもたじろぐ素振りをみせず、むしろ堂々と向き直る。
「僕は帝国軍の——というより、ラインハルトの動向を見張ろうと思う。帝国軍がここでなにかをやろうとしていて、その中心にラインハルトがいることは間違いなさそうだから」
「それは……。だができるのか?」
「できないなら、こんな提案はしていないよ」
その懸念をノアは軽く一蹴した。
「裏からコソコソと嗅ぎまわろうとしたって、ラインハルトならすぐに気づく。そうなれば、いくら元皇太子や現皇弟って立場を主張したところで、保護の名目で拘束されてもおかしくない」
「なら——!」
「だから、ここは正面から行く」
自信満々な態度を前にして、ヤマトは続けようとしていた言葉を引っこめた。
「正面からだと?」
「そう。皇弟として保護を求めるとかなんとか言って、堂々と軍に迎え入れてもらう。当然正面から信じるような人はいないけど、だからって皇弟をないがしろにはできないからね。こっちになんの落ち度もない以上、ひとまず穏便に迎えられるのは間違いない」
「……そうして、軍の内側から情報を探るのか」
「そういうこと」
大きく頷く。
聞くかぎりでは、ノアの話に妙なところはない。あのラインハルトを前に猪口才な策を弄するよりは、よほど成功率も高そうだ。
ひとまずヤマトに反論の言葉がないことを察して、ノアはさらに話を続けた。
「どれくらいの成果が出るかは分からないけど、へたに嗅ぎまわるよりはずっとよさそうでしょ? 連絡については、リリと一緒にいれば問題ないし」
「リリもか。受け入れられるか?」
「受け入れさせるよ。皇弟として文句は言わせない」
頼もしい言葉だ。
感心すると同時に、ヤマトはノアが続けて言おうとしていたことを悟った。
「保護される以上、俺が同行する必要はないのか」
「そそ。せっかくの人手を無駄にすることもないからね。ヤマトもヤマトで気になってることがあるんでしょ? なら、そっちのことを調べてみればいい。なにも手がかりがなさそうだったら、リーシャたちと合流してもいいし、僕に声をかけてくれてもいい」
「……そうだな」
大した観察眼だ、と唸らないではいられない。
ヤマト自身でも正体をつかめきれていない違和感と既視感。ノアに協力を要請するにはあまりにも曖昧で、だが無視するには鮮烈すぎる感覚だった。
その探訪を優先していいというのは、ノアからの気遣いに他ならない。
素直に頭を下げることにした。
「助かる」
「いいって。それより、なにかあったらすぐに連絡してよ? ヤマトのことだから大丈夫だとは思うけど、このあたりもそう安全な場所でもないんだし」
「分かった」
「……本当に分かっているんだか……」
溜め息をひとつ。
そうして感情を落ち着かせたノアは、ひとまず方針が決まったことの安堵ゆえか、グッと背筋をのばした。
「じゃあ僕は行くよ。まずはリリを探さないとね」
「気をつけろよ」
「誰に言ってるのさ。ヤマトのほうこそね」
ひらりと手を振り、颯爽と歩き去っていく。
気負いを感じさせず、ゆえに頼もしい背中。それを見送りながら、ヤマトもむんっと胸を張り、思いを新たにした。