第430話
「ラインハルト、どうしてこんな場所に……!?」
呆然とした声が隣から聞こえた。
だがその言葉に応えるだけの余力は、ヤマトのほうにもない。
(帝国の英雄ラインハルト。本土から出ない男だと聞いていたが)
改めて、歩み寄ってくる青年へ視線を飛ばした。
一瞥するだけでは、ただの下級兵にしかみえない。ありふれた軍服に身を包むのみならず、英傑ゆえの覇気をも巧みに隠しているから、何気なく視界に入ったくらいでは気づくことはできないだろう。
だがそうと気づいてしまった瞬間から、すさまじい覇気がヤマトらの眼を惹きつける。
ラインハルトがすぐそばにまで歩み寄ってきた。
「ノア様。こちらでお会いできるとは思ってもいませんでした。ご壮健そうでなによりです」
「……ラインハルトのほうこそ。まさかあなたがここに——帝国の外に出てくるとは思わなかったけど」
苦々しい表情ではあったが、ノアは応える。
表立って敵対はしていないものの、ヤマトたちは皇都で幽閉されていた勇者ヒカルを脱走させた身だ。後ろ暗いモノを秘めている以上、ラインハルトとの接触にも慎重にならなければならない。
知らず知らずのうちに顔が険しくなっていたヤマトを前に、ラインハルトは悠然とした笑みを浮かべた。
「これも帝国のためと、陛下がお命じくださったことです」
「陛下——姉さんが?」
「はい」
ふとノアの表情が変わる。
「……ラインハルト。姉さんの調子はどう?」
「どう、と仰られますと」
「それは……色々あるでしょ。姉さんが即位したことを歓迎する人ばかりじゃないんだから」
言葉こそ濁しているものの、ノアの懸念は明らかだった。
『赤』の皇都襲撃から始まった混乱。それになかば便乗するような形で即位した新皇帝フランに、帝国民の支持が集まるとは考えづらい。
そうでなくとも、帝国内には反皇帝思想をもった不穏分子——旧態依然とした考え方に縛られた貴族勢力がいるのだから。
そんなノアの言葉に対するラインハルトの反応は、わずかに首を傾げるというものだった。
「案じていらっしゃるのですか、陛下の身を」
「……どういうこと? ただひとりの姉さんなんだから、そりゃ心配はするでしょ。姉さんも皇帝なんて重役が務まるような性格じゃないんだし」
「ふむ……」
しばしの沈黙。
わけの分からないまま、ヤマトとノアは顔を見合わせる。
ふたりの戸惑いを他所に沈黙を続けたラインハルトだったが、おもむろに顔をあげた。
「どうやらノア様はご存知ではないようですね」
「なんのこと?」
「いえ。それならばそれでいいのです。知らないほうがいいこともありますから」
「……なんだか気になる言い方だけど」
物腰はやわらかいものの、ラインハルトの眼光は鋭い。
この様子では、いくら詰問してみたところで口を割ることはないだろう。
ノアもそのことを察してしまったのか。深い溜め息をこれみよがしに吐いてから、気を取りなおすべく表情を改めた。
「それじゃあ最初の質問には答えてもらうよ。ラインハルト、ここにはどうして——いや、なにをしに来たの」
「なにをしに、ですか」
「どうしてなんて聞いてみても、どうせ『命じられたから』としか言わないでしょ」
苦笑。
だがノアの言葉を否定することなく、ラインハルトは彼の質問に応じた。
「残念ですが、私がここに来た目的を明かすことはできません。秘匿事項にあたりますので」
「……それは僕であっても、ということなんだね」
「おそれながら」
のれんに腕押し、ぬかに釘。
どうあっても正直に答えようとしないラインハルトの態度に、ヤマトは思わず眉間にシワを寄せてしまう。だがノアにとっては、そうでもなかったらしい。
得心した表情でひとつ頷く。
「なら、ここからは単なるひとり言だよ。ラインハルトはそこでただ聞いてくれればいい」
「それがご命令とあらば」
「じゃあ命令。そこで僕のひとり言を聞いていなさい」
冗談めかした物言いだが、顔は真剣そのもの。
ヤマトがなにか口をはさむ間もなく、ノアは言葉を重ねた。
「表立って主張はしていなかったけど、あなたは僕のことをちゃんと本来の立場——皇太子ノアとして扱っていた。そしてあなたは、僕や皇族のわがままにも大抵は応えてくれる人だ。もちろんさっきの質問くらいならいくらでも」
「………」
「例外は少ない。ひとつは、どう転んでも帝国の害にしかならないとき。あなたはあくまで帝国の利を優先しているから、それに反していることには手を染めない。そしてもうひとつは、皇帝からの勅命を受けているとき」
その言葉を前にして、ラインハルトは表情を微動だにさせない。
だがノアの眼には、少々違うように映ったようだ。顔色を窺うように視線をめぐらせてから、ホッと安堵の笑みを浮かべた。
「その調子だと、今回もそうみたいだね。あなたは姉さんから直接命令されて、さらに自分でも納得したうえで、ここに来た」
「………」
「となると、鍵は姉さんがなにをどこから知ったかだね。数日前に会ったときはそんな素振りはみせてなかったから、おそらくは皇帝に即位した後。父上直属の情報部からかな? そしてあなたを派遣したということは、かなりの大事になると姉さんは考えている」
「お見事です」
仰々しい礼をひとつ。
そうしてノアの言葉をひとまず遮ってから、ラインハルトは代わって口を開いた。
「興味深いお話でした。私からなにかを言うことはできませんが、ますます聡明さに磨きがかかったようだ」
「それはどうも」
「叶うことならば、私もお伝えしたいことがあるのですが——」
ラインハルトにとっては折よく、ノアにとっては折悪く。
駅構内に時報が響いた。昼休憩の終わりを告げる音だ。
「どうやら時間が迫っているようです。お話の途中でこの場を辞すことをお許しください」
「……分かったよ」
不承不承ながらもノアは頷く。
それにホッと安堵の息をもらしてから。ラインハルトは存外に真剣な瞳で、ノアの後ろに立っていたヤマトを見つめた。
数秒の沈黙。
「……なにか?」
「いえ。失礼しました」
敵意こそなかったものの、穏やかな視線でもない。
なにか言いたいことでもあるのか?
そんなヤマトの懸念を前にして、ラインハルトは真摯に頭を下げる。
「よい腕をお持ちのようだ。どうかノア様をよろしくお願いします」
「……仲間だからな。言われるまでもない」
「それを聞けて安心しました」
ふっとやわらかい笑みを浮かべる。
今ひとつ腹のなかが読めない男ではあったが、その笑顔だけは、彼の本心からのモノにみえた。
なんと答えればいいか分からないまま、ヤマトはただ曖昧に頷くことしかできなかった。