第407話
「―――?」
誰かに呼ばれた気がした。
その思いのままに視線をめぐらせたものの、周囲には人影一つ見当たらない。
吹き抜ける湿った風に紛れこませて、ヒカルはそっと溜め息をもらす。
「なに辛気臭い顔してるんだよ」
「アナスタシア……」
「あいつらのことなら、心配するだけ無駄だと思うぜ。すぐ来るとまでは言わないが、そう簡単にくたばるやつらじゃないだろ」
「それは、そうだけど」
「それよりも、俺たちは俺たちの心配をするべきだな」
ぐうの音も出せないほどの正論。
からかうような軽い口調とは裏腹に、そう諫言したアナスタシアの眼には真剣な色があった。彼女も、今がのっぴきならない状況だと踏まえてのことだろう。
気圧されながらも頷いたヒカルに、アナスタシアも満足気な笑みを浮かべる。
「んで、さっき爆発した場所ってのは、たぶんここのことなんだが……」
「ずいぶんと、被害が大きいみたいだね」
「あぁ。こりゃ生き残りとかは期待できそうにないな」
冷酷なように聞こえるアナスタシアの言葉に、ヒカルは反論することはできなかった。
焼け野原だ。
元々は草が青く茂っていたはずの野原が、見渡すかぎりの焦土となってしまっていた。風にのって灰が散らされ、焼け焦げた匂いを周囲にばらまく。あちこちでえぐり返された土が露出し、その湿り気から、爆発がつい先程起きたことだと窺える。
ひどい有様だ。
「いったい何が――」
「そりゃ、明白だと思うがな」
思わず首を傾げそうになったヒカルに先んじて、アナスタシアは周囲の空間を眺める。
「ここらへんの魔力を探ってみろ。お前なら、それで分かるはずだ」
「魔力を?」
疑問は残るが、それを口にしてみたところで、アナスタシアが素直に答えてくれるとは思えない。
ヒカルは彼女に言われた通りに、周囲の魔力を探り始めた。
(ずいぶんと荒れている。均衡なんてまるでとれちゃいない。何か、途方もなく大きな力が暴れ回った後みたいな――)
途方もなく大きな力。
その存在にヒカルが思い至ったとき――“それ“の気配は、唐突に現れた。
「これは――ッ!?」
「お出ましみたいだな」
ただ感知しただけで――存在を認めただけで、身体に怖気が奔った。
あってはならない。
“それ”は、世界にあってはならない異物だ。
身体の奥底から湧きあがってくる、際限のない闘志と拒絶感。その奔流に眼を回しながら、ヒカルはその気配のほうへと顔を向けた。
「おや。そんなに恐ろしい顔をして、どうかしましたか?」
「クロ……?」
「やっぱり、いやがったか」
いつからそこにいたのか。
既に浅からぬ因縁を感じているクロが、ヒカルたちと同じく焦土を一望するように、背後に立っていた。
だが、彼ではない。
むしろ、その背後にいる――、
「あれは……!?」
『―――――』
「ふふっ。やはり、あなたは“これ”が気になりますか」
クロの背後に控える、異形のモノ。
見たところは影法師――ヤマトが鬼とよぶモノに近い。だがその存在感や内に秘めているだろう力の大きさは、鬼とは比べ物にもならない。ヒカルが全力を出したとしても、その影法師を抑えることができるかどうか。
だが、それよりも何よりも。
(なんであいつを見ていると、こんなにも心がかき乱されるの!?)
ただ心が騒がしいと表現するには、それは剣呑すぎた。
絶対に、認めてはならない。
クロの背後に立っている異形。それが存在していることを、ヒカルの魂すべてが否定する。いかなる手段をもってしても、たとえ己が破滅することになろうとも、“あれ”だけは拒絶しなければならない。
「……ヒカル? おいどうした!?」
「無駄ですよ。そうなってしまった以上、もはや外からの言葉は聞こえない」
「てめぇ、何をした」
「何も? ただ彼女の勇者としての本能が、そうさせているだけです」
ごちゃごちゃとアナスタシアとクロが言い合っているが、それも気にならない。
ただ、眼の前の“あれ”を討滅する。
そのことだけにヒカルの意識は傾いていた。心がドス黒い感情に覆われ、かつてないほどの力をもって聖剣を握らせる。
「勇者としての――というと、“それ”は魔王か」
「えぇ。時間をかけて準備した甲斐がありました。おかげで魔王としての悪性はこのうえないほどに高まり、こうして、勇者の理性を失わせるレベルにまで至っている」
「……これでお前の目論見通り、勇者と魔王の戦いが始まる。それも、過去に例がないほど凄絶な戦いが」
「そういうことです」
「ヒカルをここにつれてきた時点で、もう詰んでたってことかよ」
「より正確には、魔王が覚醒めた時点で。ですけどね」
――うるさい。
心によぎった声のまま、無造作に聖剣を振りまわした。
刃が虚空を斬り、この世のどこにも通じていない闇を露出させる。亜空間の闇はまたたく間に現し世を侵食し、小鳥のさえずる音すらもかき消した。
「………、………!?」
「…………? ………」
「………!」
(これで、いい)
耳が痛くなるほどの静寂。
亜空間が隔てた先で、金髪の童女が何かを叫んでいるが――もはや気にする価値もない。
今の己にとって、価値あることはただ一つだけ。
「お前を、消す」
視界の中心に、異形のモノをとらえた。
“あれ”はあってはならないモノだ。
己が存在するかぎり、“あれ”を認めることはならない。“あれ”が存在するかぎり、己は己を認められない。“あれ”を滅ぼすことでのみ、己を認めることができる。
『―――!』
「うるさい口だ。今すぐに、何も喋れないようにしてやる」
――あれ? これはいったい?
どこか無邪気な声が響いた気がしたが――もう、止められない。
無尽蔵に加護を引き出し、その力で身体を覆っていく。直視できないほどに身体がまばゆき、異形から放たれる深い闇の気配を相殺する。
「行くぞ」
その一言とともに。
戦いの幕が、切って落とされた。