第420話
薄れゆく意識のなか。
ひどく濁ったガラス越しの光景を見ているような感覚で、ヒカルは“それ”を見ていた。
「何が……?」
超常の戦いだ。
三六〇度すべてを網羅しているかのような視界の広さと、チリひとつをも見逃さない着眼点の細かさ。ガラス越しでなければ、あまりの情報量の多さにヒカルの頭はパンクしていたことだろう。
そして、それらを受け止めながらも苦悶することなく、よどみない動きで聖剣を振っている自分自身。
(戦って——そうだ。確かに私は、魔王と戦おうとしていた)
意思とは無関係に動く身体を俯瞰しながら、ヒカルの意識は虚空をさまよう。
ぼんやりとよみがえる記憶の果て。この世のモノとは思えないほどに凶暴な気配をまとった魔王の姿が、脳裏によぎる。
——そして空から降り注いだ“何か”に、唐突に終止符を打たれたことも。
「あれからどうなっ——うぐッ!?」
鋭い痛みを前にして、一気に意識が覚醒した。
曇りガラスに覆われているような感覚は、すでに失せている。代わりにヒカルの周囲を渦巻いているのは、もうもうと立ちこめた土煙の匂いと、えずくほどに濃厚な魔力の残滓だ。
頭は混乱しているが、眼だけはぐるりと辺りの様子を確かめる。
(魔王はまだいる……けど、向こうもしばらく立ちあがれないみたい)
二足の竜を思わせる異形。
だがそんな姿をした魔王も、突然撃ち込まれた“何か”の威力を前に、膝を屈さざるを得なかったらしい。
必死に立ちあがろうとするも、その甲斐むなしく、うずくまった体勢のまま動けないでいた。
(魔王も動けない。ならさっきの攻撃は魔王のものじゃないってこと?)
誰に問うでもなく、そう思い浮かべた瞬間のことだった。
『——肯定します。先程の攻撃は、およそ五キロメートル離れた地から放たれたものでした。長距離ミサイルに準じるものと推測します』
「へ……?」
思わず、まぬけな声がもれた。
聞き馴染みはない声、のはずだ。ヒカルの知り合いにこんな無機質な声をする者はいない。
だが、どこかで聞いた覚えもある。
「あなたはいったい——」
『その質問に答えることはできません』
「……それはどうしてさ」
『私はあなたに理解できるモノではありません。私はあなたが理解していいモノではありません。私があなたに説明する時間がありません』
前ふたつの解答には、まったく納得できないものの。
最後にもたらされた解答に、ヒカルはいぶかしげに眼を細めた。
「時間がない?」
『あちらをご覧ください』
その言葉とともに、グイッと無理矢理にヒカルの首が曲げられる。
痛みに文句を言おうとしたのも束の間。
見やった先から堂々と歩み寄ってくる男の姿に、本能的な恐怖を覚えた。
「あの人は……」
『人間です。個体名;ラインハルト、現地名称;帝国にて生活する軍人』
「……ラインハルト」
どこかで聞いた名だ。
だがその正体にヒカルがたどり着くよりも先に、無機質な声が言葉を続けた。
『測定を完了しました。現有戦力では勝率が低く、目的達成が困難であると推定されます』
「目的? いったい何の——」
『干渉を開始します』
覚醒しかけていた意識が、再び閉ざされていく。
(これは、さっき魔王と戦っていたときの!?)
どこか遠い場所から、ヒカルの身体——というより勇者の権能にアクセスできる存在。そんなモノがいるならば、それは“神”と呼ぶしかないだろう。
謎の声の主は、まごうことなく神そのものであるのか、それとも神に準ずる存在なのか。
だがその答えが導かれるよりも早く、ヒカルの身体は勝手に動き始めた。
(い——ったい!?)
身体の制御ができなくなる。痛いほどの悲鳴が頭に響くが、それに一切構うことなく、身体は体勢を立て直した。
聖剣を握りしめる。
「ほう? 立てるような傷ではなかったはずだが」
「………」
「だんまりか。話すつもりがないということか、それとも話すことができないのか」
曇りガラス越しに、向かい合ったラインハルトが嘆息したのが分かった。
ぞわりと嫌な予感がはしる。
「哀れな。今すぐ楽にしてくれよう」
「………」
恐怖にひきつるヒカルの内心とは裏腹に、身体は淡々と剣を構える。
ラインハルトも、悠然と身構えた。
「………」
「………」
一瞬の静寂。
緊張感が張り詰めていくなか、やがてヒカルの身体が重心を低く落とし始め——、
『———ッ!!』
雄叫びが響いた。
ヒカルも立っていた大地が、ずるりと揺れるような感覚。
それに釣られて視線を移した先に——立ちあがろうともがいていた魔王が、黒いスライムに飲みこまれる光景があった。
「な……っ!?」
ラインハルトが驚愕する声が聞こえたが、ヒカルにとって——ヒカルの身体を操る“何者か”にとっては、それどころではなかったらしい。
ヒカルの意識を封じていた曇りガラスに、再び大きな亀裂がはしった。
『イレギュラーの発生を確認しました。原因を推定——失敗。続いて解決策を模索——失敗。再度演算を行います』
(なにを、悠長なことを……!)
徐々に視界の鮮明さが戻ってくる。
その景色のなか。
魔王を喰い終えた黒いスライムが、続く獲物にヒカルを選んだことを直感した。
飛びかかってくる。
『———!』
(転移!)
転移先の座標はでたらめだ。
ただ迫るスライムの脅威から逃れることだけを考えて、咄嗟に転移を発動させる。
視界がぐにゃりとゆがんで。
「く、はぁ……っ」
『———?』
なんとか賭けには勝てたらしい。
ぱっと見たかぎりでは、転移距離は五十メートルほど。黒いスライムからすれば大した間合いでないのかもしれないが、ひとまず攻撃を逃れられたということの意味は大きい。
スライムに意識を向けられる前に、再び転移の発動を準備させて、
『結論が出ました』
「何の!?」
跳ぶ。
黒い触手が先程までヒカルがいた空間をえぐった。
それを見つめるヒカルの身体は、はるか上空を自由落下している最中にある。
『この事態を解決するためには、時間遡行しかないと結論しました』
「事態を解決? それに時間遡行って——」
『説明している時間はありません。緊急事態につき、権限の一部を借用します』
みるみるうちに地面が迫るなか。
三度、ヒカルの視界が灰色に染まった。
(またこんな……!)
『時間遡行の発動——権限が不足しています。権限強化を申請——特例により許可されました。権限強化を開始——成功しました』
(落ちる——っ!?)
地面はもうすぐそこにまで近づいている。
訪れる衝撃にそなえて、閉ざせるはずのない目蓋を閉ざそうとし、奥歯を噛みしめようとして——、
『時間遡行を開始します』
ヒカルの意識が、極彩色な光の奔流に飲みこまれた。