第412話
その異変は、あまりにも唐突に訪れた。
「あれは……っ!?」
「あっちの方角は――もしかしてヒカルが?」
北方の空が、ふいに赤い光で彩られる。
さながら夕焼けのごとき有様ではあるが、今が昼時であることを思えば、不自然であることに違いない。それどころか、空に差した朱は徐々に黒みを帯び、禍々しく赤黒い色にまで変じてしまったのだ。
その空の下に何があるかと考えをめぐらせ――思い浮かんだのは、ヤマトらに先んじて行動したヒカルたちのことだった。
ヤマトと相対していた赤鬼が、その構えを解く。
「ひとまず、我らの任は果たせたか」
「なに……?」
「薄々勘づいてはいただろう? 我らの目的が、時間を稼ぐことにあったと」
その言葉に、咄嗟に言い返すことはできなかった。
勘づいていなかったと言えば、それは嘘になる。
癪ではあるが、ヤマトと赤鬼との力の差は歴然としていた。培った経験や磨いた技術その他諸々において、赤鬼はヤマトを上回っていたのだ――にも関わらず、ヤマトは今なお立ち続けている。
その理由はただ一つ。
赤鬼が、本気でヤマトを殺そうとしていなかったからに他ならない。
(要は、ただ遊ばれていたというわけだ……)
腹立たしい気持ちはあるが、それを面に出すようなことはしない。
感情が動くとすれば、それは敵手に舐めた真似を許してしまった、己の不甲斐なさに対する憤りだけだ。
奥歯を噛み締め、表情が動かないようにする。
「……時間を稼いだ結果が、あれか」
「そういうことだ」
ヤマトの秘めた激情を、知ってか知らずか。
赤鬼は手にした刀をぶんっと振り、その切っ先で北の空を示す。
「あそこに水を差させるなと、クロから依頼されてな。貴様をさっさと斬り捨ててもよかったが、その骸を見張るだけというのは、つまらんだろう?」
「ちっ」
「だから、今このときまでは遊んでやることにした。いくら未熟者が相手とはいえ、ただ無為に空を眺めるよりはマシだろうと」
ヤマトにとっては必死の戦いが、赤鬼にとっては暇を凌ぐための余興でしかなかった。
その事実に、噛み締めた奥歯がぎりっと音を立てて擦れた。
だが、むやみに感情をかき乱したところで、何かが好転するわけでもない。
「――ふぅ」
意識して深く息を吐く。
そうすることで、茹だった頭が少しだけ冷えてくれた。多少明晰になった視界で、赤黒い空を見上げる。
「あちらが気になるか?」
「………」
「だんまりか。だが、些事に惑う貴様を斬ったところで、面白くはないからな」
赤鬼の面が、にわかに笑みを浮かべるような錯覚。
だがそのことに思い至る前に、赤鬼は朗々と言葉をつむいだ。
「あれはクロの仕込みだ。やつが長らく思い描いてきた、野望を成就するための」
「野望?」
「仔細までは知らん。気になるならば、貴様がやつを問いただせばいい。――ここを脱せられるならば、の話ではあるがな」
もはやその程度の挑発で、心が揺れることはない。
仏頂面で聞き流したヤマトに、赤鬼はつまらなさそうな溜め息をもらした。
「……概要だけならば聞いたことがあるだろう? やつは、勇者と魔王を争わせることに執心している。それも、可能なかぎり両方の力を増させたうえでな」
「それをして何になる」
「星が割れるのよ」
くつくつと不敵な笑みを浮かべて、赤鬼は答えた。
「個々を比べただけならば、そのようなことにはなるまい。そも星を割るような力が、この世の人に宿るわけもなし。――だが勇者と魔王が合わさったならば、ありうる。やつらの力は互いに反発し合い、高め合う。ともすれば神をも超越するほどに」
「与太話だ」
「信じるかどうかは貴様次第だ。だがそれが成ったから、あの空がある」
赤黒い空を刀で差す。
「覚醒めた勇者が光を――空間をねじ曲げ、魔王がさらに歪める。そうすることで、この世の色が狂わされた。その結果があれだ。放っておけばさらに歪みは大きくなり、果てに空間そのものを壊し始める」
「………」
「信じられないか? だが事実だ。このときのために、やつは散々に手回しをしてきた。そのことは、貴様らのほうがよく知っているだろう?」
「――仮に」
こめかみの鈍い痛みをこらえながら。
ヤマトは問い返した。
「仮にそれが事実だとして、クロはなぜ星を割ろうとする? もし本当に星が割れたならば、お前たちも死ぬしかないだろうに」
「くくくっ、まあそうだろうな」
赤鬼が返したのは肯定。
それにヤマトが眉をひそめるよりも早く、赤鬼は再び口を開いた。
「その答えは簡単だ。クロも、本気で星を割ろうとはしていない。ただ星を割る脅威があると知らしめることに、価値を見出している。現にやつらのところには、泡を食った者が続々と集まっているはずだ」
「……逆らいがたい脅威を盾にして成し遂げたい、真の目的があると?」
「話が早いな。そうでなければ、やつに同行する者など破滅志願者しかおるまいよ」
だいたいの話は理解できた。
強大な力を身につけた勇者と魔王とが戦うことで、ともすれば星が割れかねないほどの余波を振りまかせることがクロの目的。その先にどのような景色を望んでいるかは、協力者である赤鬼すらも知らないことらしいが――問題はそこではない。
クロの目的が聞いた通りだとすれば、これは勇者ヒカルがどうにかできることではない。むしろ事態を解決しようと彼女がもがくほどに、クロの願いは成就されていくという始末だからだ。
ゆえに、クロの目的を阻み、ヒカルの身を救おうとするならば。
(俺たちが、やるしかない――!)
そのためにも、まずは――、
「ノア。手は出さなくていい」
「ヤマト……」
背後で魔導銃を構える素振りをしたノアを、眼を向けないままに制止した。
ノアだけではない。リーシャもレレイも、ヤマトにとっては頼れる仲間だ。事実、彼女らの助力がなければ、ヤマトはここまで来ることもできなかった。
(だが――)
自分が深い海へ没入していくような感覚。
彼女たちのことを気にかければ、それが損なわれてしまう。そんな危機感があった。
そうしたヤマトの思いを、言わずとも察してくれたのだろう。
「……分かった。でも、危なくなったら手を出すからね」
ノアはそう言ってくれた。
その言葉に知らず安堵しながら、ヤマトは再び赤鬼に向き直る。
「ふん。ようやく覚悟を定めたか」
「―――」
――何があっても、赤鬼を突破しなければならない。
その一念を胸に刻み、刀の刃を立てた。
「貴様は頭の出来が悪いくせに、あれこれと多くを考えすぎている。迷いは刃を鈍らせる。そんなことは、知恵が取り柄といきがる青瓢箪にやらせておけばいいのだ。貴様のような武者には、獣のごとくただ一事に専心するくらいが相応というもの」
「ぬかせ」
言われるまでもない。
今のヤマトの頭にあるのは、ただ眼前の敵を斬ることのみ。
どうやって刀を振るかという方策もないまま、“斬る”という思念をまっすぐ刀に注ぎこむ。その想いに応えるように震えた刀が、今は心地よく思えた。
「来い。つまらぬ真似をするようならば、即刻斬り捨てる」
「できるものならば、やってみろ」
売り言葉に買い言葉。
あくまで上位者たらんとする赤鬼の言葉を一蹴し、ヤマトは勢いよく踏みこんだ。




