第414話
腕がひらめき、刀が振るわれる。
いつにない鋭さだが、そこにヤマトの意思はなかった。むしろヤマトには、意思を離れて動く腕と刀を前に、ただ茫洋と眼を見開くしかできない。
火花が散る。
「なにっ!?」
「これは――?」
本来であれば渾身の力をもってしても抗いがたい剛剣。その猛威に対して腕一つで振るわれた刀は、真っ向から迎え討つように刃をかち合わせ――どういう理屈か、赤鬼の斬撃を弾いていた。
九死に一生を得るとは、まさにこのことか。
必殺を冠した刃が空を切ったことに、赤鬼と、そしてヤマトすらもが、理解を追いつけないでいた。
『ほら。あなたももっと頑張って、ちゃんと握って』
またしても不可解な声。
だがそれを理性が受け止めるよりも早く、再びヤマトの腕が振るわれる。
刀の切っ先が、浅く赤鬼の胸元を裂いた。
「ちっ」
『不味い。全然美味しくない。なにこの血』
赤鬼が大きく飛び退る。
その姿を思わず見送ったヤマトは、だがふと我に返り、手元に視線を落とした。
そこには、これまで幾度となく振ってきた刀がある。極東に赴いた際に授かった刀だ。だがその威容は――これまで見た覚えがないほどに、禍々しい瘴気に包まれていた。
「なに、が……?」
「……ずいぶんと厄介なモノを飼っていたらしいな」
皮肉混じりな赤鬼の言葉が、耳を通り越していく。
これまでも何度か、それらしい兆候はあった。ただの刀とは言い切れない、曰くつきの代物。世が世ならば畏れられたのかもしれないと、なかば他人事のように考えていたが――、
妖刀。
これほどに分かりやすい姿はないだろう。
禍々しい瘴気を振りまき、見ただけで理性がゴリゴリと削られていくような感覚すらあった。刃先についていた赤鬼の血は、まるで紙に水が染みるように、妖刀のなかへと吸いこまれていく。
そして何より、刀を握る手から伝わってくる、無邪気な、そして狂気的な意思の奔流。
『もっと美味しい血が飲みたいなぁ。誰がいいんだろ――あっちの娘とかいいかも』
「―――っ!」
知らず知らずのうちに、刀が仲間たちのほうへ向こうとしていた。
その柄を両手で握りしめ、勝手に動くことのないよう念じる。瞬間、不満そうな声が幾つも立ちのぼったが――どうにか聞き分けてくれたらしい。刀身にまとう妖気はそのままに、ノアたちへ向けようとしていた殺意は収まった。
「ふむ。やはり制御はできていないか」
「………」
ほっと安堵の息をもらしたのも束の間。
興味深そうにこちらを眺めていた赤鬼が、ぽつりと言葉をこぼした。
警戒するヤマトの鋭い視線を一切気にすることなく、赤鬼はさらに言葉を重ねていく。
「妖刀。数は少ないが、幾つか見た覚えはある。どうやら“それ”も妖刀の一つ――しかも、今しがたちょうど成ったばかりのようだな」
「………」
「幼き妖刀は無邪気だ。ただ己に芽生えた衝動のままに、眼についた血肉を喰らわんとする。幼さゆえに、そこには一つの道理もない」
それは、きっとそうなのだろう。
手にした刀から伝わってくる感情は、ただひたすらに「喰いたい」というもの。腹を空かせた幼子が食事をせがむように、妖刀は誰かしらを斬ることを望んでいる。
今でこそそれは他者に向いている。だがもし刀の飢えが限界を越えて、ほんのわずかな理性をも飲みこむほどになってしまったなら――、
「警告だ、一刻も早く“それ”を手放せ。今でこそ抑えられているのかもしれんが、いずれ貴様自身が喰われることになるぞ」
「―――!」
妖刀にまつわる話として、使用者が狂気に苛まれたというものは枚挙に暇がない。
実際にその刀を手にしたから、ヤマトにはその逸話が正しいことが理解できてしまった。際限なく押し寄せる無邪気な殺意。それは使い手の理性をたやすく侵食し、やがては我を失わせる。
だから、赤鬼の言葉は正しいのだろう。
たとえこの窮地を脱したとしても、妖刀を携えたままでは明るい未来はありえない。ならば少しでも理性が保たれているうちに、理路整然とした判別ができているうちに、そして――妖刀に執着されるよりも早く。ヤマトは刀を手放すべきだ。
――だというのに。
『何を考えているの? ダメだよ、私を置いていこうだなんて考えちゃ』
「くっ!?」
刀を握る手から、どす黒い感情が流れこんでくる。
「手放すことは許さない」。
そう言うように、刀は手のなかにガッチリと収まり、指が柄を固く包みこんでいた。
「手遅れか」
「うる、さい……!」
「せめてもの情けだ。貴様の魂が支配される前に――」
赤鬼がゆらりと刀を構えようとした――直前のことだった。
銃声が鳴り響く。
「まったく、固く守りすぎだって!」
「だけど、これで突破口は開けた! レレイ!!」
「任せろ!」
視線を移す。
赤鬼が猛攻を繰り広げていた間、ノアたち三人をなんとか喰い止めようとしていた青鬼が、ぐらりと体勢を崩していた。肩からは流血――ノアの弾丸を避けられなかったのだろう。
そして、間髪入れずに踏みこむレレイの姿もある。
「ちっ。時間切れか」
舌打ちを一つ。
立っていることで精一杯だったヤマトを置いて、赤鬼はさっさと身を翻した。手にした刃を輝かせ、一直線に青鬼のもとへ駆けていたレレイの背を狙う。
ぞくりと嫌な予感がヤマトの背をぬけた。
「レレイ避けろ!」
「―――っ!?」
間一髪のところだった。
咄嗟に脇へ飛び退いたレレイの、一瞬前までいたところ。そこを赤鬼の刀が斬り裂き、尋常ではない剣圧をもって周囲の耳目を集めた。
傷ついた青鬼を背で庇うようにして、赤鬼は仁王立ちする。
「……結局、間に合わなかったみたいだね。もしかしたらと思ってたんだけど」
「横槍が入った。それがなければ、片はついていた」
「そっか。それは残念」
彼らの会話がヤマトのことを指しているのは、言わずとも知れた。
だが顔をしかめたノアたちが口をはさむ間もなく、赤鬼と青鬼はそろって一歩退く。
「退くべきか」
「だね。情けないけど、僕はもう戦えそうにない。これ以上やろうとしても、足手まといにしかなれないよ」
「だろうな」
見たところ、青鬼が肩に受けた傷は深い。
ただ腕を動かせないだけでないということだ。あふれ出た血が多すぎれば身体全体が動かなくなるし、下手をすれば生命にも関わってくる。
まごうことなく潮時。
だがヤマトたちからすれば、それを黙って見過ごすことなどできるはずもない。
「行かせるとでも?」
さらに動こうとした赤鬼の機先を制するように、ノアは発砲した。
弾丸は赤鬼の足元を貫く。
だが微動だにしない赤鬼と青鬼を前にして、ノアは苦々しく表情を歪めた。
「逆に問おう。貴様らに、我らが止められるとでも?」
「―――!」
「来るならば来い。だがつまらぬ醜態を晒すようなら、斬り捨てるぞ」
一戦交えた後とは思えないほどに、気力でたぎった闘気。
それを身に浴びて、ノアとリーシャは否応なく身体を硬直させた。
「仕方ない、か」
唯一身動きに困らなかったらしいレレイも、なにやら様子がおかしいヤマトをちらと一瞥し、溜め息をもらす。
赤鬼らを捕らえることで得られるだろう情報は得がたい。だがそれは、仲間たちを――消耗したヤマトや先行するヒカルを捨てるほどには、価値が高くない。そう判断したのだ。
ゆっくりと構えを緩めたレレイに、赤鬼は仮面のうちからふっと笑みをこぼした。
「いい判断だ」
その言葉を最後に残して。
青鬼がかろうじて発動させた魔導術を目くらましに、二人は忽然と姿を消してしまった。