第42話
ほんの一瞬前までは夜闇の中で寝静まっていたアルスの街が、今や大騒動の渦中にある。
苛立つ心を懸命に宥め落ち着かせながら、グランツは早足で屋敷の廊下を歩いていた。
(いくら何でも早すぎる! 奴らは私を切り捨てるつもりですか!?)
横目で壁の時計を見やれば、夜の零時は既に越していることが分かる。クロと会った時点から二日後――すなわち今日に襲撃は決行されるとは聞いていたが、まさか日付が切り替わった瞬間に始めるとは。
(契約書でも作っておくべきでしたね……!)
唐突すぎる話の転換で、その発想に至らなかった自分を恨む。
口約束のままでならば、容易に粗を突くことが可能だ。だからこそ、商人として名を馳せるようになってから、グランツは商談に契約書を作成することを習慣としていた。今回ばかりは、それを『海鳥』に利用されて悪い方向に出てしまったが、契約書はいつもグランツの身を助けてきた。
「これも一つの教訓、としておきましょうか……」
「グランツ様?」
訝しげに目を向けるロイには応えないまま、グランツは足を進める。
やって来たのは執務室の前だ。そのドアノブを握り、軽く回す。鍵はかかっていない。
(やはり忍び込まれましたか)
グランツは極端な秘密主義者だ。ゆえに、極力自分の周囲に部外者を近づけようとせず、また人を信じようとしない。信じられるものは、己と金、そして契約だけ。
執務室には、グランツだけが入室することができる。特性の鍵を設け、それを持っているのはグランツだけ。クロのように不可思議な力を使わない限りは、とても忍び込めない場所にしていたはずだ。それを破るだけのピッキング技術を有していたとは。
「腐っても『海鳥』の後継者ですか」
「……申し訳ありません」
妹の蛮行に、ロイが頭を下げる。
それに鼻を鳴らして応えながら、グランツは扉を開ける。盗みに入られたにしては、まったくものが散らかっていない。そこら辺は律儀と言うべきか。
「あなたはそこで追手を喰い止めなさい。必要なものをまとめたら、私も出ます」
「分かりました。お任せください」
礼をするロイに見向きもしないまま、グランツは執務室へ身を滑り込ませる。
照明のスイッチを切り替え、光が部屋を照らす。室内に誰もいないことを何度も確認してから、グランツは深く溜め息をついた。
「ままなりませんね、まったく」
全身から滲み出る脂汗が気持ち悪い。
この屋敷に揃えているのは、全員――ロイも含めて、グランツが契約によって縛りつけている兵たちだ。その性根にグランツは一切の興味を持っていない。ただリスクとリターンの兼ね合いによってのみ、従わせている連中。だからこそ、『海鳥』の言葉で容易に裏切りかねない。人は感情的な生き物だ。
絶体絶命の危機。誰を頼ることもできない。いっそのこと、このまま窓から抜け出して、夜闇に紛れて海に逃れた方がいい気すらしてくる。
「――それは違いますね」
ずいぶんと弱気になっていたようだ。
小刻みに震えていた手を押さえ込む。心臓の鼓動を意識して、何とか思考を落ち着かせる。
元々、自分はどのようにアルスで成り上がったのか。どのようにしてアルスを支配したのか。
「全ては金です」
金。
何も知らない者から見れば、それは不可思議な紋様が描かれた紙であったり、やたら細かな細工のされた金属板でしかないもの。だが、価値を知る者同士であれば、それは大きく意味合いを変化させる。
金は人の欲望と直結している。長期的な損得のみならず、短絡的に人の情を動かすことができる、至高の力だ。
小声で呟きながら、グランツは執務室の床に作らせた隠し扉を開く。
「ここは無事でしたか……」
隠し扉の先には金庫が一つ。
グランツがようやく抱えられるほどの金庫の中には、既にグランツも数え切れないほどの金貨が詰まっていた。貧乏人が中を見てしまえば、その金色の光で目が眩んでしまうのではないだろうか。
自分の栄誉の象徴。これを見るたびに、グランツは自信を取り戻すことができる。金によって人を操れるのだと、強く確信することができる。
「大丈夫だ、私はやれる、私はやれる、私は――」
目を閉じ、自分に言い聞かせながら金貨を触れる。
幾度となく触れたことのある貨幣の感触に、徐々に心臓の鼓動が収まっていく。
(この金と、契約書を幾つか。それさえ持ち出せれば、どこへ行こうとも再起は可能だ)
つまりは、ここが正念場。
失敗することは許されない。信じられるのは自分だけ。勝利に必要最低限のものだけを割り出し、それ以外は切り捨てる。
「………よし」
覚悟は定まった。
頭の回転はかつてないほどに速い。山積みになった書類の中から必要なものだけを抜き取る。その最中にも、思考はこれからの行動について検討を進める。
結論。
「今のままでは、確実な脱出は見込めない」
ならば、どうするか。現状を変える切り札を得る他あるまい。
机の上に置いた通信用魔導具を起動する。繋ぐ先は既に決まっている。
『はい? どちら様ですか?』
「申し訳ありませんが、時間がありません。手早くお願いしますよ、クロさん」
『あらグランツさんでしたか。どうしました?』
何を白々しい、と頭が煮えたぎりそうになるが、必死に冷却する。今は取り乱している時間も惜しい。
「予定よりもだいぶ早い行動だったことは、ひとまず目をつぶりましょう。それはともかく――」
『はい? 何のことです?』
クロの言葉に、グランツは一瞬だけ言葉に詰まる。
「何のこと? 竜がアルスを襲撃していることです! おかげで私の計画も狂っていますよ」
『いやいやご冗談を。まだ行動させていませんよ』
クロが何を言っているのかが、理解できなかった。
『せっかくですし時間もお伝えしましょうか。竜の攻撃は陽の出と同時に行います。それまでに何とかアルスを抜け出してくださいね?』
「そんな、馬鹿な……」
『まあそうですね。何か被害があったとしたら、竜が身動ぎしたくらいじゃないですか? いい加減、あの竜も焦れているみたいですし』
本格的な攻撃はこれからということ。
それに思わず視界が眩みそうになるが、すぐに取り直す。
「……それならそれで構いません。どうせやるならば、派手にやってほしいものですね」
『おや? いいのですか?』
「構いませんとも」
グランツの財産――長い時間をかけて作り上げてきたアルスの街も、既に捨てる覚悟は固めた。
どうにかして魔王軍の攻撃から守るつもりではあったが、今の状況はそれを許してくれない。下手に未練を残しては、グランツ自身の身が危ない。
そんなグランツの覚悟を悟ったのか、クロの声の調子が少しだけ変化する。
『なるほど。それで、私に連絡したのはなぜですか? ただ文句を言うためではないのでしょう?』
「無論です」
応えながら、グランツは扉の外を見やる。
荒々しい足音が扉の奥から漏れ聞こえている。『海鳥』の連中が早くも到着したらしい。ロイがどれだけ彼らを喰い止められるかは分からないが、あまり期待はしない方がいいだろう。
怖気づきそうになる心を奮い立たせて、グランツは通信先のクロに告げる。
「機関が開発した試作品があると言っていたでしょう。至急こちらへ」
『――へぇ?』
リスクは大きい。だが、乗り越えられたならば、その先に勝利が待っている。
『何に使うつもりですか? リスクは重ねて申し上げたはずですけど』
「あなたには関係ありません」
『クフフッ! それはごもっともですね!』
楽しげに笑うクロに、グランツは沈黙を保つ。
『まあ構いませんとも。サンプルはまだまだたくさんありますからね!』
「どのくらいかかりそうだ」
「すぐですよ」
グランツの耳が、クロの肉声を捉える。
すぐさまそちらの方へ視線を転じれば、執務室の片隅に影のように佇むクロの姿があった。
「はい、こちらがその品です。そして、こちらが契約書」
グランツの流儀に合わせてか、クロはわざわざ契約書を持ち込んできたらしい。
鼻を鳴らしながらそれを受け取り、グランツは即座に目を通す。
「サンプルは無償提供する代わりに、それによる損害賠償は一切認めない契約です。経過観察はこちらが勝手に行いますから、そちらが配慮する必要はありません」
「そうですか」
クロから手渡されたのは、真紅の宝石だ。
見ていると思わず吸い込まれそうになるほどに、透明度の高い紅色。何も知らない者にならば高く売れそうだが、グランツからすれば、その美しさを楽しむことはできそうにない。
「欲望を力に変える魔導具、ですか」
「原理は私にもさっぱり分かりませんでしたけど」
だが、結果がもたらされるならば今はいい。
宝石を握り締めて、グランツは暗い笑みを浮かべた。