第423話
「———?」
焚き火がパチパチと火花を爆ぜさせる。
小気味いいその音に耳を傾け、炎の穏やかな揺らぎを見つめながら。夜番を務めていたヤマトは、ふとした違和感に首を傾げた。
(なんだ? どこかで同じ光景を見たような……?)
ふとした既視感。
だがその正体を探ろうとしたヤマトの思案は、炭化した薪が崩れる音によって、ふいに遮られた。
「……大したことではないか」
妙に胸がざわつく感覚はあるものの、その答えが浮かんでくるわけでもない。
手元にあった薪を火のなかへ投げ入れ、冷える夜風にそっと溜め息をこぼした。
妙な違和感に代わって思い浮かべたことは、先程聞いたヒカルの慟哭についてだった。
(もとの世界に帰りたい、か)
彼女の願いそのものに、なにもおかしな点はなかった。
どこの誰とも知らない他人の都合で、まるで見覚えのない地へと呼び寄せられる。異邦を楽しむ物好きでもなければ、それが苦痛であることは想像にかたくない。
苦しいことだろう。
特に愛着もない世界の命運を勝手に期待され、そのまま故郷へ帰ることもできないとあっては。
「何か手段を考え——む?」
言いかけたところで、振り返る。
見れば、そこにはテントから這い出ようとするノアの姿があった。どこか驚いたような彼の表情が、少し面白い。
「ノアか。まだ交代には早い時間のはずだが」
「そうだけど……よく気づいたね」
「偶然じゃないか」
言いながら、「それは違うな」と指摘する心の声を自覚した。
それなりに気配に敏感であると自負していたが、これまでノアの接近に気づけたことはなかった。
それに、今のは気配を察知したのではない。
なんとなくノアが来る気がしたのだ。
(以前に同じことがあったのか? だが、なぜ今にかぎって)
悶々とした気持ちが募る。
そんなヤマトの様子をどう見たのか。いぶかしげな表情になったノアは、小首を傾げながら口を開いた。
「どうしたのヤマト。ちょっと様子が変じゃない?」
「……分からん。知らずのうちに疲れが溜まっていたのかもしれないな」
「そう? なら早く休んできたら」
「あぁ。だが、いや」
ノアの提案にありがたく従おうとしたヤマトだったが、途中で口ごもってしまった。
またあの感覚だ。
「まだ寝てはいけない」と、己のなかにいる何者かが訴えかけているような気がする。なくてはならない出来事が、まだ起こっていないような——、
「……これは重症だな」
溜め息がもれた。
根拠のないことにわずらわされ、心を惑わせる。それは刀を学ぶなかで修練した精神のありかたとは、真逆なほどに反しているものだ。
心配そうな顔をするノアに、ヤマトはしっかりと頷いてみせた。
「すまない。先に休ませてもらおう」
「そうしたほうがいいよ。この分の埋め合わせは、明日あたりの夜番で返してね」
「あぁ、心得た」
苦笑いをする。
余計な気負いをしないようにと紛らわせてくれたのだろう。ノアの心遣いに感謝しながら、テントのなかへ潜りこもうとしたところで。
ふと、隣のテントを見やる。
「どうしたのヤマト」
「いや——」
ヤマトが見た先にあるのは、ヒカルたち女性陣が心身を休めているテントだ。
無論、男であるヤマトが無断に入るわけにはいかない場所でもある。
「ヤマト……」
「む」
ヤマトの視線をどういうものと考えたのか。体調を案じるような眼差しだったノアが、途端に冷たい眼をした。
「疲れているからって、さすがに夜這いは見過ごせないよ?」
「違う」
「じゃあどうしたっていうのさ」
「気配が足りてないような……そんな気がしてな」
「誰かが抜け出しているかもしれないってこと?」
「——どうやら、そうみたいだな」
ヤマトとノアが見つめていた先。
女性陣のテントから、のっそりとアナスタシアが這い出てきた。
つい先程まで寝ていたらしくその髪は乱れていたが、爛々とした眼光からは、彼女が眠気からすでに覚めていることが窺える。
ノアと軽く眼を見合わせて、頷き合う。
「誰がいないの?」
「ヒカルだ。俺もついさっき起きたばかりだから、いついなくなったかは分からないが……」
「そう、ヒカルが」
思い起こされるのは、ヒカルの先程の慟哭だ。
強い望郷の念。
それを改めて自覚した彼女が、焦れる想いのままに夜歩きをしているのだろうか。
「探しに行く?」
「それは——」
「別にいいんじゃねぇの? 仮にも勇者名乗ってるくらいだし、俺たちがあれこれ心配するようなタマじゃねぇだろ」
「そうかもしれないけどさぁ」
これがリーシャやレレイであれば、ためらうことなく探しに行ったことだろう。
だがヒカルならば、アナスタシアが言うように、少々話が異なってくる。ヤマトやノアよりもはるかに腕の立つ彼女であれば、ひとり歩きを咎めるほうが過保護というもの。
(心配ではあるが……)
ややあってから、首を横に振った。
「ヒカルなら、滅多なことは起きないはずだ。ひとまず一時間ほど様子をみて、それでも戻らなかったら探しに行こう」
「……まあ、そのあたりが落としどころかもね」
「十分過保護だと思うけどねぇ」
あくび混じりの溜め息をひとつ。
明瞭としていた瞳を眠気で再び濁らせたアナスタシアは、のそのそとテントのなかへ這い戻ってくる。
「んじゃあ夜番は頼んだぜ。そのときになったら起こしてくれよ」
「はいはい」
「……俺も、少し休むとしよう」
妙に落ち着かないことを自覚しながら、己に言い聞かせるようにヤマトも呟く。
焚き火のそばでヒラヒラと手を振るノアに見送られ、テントのなかに潜りこんだヤマトは、そのまま身体を寝転がらせた。
(ただの杞憂であってくれればいいのだが——)
目蓋を閉ざした。
ざわつく内心とは裏腹に、武者として鍛えあげた身体のほうは、暗くなった世界のなかであっという間に眠りに落ちていく。
そのことを少しばかりありがたく思いながら、ヤマトは暗い海のなかでそっと意識を手放した。