第410話
この世のどこにあるとも知れない、深い闇。
一寸先を見通すこともできず、また手探りで辺りを調べることも叶わない。そもそも、そうした調べごとができるような個があるのかすら、定かではない。
そうした闇の中にあって、確かに――だが弱々しく蠢動するモノがあった。
『―――』
闇よりも深い混沌を身にまとい、直視するだけで正気が損なわれるような禍々しさを振りまくモノ。
人が見たならば、ともすれば邪神とも名づけられるだろう。混沌がそのまま実体を得たかのような姿は、信仰であれ畏怖であれ忌避であれ、人が崇拝するにたるだけの格をそなえていた。
『―――………』
そんな、とても現し世には相応しくない超常を体現した存在は。
どこか苦悶するかのように身悶え、だがその苦悶すら自分のものと認められないほど自我を喪失し、ただ禍々しさだけを残して消え失せようとしていた。
『―――?』
身体が灼かれる苦痛。
混沌に溶け出す快楽。
それらも判然としないなかで、その黒いモノ――かつては“黒竜”の名で恐れられたスライムは、散り散りになった肉体を寄せ集める。
だが懸命に身体を構築しようとしたところで、それが意味を成すことはない。そうして得た肉体も、この闇のなかにあっては、自覚することも難しいのだから。
それでも。
己が存在すること――生きていることを証明するように、スライムは必死に身体を寄せ集める。
『―――………』
果たして意識と呼べるか、定かではないが。
ひたすらに肉体の構築を繰り返すスライムのなかで、記憶の断片が蘇った。
もうどれほど前のことか。いや、ほんの一瞬だけ前のことかもしれない。だが確かにスライムの身に起きたこと。
魔王との戦いだ。
『―――』
知性など欠片も残っていないスライムであっても、その光景は鮮明に思い出すことができた。
何かに導かれるがまま放浪するスライムの前に現れた、魔王と呼ばれる若き魔族。その力は、スライムの前に立つにはあまりに不相応であり、ゆえに何の躊躇いもなく蹂躙した――はずだった。
だが、スライムが魔王にトドメを刺そうとしたときに――“それ”は起こった。
『―――』
魔王の覚醒――いや、より正確には。
歴代魔王の魂が覚醒めたのだ。幾千幾万のときを経て、自我を失いながらも加護として積み重なり。そうして巨大な――それこそ、スライムでは抗えないほどの怨念と化した魍魎の魂が覚醒めた。
ただ力の多寡を比べようというならば、それでもスライムは勝利することもできただろう。たとえ魔王らの妄念がどれほど図抜けていても、かつて黒竜と呼ばれたスライムが喰ってきたモノは、それを凌ぐほどに多かったからだ。
だが、現実はそうはならなかった。
魔王とはすなわち、魔を統べる王。
その名の通り、彼が真なる魔王として覚醒めた瞬間――黒竜の身にあった力のほとんどは、彼に奪われてしまった。
結果として残ったのは、何かを喰う前のスライムただ一人。
『―――………』
かつて黒竜として恐れられた頃の姿など、もはや見る影もない。
大陸に現存する魔物では、誰が疑うこともなく最弱。知性も本能もなく、ただ茫洋とし、無為に生命と時間を浪費するだけの存在。
――いや、違う。
『―――!』
どくんと。
何かが跳ねるような音が、闇のなかで木霊する。
何の拍動か。だがその正体を確かめる間もなく――スライムは、狂おしいほどの衝動に襲われた。
――腹ガ減ッタ。
飢え。
それはすなわち食への渇望であり、生への渇望でもある。
秒ごとに肉体の輪郭が定まる。ただ虚無がそのままあるかのような闇のなかにあって、徐々に、だが確実に、スライムの身体が浮かびあがっていく。
喰イタイ。
もう何でもいい。肉か草か。ただ喰えるモノであれば――いや喰えなくとも、喰いたい。
『―――』
たとえば。
そう、たとえばの話だが。
この身を縛る闇そのものは、喰らえるのだろうか。
『―――』
気づいてしまえば、もう止まることはできなかった。
どこか遠く。胸の奥深くから冷静な声――己でない、もう一人の己が叫んでいるような感覚があったが、それは飢えを紛らわせてはくれない。
ただ飢餓の衝動に任せて、辺りの闇を喰らう。
『―――!!』
喰えたのか、喰えてないのか。
判別はできなかった。だがわずかに――ほんのわずかに、飢えが満たされた気がした。
その瞬間、元から残っていたかも怪しかった理性が、今度こそ完全に吹き飛ぶ。
喰ラウ。
喰ラウ喰ラウ喰ラウ喰ラウ――、
『―――?』
耐えがたい飢餓感が、収まっては膨らみ、満たされては渇く。
その連鎖を数百ほども繰り返したときのことだ。
遠く――深淵なる闇を越えたその先に、“何か”があることに気づいた。
間違いない。
“あれ”は喰えるモノだ。
『―――――!』
大きな気配が二つ。
小さいが、実に美味そうなモノが一つ。
そしてどこか懐かしく――また耐えがたいほど食欲をそそられるモノが、五つ。
あれらすべてを喰らえたならば、この飢えも満たされるだろうか。耐えがたい苦しみを忘れ、飽食の幸福に我を失することができるだろうか。
その可能性に思い至った瞬間。
身を束縛していた闇への執着が、不思議なほど綺麗さっぱりと消え失せる。
『―――』
這い上がる。
闇を裂き、魔を退かし、大地を割り、光を塞ぎ。
飢餓感に支配されたスライムは、ただまっすぐに、ご馳走が並べられた食卓へと這い上がっていく。
すべては、ただ喰うために。