第41話
結局、ヒカルとグランツの押し問答は長く続けられることはなかった。
「――お待たせっ!」
そう声を上げて駆け寄ってきたのはララだ。満面の笑みから察するに、目的のものは手に入れることができたらしい。
同じくララの姿を認めたグランツは訝しげな表情を浮かべる。
「あなたは確か、『海鳥』のララさんでしたか。何の用ですか?」
「へんっ! そんな澄ました顔も、いつまで保つやら」
やけに自信満々なララの様子に、グランツは警戒態勢に入ったらしい。目つきを鋭くさせ、その威圧だけで人を萎縮できそうな迫力を放っていた。だが、それも既に無駄な抵抗と言うべきか。
ララが手持ち鞄の中から、一枚の紙を取り出す。
「これ、何だか分かる?」
「……それは」
遠目から見た限りでは、かなり上質な紙であること以外に特筆すべきところのないものではある。ペンで事細かく文が記述された後に、赤い印が署名と共に二つ押されている。契約書の類であろうか。
そのくらいの考察しかできなかったヒカルに対して、グランツの方は違ったらしい。ララが掲げ持つ契約書を凝視した後、そっと口を閉ざす。露骨な動揺こそ見えないものの、何事かを必死に考え込んでいるように見える。
「ララ、そいつは何だ?」
「偶然そこで拾ったんだけどね。そこにいるグランツが交わした契約書みたいなんだ」
『海鳥』の男が発した疑問に対して、若干芝居がかった口調でララは説明する。遠くからでもその文面が見えるようにララが掲げる。確かに、署名欄にはグランツの名前が書き込まれているようだ。
「そして、その内容が驚きだ。まず、取引相手に魔王軍隠密部隊『影』、なんて書いてある」
「な……っ!?」
衛兵たちがざわめく。
グランツの下で働いている以上、ララが持った契約書が本物であることは彼らも分かるのだろう。だからこそ、『海鳥』の男たちの糾弾を裏づける契約書の存在に、目を疑っている。
そんな衛兵たちを更に揺さぶるように、ララは声高らかに契約書を読み続ける。
「次に、取引内容。甲はその魔獣操作の技術をもって海で活動し、その対価として、乙は甲へ金を支払うだってさ」
「デタラメだっ!」
衛兵の一人がララへ駆け寄り、その契約書を奪い取る。
嘘であってほしいという願いも混じっていたのだろう。舐めるように契約書を何度も読み返した衛兵は、怒らせていた肩を、やがては落とす。それだけで、衛兵たち全員が悟ってしまった。
「そんな、嘘だ……」
「グランツは律儀な商人だからね。一つ一つの仕事に契約書を作るし、ずっと保管する。その方法は、ちょっと雑だったみたいだけどね」
冗談めかして、ララはそんなことを言う。
実際には厳重に保管されていたはずだが、あくまで保管に不備があったためララが偶然入手した、ということにしたいらしい。鎧の中でヒカルは苦笑いを漏らす。
衛兵たちは皆戦意喪失している。グランツは沈黙したままの体勢を保っているが、その表情に余裕がないことは一目で分かる。唯一ロイだけがグランツの傍で気力をみなぎらせている。だが、対するこちらは大義を得たことで、戦意は万端。既に情勢は決したと言っていいだろう。
(ひとまず、これにて一件落着か)
本来の目的であるところの聖鎧の入手はできていないが、グランツと魔王軍の接触を白日の下に明かすことができた。打倒魔王軍という最終的な目的へ、一歩近づくことはできただろう。
ほっと一息ついたヒカルの耳に、誰かが駆ける足音が聞こえてくる。
思わず視線をそちらへ転じたヒカルと同様に、数人が足音の方へ目を向ける。暗闇に閉ざされた住宅街を駆ける人影は一人だけのようだ。身の丈はあまり高くない。ヒカルよりもやや低い程度だろうか。華奢な身体つきに、駆けるのに従って上下する滑らかな髪。近づくに連れて徐々にはっきりと見えてくる顔は、傾城の名が相応しいほどの美貌の少女。
「ノアか。いったい何をしているんだ」
声をかけたヒカルは、直後、ノアの格好を目にして息を呑む。
男性用の水着にパーカーを羽織っただけの姿だ。自然と上着の間から肌色が垣間見えて、ヒカルですら思わず絶句してしまう色気が漂っている。手に握られた短銃が唯一、異質な存在感を放っているが、それが気にならないほどの魅力を本人が放っている。
思わず顔を背けたヒカルに、ノアの方も気がついたらしい。
「ヒカルっ! やっと見つけた!!」
「そ、それよりもノアは早く服を着た方が――」
「それどころじゃないって!」
それほどつき合いが長くないヒカルから見て、ノアはいつも物腰柔らかい好青年然とした態度を崩さない人だ。そんな彼が、血相を変えている。とても尋常ではない。
ただならない事態を察したヒカルは、呆けていた意識を叩き起こす。
「何があった」
そう言えば、ヤマトの姿が見えない。
ノアとヤマトはほとんどセットでヒカルの中では意識されている。否が応でも、嫌な予感が胸中に渦巻く。
「クロが現れた! 今はヤマトが足止めしているけど、あいつらはアルスを襲うつもりだ」
「クロ? 魔王軍の者だったな」
グランダークでの戦いの折に、少しだけ相見えた記憶がある。ヒカルはほとんど対峙しなかったものの、ヤマトと同等程度の実力は備えているらしい。飄々として底が知れず、ヒカルとしてはあまり関わりたくない存在だ。
だが、今回に限っては大した問題ではないだろうか。
「ならば大丈夫だ。魔王軍と結託していたグランツを、これから捕縛するところだからな。今更魔王軍がここで活動することは――」
「それじゃ遅い! 今すぐにあいつらを止めないと!」
「どういうことだ?」
魔王軍が何をしようとしていたのかは分からないが、グランツを捕らえられたならば、これ以上アルスに何かできるわけでもあるまい。これから魔獣の大群が迫るのだとしても、アルスが一丸となれば撃退も可能のはずだ。
そう考えたヒカルに対して、乱れた呼吸を整えたノアは、真っ直ぐにヒカルを見つめながら口を開いた。
「あいつは僕たちに、『アルスが沈む』って言ったんだ」
「沈む? 何かの比喩か?」
経済的に没落するということだろうか。確かに、アルスで一番の豪商であったグランツが捕縛されたならば、そうなる可能性は否定できないが。
そんな言葉に、ノアは首を横に振る。
「比喩じゃない。そのままの意味だって話だ」
「……海に沈むということか? そんなことは――」
ありえない。
そう続けようとしたヒカルの言葉を裏切るように。
突如、地面が揺れ始めた。
「な――っ!?」
「馬鹿な、早すぎる!?」
そう叫んだグランツの方へ、思わず視線を転じる。
そのまま詰問するよりも早く、地面は更に揺れを大きくさせて、ついには誰も立っていられないほどになった。
「うぉぉおおおっ!?」
「何だこれ!?」
あちらこちらから悲鳴が響く。
地面がきしみ、ひび割れる音が耳に届く。煉瓦を積んだ塀や館の一角までもが、盛大な音と共に崩れ去った。
思わず地面に手を着いた体勢のままで、ヒカルはジッと耐え忍ぶ。数秒の揺れの後に、徐々にそれが収まっていくのが分かる。
「なんだったんだ……?」
この大陸で地震が起こるという話は、これまで聞いた覚えはない。
元の世界の経験からすぐに平静を取り戻したヒカルは、すぐに辺りを見渡す。
周囲の民家はほとんどが崩れてしまっている。幸いにも木製の家屋がほとんどだった割に、夜も更けた頃合いだったからか、ボヤ騒ぎは起こっていないように見える。人々も瓦礫を避けて外へ出て、互いの安否を確かめ合っているようだ。
地面には無数の亀裂が走っている。ただヒビが入っている程度のところもあれば、油断すれば人が落下しかねないほどの深い亀裂まである。そして、その全ての亀裂から、海水が噴き出している。
――アルスが沈む。
「まさか、これが……?」
「いや。まだこんなものじゃないはずだ」
ノアの言葉に、ぞっと背筋が凍る。
今の地揺れだけでも、アルスが被った被害は相当なものだろう。その復興には年単位の時間が必要になるはずだ。なのに、まだ先があると言うのか。
脂汗を滲ませたヒカルの耳へ、ララの叫び声が届いた。
「グランツ! どこに行くつもり!!」
咄嗟にグランツが元いた場所へ目を向ければ、ロイ一人を従えたグランツが屋敷の中へ身を消していくところが視界に入る。
ララが率いる『海鳥』の面々が後を追おうとすれば、その行く先を衛兵たちが遮る。彼らの表情には未だに躊躇いの色が浮かんでいるものの、道を空けるつもりはないらしい。槍の穂先を真っ直ぐに『海鳥』の男たちに向けている。
「テメェら、どういうつもりだ!?」
「……グランツ様がどういうつもりなのか、俺たちには分からない。アルスを、人を裏切っているのかもしれない。だが! グランツ様は俺たちの主だ! 主をお守りすることこそ、我ら兵の誉れ!」
衛兵のその言葉に、ゴズヌは微かに身を震わせる。
それをヒカルが目にした直後に、『海鳥』たちは怒号を上げる。
「このっ、分からず屋共がぁッ!」
「分からず屋で結構! 我らの忠義はグランツ様にある!!」
グランツの何が彼らを駆り立てるのか、ヒカルには分からない。それでも、衛兵たちは自分たちの身を賭すに値するだけのものを、グランツという男に見出しているらしい。
『海鳥』たちと衛兵たちの間で、緊張感が急速に高まっていく。
それを目の当たりにして思わず放心したヒカルは、ノアに肩を揺さぶられる。
「ヒカル、ヒカル!! ぼーっとしてる暇はないよ!」
「の、ノア。私は何をしたら……」
肩を掴んだままの体勢で、ノアがまっすぐに、兜の奥のヒカルの目を見据える。
微動だにしないその視線を受けて、グルグルと空回りをしていた思考が落ち着きを取り戻す。
「クロの話だと、この騒動はアルスを守護していたはずの竜の仕業らしい。地下に幾つもある竜の巣を一つに繋げて、最後に大陸との繋ぎ目を竜に破壊させるつもりだって」
「そんな、無茶苦茶な」
「だけど、現にこうして被害が出てる。でも、まだアルスが沈むってほどではない」
確かに、今のままでもアルスは水浸しになるだろうが、海に沈むというほどではない。
頷くヒカルを他所に、ノアは空を見上げる。夜もすっかり更けた頃合い。体感では、元いた世界で午前二時くらいになるのだろうか。
「タイムリミットは陽の出まで。それまでに、どうにかして竜を止める。それ以外に方法はない」
「―――」
竜を止める。
言葉では簡単に言ってくれるが、果たしてどれだけ困難なことか。そも、竜の場所が分からない。加えて、果たして竜種を止めることなどできるのか。昨日見た成竜の強大さは、ヒカルの想像を遥かに上回っており、とても太刀打ちできるような存在には思えなかった。
「竜が今どこにいるかは分からないけど、最後に大陸を切り離すって話だ。あと、竜の巣を一つに繋げるってことだから、それを辿れば行き着くことは可能なはず」
それは、確かにそうかもしれない。
ノアが知っているのかは定かではないが、勇者の加護――時空の加護を手にしたヒカルならば、深海を通り抜けることすら不可能ではない。大陸方面に向けて竜の巣を渡っていけば、やがては成竜の元に辿り着けるだろう。
「あと、今ならば評議会に乗り込んで鎧を受け取ることもできるはず。本物だって確証もないけれど、一度試すくらいならやっていいと思う」
聖鎧。
かつての勇者が扱った武具の一つ。それを手にすることができれば、ヒカルの大いなる助けとなるのは間違いあるまい。聖剣が放つ光が必要だということは分かっているから、本物をまったく使えないということはないはずだ。
「……それでも、絶対じゃない。たぶん、すごく危険なはずだ。だから――」
「いや、任せてくれ」
何かを続けようとしたノアの言葉を遮る。
ノアがここまで道を示してくれたのだ。これで怖気づくなどという格好の悪い真似を、二人の前でできるものか。
ヒカルの胸に、グランダークでの誓いが蘇る。沸々と闘志が腹の底から湧き出して、身体に力を与える。
「何の問題もない。竜を止めることすらできずに、どうして魔王を倒せるのか」
加護の調子もいつになくいい。全身に力がみなぎる。
ヒカルの気持ちに呼応してか、自然と腰元の聖剣が起動する。白い光が鞘から漏れ出て、辺りを暖かく照らし始める。
「竜の方は任せてくれ。絶対に止めてみせる。だからノア、ここは――」
「うん、こっちは任せてよ。ちょっと気になることもあるしね」
一触即発の『海鳥』たちと衛兵たちを見やって、自信あり気にノアは頷く。
魔王軍と繋がっていたというのだから、グランツをこのまま見逃すことはできなかった。懸念が晴れて、ヒカルは兜の中で笑みを浮かべる。
聖剣を抜き払う。その光は、かつてグランダークで戦ったときと同じく輝いている。
「――いざ、行くぞ」
ヒカルの呟きに応えて、聖剣は煌めいた。