第415話
(なんとか凌いだか)
思わず溜め息がもれる。
赤鬼と青鬼という強力なことこの上ない二人組を相手にして、被害らしい被害もないまま、撤退させることに成功した。そういえば大金星と誇れそうな戦果であったが、当人であるヤマトらには、その勝利を素直に喜ぶことはできそうになかった。
彼らに痛手を負わせたわけではないこと。
まんまと時間を稼がれてしまったこと。
その他にも様々な理由はあるが、そのなかでもっとも大きい要因は――、
『なぁんだ、いなくなっちゃった。不味かったけど、せっかくのご飯だったのに』
手にした刀から伝わってくる、幼い童女のような意思。
そこから滲み出ているのは、幼さゆえの無邪気な悪意だった。当の刀からすれば、それが悪意であるという自覚もないのだろう。だが、ただ己の空腹を満たすためだけに他者を喰らわんとする彼女の思惑は、ヤマトらからすれば悪意以外の何物でもない。
眉間にシワを寄せるしかできないヤマトに、顔を強張らせたノアたちが歩み寄ってきた。
「ヤマト。それは……」
「見ての通りだ。薄々と危ういものは感じていたが、ここにきて、ついに覚醒めてしまったらしい」
「……呪剣。それも相当に強い呪いをまとっているわね。ちょっと手を出すわ」
事態の深刻さを表すように、リーシャも険しい顔をする。
元々は教会勤めの聖騎士だっただけあって、リーシャはこの手のモノに造詣が深いらしい。検分しながら、指先をそっと刀の腹に押しつけた。
「『浄化』」
『うん? なぁにこれ、ゾワゾワってしてて――なんか面白い!』
詠唱とともに、リーシャの指先から青白い光が放たれた。
察するに、それは呪物を浄化するために用いられる術式なのだろう。現にヤマトには、刀にまとわりつく瘴気が不自然に蠢いていることが分かった。
だが、それが本当に効いているかは疑わしいところがある。
十秒ほど黙したまま術式を制御していたリーシャは、だがやがて深く溜め息を吐くと、諦めたように首を振った。
「やっぱりダメね。私一人の力じゃ対症療法にもなっていない。それどころか変に刺激して、活性化を招く恐れもあるわ」
「活性化って……。それじゃあ浄化できないってこと?」
「……少なくとも、今すぐに祓えるモノじゃないことは確かよ。聖地に保管されている浄化装置とか、後はヒカルの力を借りれば、もしかしたらいけるかもしれないけど――」
当然、今はそんなことをしている暇はない。
なおも言い募ろうとしていたノアを視線で制止して、ヤマトはリーシャに向き直った。
「呪剣といったか。これを使って、何が起こる」
「代表的な症例は精神侵食ね。言ってみれば、今のあなたは休む暇なく洗脳を施されているような状態なの。今すぐに何かが起こるわけじゃないけど、そう遠くない将来に、自分の意志に反するようなことをしてしまうかもしれない」
「自分の意志に……」
「……そうね。一番報告されている事例は、身近な者を傷つけてしまったとかだけど」
その言葉に、咄嗟に反論することはできなかった。
自覚はある。
刀が妖刀として覚醒めた瞬間に、すさまじい勢いで伝わってきた意思の奔流。それはともすればヤマトの理性を吹き飛ばしかねないほどのものであり、その矛先は、無差別に周囲の人――今回はノアやリーシャ、レレイへと向けられていた。
リーシャの言う通り、今すぐにどうこうなる問題ではないのだろう。少なくとも今は、妖刀から伝わってくる意思も制御することができている。ただの戯言として、童女の言葉を無視できているくらいだ。
だが、それは未来の安全までをも保証するものではない。
先の赤鬼との戦闘中でもそうなったように、妖刀がヤマトの意思を越えて、ヤマトの身体を操るような事態も想定されるのだ。
ノアが焦った表情を浮かべて、リーシャに詰め寄る。
「何か手はないの? もういっそのこと捨てちゃうとか」
「……この刀がもっと凡庸なものだったなら、それも一つの手だったわね。だけどそれは名のある逸品だから、覚醒めた呪いの格もかなり高い。下手に手放そうとすれば、それは元々の持ち主に仇なす形で返ってくるわ」
「仇なす形って……」
「詳しい理屈は省くけど。呪いが無理矢理に因果を歪めて、報復しようとするのよ」
ゾッとしない話だ。
ほとほと疲れはてた顔で溜め息を吐いたリーシャは、同じく顔をしかめていたヤマトに向き直る。
「だからヤマト。これについては、ひとまずあなたが管理するしかないわ。見たところ、今はひとまず呪いを抑えられているのよね?」
「あぁ。すぐに喰われるようなことはなさそうだ」
「なら今回の件が片づくまでは、あなたが持っていたほうがいいわ。できるだけ戦闘も避けて、呪いに抵抗する力を落とさないように。もちろん、呪いが強まっていくようだったら、なんとか私が浄化してみせるけど」
「……そうか」
その言葉が強がりであることは、わざわざリーシャの表情を確かめるまでもなかった。
だが彼女は、心からヤマトの身を案じてくれているのだ。ならば無闇に混ぜっ返す必要もない。
「頼りにしている」
「任せなさい! それじゃあ後は――」
空を見上げる。
一時間ほど前まで広がっていた平和な空模様など、今となっては見る影もない。凶兆であると誰もが信じる赤黒い空は、見た者の心を否応なくかき乱し、不安な心地にさせる。
そしてその原因は、恐らく北方――ヤマトたちに先んじてヒカルとアナスタシアが向かった地にある。
(だが、妙に力を感じるな。これがヒカルと魔王の戦いによるものなのか……?)
人知れず首を傾げそうになったヤマトの横で、これまで口を閉ざしていたレレイが、焦った面持ちになる。
「この気配は……、竜も行っているようだ」
「竜?」
「至高の竜種、それも数が多いな。三体は確実だが、下手をすれば五体いるかもしれない」
至高の竜種が五体。
それはつまり『赤』『青』『緑』『黄』『白』という、広く世間に知られた伝説的な竜が、あの場所に勢ぞろいしているということだ。
(これは、想定よりもマズいかもしれないな――)
思わず歯噛みする。
勇者ヒカル。
暴走した魔王。
世界最高峰の生物である至高の竜種。
それに加えて、赤鬼らの雇い主――本人らによれば協力者であるところの、クロもいるはず。
そうそうたる面子だ。彼らが本腰を入れて戦わんとしているならば、ヤマトたちが向かったところでどうにかできる話ではない。せいぜい、必死にヒカルを連れ戻すくらいが精一杯だろうか。
(――ダメだ! 今はそんなことを考えている場合じゃない!)
暗い想像に沈みそうになった感情を、勢いよく首を振って浮上させる。
今はとにかく、窮地に立たされているだろうヒカルのもとへ急ぐことが先決だ。
「行くぞ!」
「もちろん! ヒカルの手助けをしなくちゃならないしね」
「私たち全員がそろって勇者一行なんだから。躊躇う理由はないわ」
「前衛は私が務めよう。頼りないかもしれないが、ヤマトの代わりくらいはできるはずだ」
次々に応じる声。
皆それぞれ、内心に不安は抱えていることだろう。それでも、その不安に萎縮してしまわないようにと、己らを鼓舞している。
そんな仲間たちの姿を頼もしく思いながら、ヤマトも北方へと足を向けた。