第424話
夜闇が天地を飲みこみ、人も獣もすっかり寝静まった頃合い。
穏やかでありながら、どこか不吉なものを感じないではいられない風が吹くエスト高原に、ひとりヒカルの姿があった。
「……本当に、時間をさかのぼるなんて」
茫然とした口調で、そんなことを呟いた。
時間遡行。
時空を操るという破格の加護を授かった勇者にしかできない芸当であり、その力は文字通りの意味で世界をも動かす。
己がなしたことではあるが、ヒカルはまだその実感が湧いていないらしい。
しばし途方に暮れていたヒカルは、ややあってから、気を取りなおすように首を振った。
「こんなところでボゥッとしているわけにもいかないね。早く済ませないと」
柔らかい言葉ながらも、そこに秘められた決意は確かなものだ。
勇者と魔王が争うことに端を発した、かつての世界の危機。
その再現を阻むためにも、今のヒカルにはやらなければならないことがある。
とりあえず場所を確かめようと、ヒカルがぐるりと周囲を見渡したときのことだった。
『——再接続に成功しました』
脳裏に、忌々しくもある無機質な声が響く。
反射的に顔をしかめてしまいながら、ヒカルはその声の主に言葉を返した。
「こっちに来てから声はしなかったから、もう話しかけてくる気はないんだと思ってたんだけど」
『時空が揺れたことにより、一時的に接続状態が不安定になっていました。再接続しましたので、現在は問題はありません』
「あぁそう……」
本音のところでは「余計なことをするな」と言ってやりたい気分でもあったのだが。
努めて悪態を胸のうちに飲みこんで、ヒカルはあたりを見渡した。
「それで。ここはどこ?」
『現地名称:エスト高原の南西部になります。目的地は北東方向へ二キロメートル進んだところにあります』
「ご丁寧にどうも」
軽口をたたく。
二キロメートルならば、今のヒカルにとっては間近としてもいい距離だ。
記憶にあるものよりもはるかに強化されている力を行使した。睨みつけるように視線を向けた先は北東。おおよその距離感を脳内で再現する。
「——転移」
ほんの一瞬だけ、周囲の光景がゆがんだ。
広大な草原に囲まれているという風景は変わっていないから、人によっては気づくこともできないだろう。
だが無機質な声が告げてくる内容が、確かに転移が成功したことを教えてくれる。
『転移能力の発動を検知しました、現在地情報を更新——目的地に到達したことを確認しました』
「ここが、私が戦っていた場所か」
感慨深そうに言葉をもらしながら、ヒカルは視線をめぐらせる。
当然ながら、記憶のなかにある大きなクレーターはどこにもない。転移する前にあった光景と同様に、どこまでも草原が続いているばかりだ。
そのなかにあって、異様な存在感を放つモノがひとつ。
「あれが——」
『確認しました。名称:魔王です』
さながら黒い繭だ。
成体となり空へ羽ばたくときのために、糸の代わりに闇で自らを守ろうとする姿。ただ眺めるだけであれば無害なそれが、いちど目覚めてしまえば大きな脅威となることを、ヒカルは身をもって熟知していた。
吹きつける魔力の波動を受けて、眉間にシワが寄った。
『計測完了しました。魔王は現在、覚醒フェイズ前の安定期にあると計測されます。反撃の可能性はありません』
「……そっか」
応えながら、手のなかに聖剣を顕現させる。
勇者として認められた者だけが使うことのできる、退魔の剣。渡されたときからすでに強い力を宿していたが、長い旅路を経て、その権能はさらに強さを増していた。
これならば。
(一撃で、終わらせる!)
覚醒する前で身動きができない魔王に、渾身の一撃を浴びせる。
言うだけならばひどく簡単で、ともすれば卑怯にも思える手だ。だが、もし魔王が覚醒してしまったときの顛末を知るヒカルには、そのことをためらう理由がなかった。
『この場で魔王を討滅することができれば、危険視されていた事態のすべてが未然に防がれます』
「分かっている」
聖剣を大上段に構える。
夜闇のなかでふいに太陽が現れたかのように、刃がまぶしく輝き始めた。
狙いはまっすぐ。魔王を守っている繭は巨大すぎるから、万が一にも狙いを外すようなことはない。
これで終わりだ。
「いくよ——」
「——それはちょっと困るんですよねぇ」
ふらりと、ヒカルの狙いを遮るように人影が現れた。
慌てて剣先を止めようとしたところで、意味はない。聖剣はすでに振りおろされ、光の刃は黒い繭に向けて殺到している。
(このままだと巻きこむ!?)
焦燥感のまま、ただ眼を見開くことしかできないヒカルの先で。
立ちはだかった人影が、ゆらりと手を薙いだ。
瞬間。
「……消え、た……!?」
『エラー。観測結果から整合性が失われました。状況の再確認を行います』
確かに放ったはずの、聖剣の一撃。
魔王をも滅ぼせるだろう威力のそれが、突如として現れた人影によって、あっさりとかき消されたのだ。
眼の前で起きたことが信じられず、茫然と見つめることしかできなかった。どこか焦りをにじませているような声も、ヒカルの脳に入らない。
「ふぅ。間一髪ってところでしたね」
そんなヒカルの前で、ひと仕事終えたとばかりに額の汗を拭く仕草をした男。
改めてその姿を確かめて、ヒカルはようやく正気を取り戻した。
「クロ!? どうしてここに……」
「いやぁ帝国ぶりですねぇ、勇者様。今夜はこんなところでひとり歩きですか?」
「……そっか。邪魔をしに来たんだ」
「あれま。あっさり無視されちゃいましたよ」
よよよ、と泣く真似をしつつ。
ヒカルの視線から魔王を庇う位置で立ったまま、クロは言葉を続けた。
「そんなインチキをされると、こちらも困るんですよね。勝負の機会はまた別に作りますから、ここはどうか退いてくれませんか?」
「断る」
「ククッ、まあそうですよね。——本当に退かれたら、私としても困っていました」
「なに?」
「それよりですよ勇者様。ここのことは、どのようにして知ったのですか?」
「………」
「誰かに聞いた、わけではなさそうですし。たまたま見つけたのか、勇者であるがゆえの直感か。それとも——実際に見てきたからか」
「なっ」
思わず声がもれた。
(時間遡行したことに、気づいている?)
『それは不可能です。人間が干渉できるほどには、時間の制約はたやすくない』
(そうかも、しれないけど……)
改めてクロの様子を窺う。
ヒカルたちが考えていることをすべて見通しているような、飄々とした態度。だがそれは、無機質な声が告げたように、この世の人が知れることではない。
(ただのデマカセ?)
『そう推測するのが妥当かと』
真実がどうであれ。
頑なにヒカルの前に立とうとし、魔王を守ろうとする姿。そこから察するに、クロこそが未来に起こる惨劇の絵を描いたということは、もはや疑う余地もない。
ならば、やるべきことはひとつだ。
(どうしてこんなことをたくらんだのか。事情は知らないけど、知る必要もない)
乱れていた心を鎮めて、もういちど聖剣を構える。
「問答につき合うつもりはない。そこを退いて。さもなくば——」
「さもなくば力づくですか? いやぁ結構なことです、実に勇者らしい。ただこちらにも、退けない事情というものがありましてね」
言いながら、クロは懐からナイフを取り出した。
戦意は十分。
そのことだけ確かめて、ヒカルはわずかに重心を沈める。
「邪魔するならば、無理にでも押し通る」
「やってみせなさい。結局のところ、力あるモノの理が通るというのが世の摂理。やりたいことを通したいなら、力をみせるしかない」
クロが手強いことは、これまでの出会いからも明らかだ。
だがヒカルに——それも権能を大きく強化された勇者に通用するほどとは、正直思えない。
(なにか手がある?)
いぶかしみながらも、気後れはしないように。
戦士としては万全といっていい精神状態のなか、ヒカルは踏みこみ——、
激しくなると予想された戦いは、だがそれを大きく裏切り、誰の眼にも留まらずあっさりと終結した。