第416話
それは、天変地異というしかなかった。
大地は割れ、天空は泣く。振りまかれる暴威を前に、自然は抗うこともできず、ただその奔流のなかで身を縮こませることしかできない。
そして、その暴風を巻き起こすモノが二つ。
「……被害は軽微。戦闘を続行」
ひとつは勇者だ。
聖なる光をその身にまとった姿は神々しく、勇者とはすなわち神の使徒なのであるという教会の論調も理解できてしまうような雰囲気さえある。だがその戦いぶりは、苛烈の一言に尽きるだろう。
人外じみた反応速度に、背中にも眼がついているのではないかと疑いたくなるような視界の広さ。そして徹底して運を排除せんとする、理詰めの戦術。
もはや人という枠で、勇者を語ることはできない。そう納得せざるを得ないほどの力だった。
『―――!!』
もうひとつは魔王だ。
元々は魔族であったその身体は、歴代魔王の怨恨を前にして原型を失い、今や異形としか言い表せないような姿になっていた。深い闇に全身を蝕まれてひたすらに暴れまわる姿からは、かつて聡明な君主であったことなど察せるはずもない。
勇者の猛攻に対して一歩も退くことなく戦う姿は、それが魔王であると納得するに足るものだろう。だが彼が魔王である理由の最たるものは、それではない。彼の身体から滲み出る魔力が、そのあまりの濃さゆえに、自然を朽ちらせているのだ。
ただ存在するだけで、生命を刈り取っていく姿。それはもはや魔王というよりも、死神に近くもある。
二人の戦いは熾烈を極める。その余波を前にしただけで、世界が悲鳴をあげるほどだ。
そんな世界の脅威を、はるか天空から眺める影が五つ。
『これは、想定以上の力だな……』
『何だと『白』、貴様まさか臆しているのではあるまいな』
『まさか。だが、迂闊に手を出すわけにもいくまい』
遠目でも色鮮やかに輝く、五色の龍鱗。
ただ天空に座しているだけにも関わらず、地上すべてを掌握しているかのような圧倒的な存在感。
それらは、彼らが世界最高峰の生命――至高の竜種であることを如実に物語っていた。
白銀の鱗を煌めかせ、『白』が地上の戦いを見つめる。
『さて、どう介入したものか。ただ灼き尽くすだけならばたやすいが――』
『いけません。それでは地上が――ひいては世界が、人の住めない地になってしまいます』
『分かっている。だが、何もせず手をこまねいているわけにもいくまいよ』
灼熱の炎をもって燃やすか、自慢の龍牙龍爪をもって斬り裂くか。
いずれにせよ、彼ら至高の竜種が自身らの優位性を確信していることに変わりはない。危機感を滲ませながらも、どこか余裕を感じさせる瞳で、竜らは悠然と眼下の戦いを眺めていた。
「――ククッ、ようやく舞台に役者が揃いましたね」
御伽噺の主役である、勇者と魔王。
この幻想世界の調停者たる、至高の竜種。
それらがまとめて一箇所に集まった場面を前にして――哄笑する者がいた。
クロ。
全身を黒いローブで覆い隠したその男は、心底楽しげな様子で、混沌とする戦場を眺めていた。
「従来よりもはるかに成長した勇者と魔王。彼らの戦いに、さらに竜までもが参戦するとあれば――ただでは済まないでしょうねぇ」
「………」
「この周囲一帯が不毛の大地になるくらいであれば、かわいいものです。ともすれば、その余波は北や南へと及ぶかも――」
「そうはさせない」
「ククッ。あなたが言うと、本当にそうなる気がしてきて恐いですねぇ」
くるりと振り返る。
誰もいなかったはずのヒビ割れた丘陵。クロの背後に、いつの間にか男が一人立っていた。
その顔立ち自体に特筆するようなところはない。どちらかといえば朴訥として、今一つ特徴に欠けた青年。だがその身にまとう軍服――帝国軍正規兵に支給される制服の胸元には、数え切れないほどの勲章が飾られている。
フードの奥で、クロは口元の笑みをさらに深く歪めた。
「英雄ラインハルト。まごうことなく人類最強の英雄にして、帝国が秘めた切り札のひとつ――とはいえ、あなたがまさかここへ現れるとは思いませんでしたが」
「………」
「先日のプレゼントは、確かに受け取っていただいたはず。今はまだ本国にいるべき時期だったのではないですか」
「貴様には関係のないことだ」
「まあまあ、そう言わずに」
帝国の大英雄ラインハルト。
その存在は伝説的であり、帝国内にて皇帝と並んで崇拝される男だ。その武力は幾度となく帝国の危機を救い、ゆえに帝国民にとっては心の拠りどころともなっている。
そんな彼が、なぜ本国を離れて、遠い辺境の地に来ているのか。
クロは内心の疑念と焦りを隠したまま、言葉を重ねた。
「あなたは帝国の武の象徴だ。赤き竜に襲われ混乱におちいった皇都には、あなたが必要だと踏んでいたんですけどねぇ」
「さてな」
「それにあの皇帝は、あなたにひどく執着していた様子。よほどの事態と判断しないかぎり――いやそうであっても、あなたを国外に出すような真似はしないと考えていたんですけど」
「………!」
ラインハルトがわずかに、頬を強張らせる。
そんな英雄らしからぬ表情に、クロはおやと眼を見張った。
「ふぅむ。ここしばらくは帝国周辺の状況は追っていなかったのですが――その様子だと、皇帝の身に何かありましたか」
「………」
「ここでの黙秘は、肯定するのと同じですよ」
むっつりと黙りこんだラインハルトを軽く揶揄しながらも、クロは思考することを止めない。
皇帝の身に何かあった。
普通に考えたなら、それはクロが講じた仕掛けに皇帝がはまったということだろう。だがだとすれば、ラインハルトがクロに向ける敵意の薄さに、納得がいかない。
(私とは関係のないこと――たとえば貴族の内乱で、皇帝が害されたのでしょうか。ですがラインハルトが守っているかぎり、それはありえない)
悶々と考えること、しばらく。
やがてクロの脳裏に、ひとつの懸念が浮かびあがった。
「もしや――眠れる獅子が目覚めましたか」
「―――」
どうやら当たりらしい。
だが推測が的中したことへの喜びを得るよりも先に、クロは沈鬱な溜め息をもらした。
「そうですか。それは厄介なことになりましたねぇ。くれぐれも刺激しないようにと、アナスタシアさんに釘を刺しておいたはずなんですが……」
まだ、計画に致命的なわけではない。
だがこの機を逃せば――帝国が国難を脱してしまえば、いよいよ目的を達することが難しくなってしまうだろう。
改めて、今回の計画にかける思いが強くなる。
(ここを逃せば次はない。となれば――)
ちらとラインハルトの様子を窺う。
ラインハルトは今一つ乗り気でない様子ながらも、退く気はないらしい。むしろ危機感と使命感とを瞳にたぎらせて、勇者たちの戦いを見つめていた。
(彼をこの先へ通すわけにはいかない)
決定する。
それと時を同じくして、ラインハルトもクロへと視線を移した。
「どうあっても、そこを退くつもりはないらしいな?」
「えぇ残念ながら。どうしてもここを通るというならば、私はあなたを止めなくてはなりませんね」
「止められるつもりか?」
「どうでしょう。ですが、止めなくてはいけないので」
飄々とあしらう口ぶりながら、クロの内心は本気そのものだ。
ラインハルトを――帝国の大英雄をこの先へ通すわけにはいかない。彼が戦地へ現れた瞬間に、彼の前に勝利以外の結末は失せてしまうからだ。
これが『白』をはじめとする竜であったならば、クロもその行く手を阻むようなことはしなかっただろう。だがラインハルトがひとり勝ちしてしまうような展開は、避けなくてはならない。
(英雄ラインハルトに敗北はありえない。そうである以上、私も彼を止めることはできないのですが――)
それでも、時間稼ぎくらいはやらねばならない。
気怠い様子を装いつつ、クロはゆっくりと懐からナイフを取り出した。
「英雄殿。ここはひとつ、お手合わせ願うとしましょうか」
「ほう?」
「私にも決して譲れないものがある。たとえ帝国やあなたが相手になろうとも」
「……その意気やよし」
とたんに、ラインハルトの身体から闘志が噴きあがる。
さすがは英雄と称えられるだけのことはある。その洗練された気は、本来ならば人が会得できるようなものではない。長らく戦場に身を置いてきたクロからしても、規格外としか言い表せないほどの代物だった。
想定をはるかに越えた武威を前にして、脂汗が噴き出る。
(………これは、少々早まったかもしれませんね……)
いまさらすぎる後悔を、その胸に抱きながら。
迫るラインハルトの猛威に、クロは必死に立ち向かうのだった。