第406話
一直線に赤鬼が駆ける。
その姿を正面にとらえたヤマトは、赤鬼の勢いにやや気圧されながらも、握りしめた刀の刃を立てた。
(速い。だが、向かって来るというのならば――)
じりっとすり足で後退した。
ほんのわずかにだけ、間合いをずらす。素人の喧嘩であればほとんど意味をなさないような差だ。だがその小さな差が、熟達した者の戦いにおいては大きな役割を果たす。
勢いに任せて踏みこもうとした赤鬼の、足が鈍った。
「ちっ」
(かかった!)
もし当初の勢いのまま斬りかかろうとしていたなら、わずかに離れた間合いの分だけヤマトの傷は浅くなり、代わりに致命的な反撃をいれることができた。
その意味では、咄嗟に足を止めた赤鬼の判断はよかったのだが――、
「そこは俺の間合いだ」
腰だめに刀を構えた。
赤鬼の眼は間合いをとらえ直しているが、身体のほうは違う。急停止した勢いを殺しきれず、申しわけ程度に構えられた刀にも、ほとんど力がこめられていないことは明らかだった。
機はヤマトへと傾いている。
「いざ――」
踏み込みながら、真一文字に刀を振り抜く。
必殺とよんで差し支えないほどの一撃。薄い鉄板程度ならばたやすく斬り裂くその刃を、虚をつかれた赤鬼が防ぐ手立てはない。
そう確信したがゆえに、赤鬼が斬撃の軌道上へと刀を掲げたときも、さして混乱することなかったのだが――、
「これは……っ!?」
手応えがない。
何かを斬ったという感触も、それどころか何かに触れたという感触すらない。まるで幻を薙いだと錯覚するような感覚に、ヤマトの思考は惑う。
だが、気がつけば頭上の空間を裂いていた刀の光が、ヤマトを我に返した。
(受け流された!? だが、これはあまりにも――)
あまりにも鮮やかすぎる。
ただ斬撃をいなすのとは話が違う。それまでの流れを丸ごと無視して、ほとんど直角に力の向きを変えてみせる神業。しかも、攻撃していたヤマトがとんと気づけないほどの手並みときた。
現実に起こったことが徐々に頭に浸透するにつれて、感嘆を越え、まったく別の感情が湧きあがってきた。
(鍛錬を積んだからといって、会得できるものじゃないぞ!?)
いうなれば、それは畏怖だ。
人間離れした技を会得した赤鬼に対する、敬意のようなものは感じている。だが同等かそれ以上に、とても手の届かないモノを目の当たりにしてしまったかのような、言いようのない恐怖をも感じてしまった。
だがその感情を、面に出すような暇はない。
「胴ががら空きだ」
「―――ッ!?」
こともなげに呟いた赤鬼の一言が、夢遊しかけていたヤマトの意識を釘づけにした。
視線を正面へと戻せば、そこにいるのは手早く刀を引き戻す赤鬼の姿だ。今はまだ構えていないものの、もう一秒もしない内に、その凶刃がひらめくことは明白だった。
体勢が崩れることもいとわず、咄嗟に飛び退る。
「まだ闘志は萎えずか。――いいぞ、そうでなくては」
「くっ!」
緩みかけていた指に力を入れ直す。
続けざまにバックステップを繰り返し、間合いを離しながら刀を構え直した。
だがヤマトが完全に体勢を立て直すよりも早く、赤鬼は膝に力を溜める。
「気を緩めるな。さもなくば、すぐに沈むぞ」
「好き勝手言ってくれる……!」
踏み込むのと同時に、刀を上段へ。気がついたときには、赤鬼は開きかけていた間合いを一気に詰めていた。
今度は、間合いをずらすような小細工を弄する暇もない。
かろうじて構えた刀の先に赤鬼を見つめながら、ヤマトは思案をめぐらせる。
(俺には、やつの刀を受け流すような真似はできない。だが避けるのも難しいか――)
逡巡は一瞬。
覚悟を決めた眼で、赤鬼が振りかぶる刀の向きを確かめた。
「む……?」
「―――っ」
赤鬼の気配が揺らぐ。
(気づかれたか!?)
同じく刀使いだからこそ、その刃の鋭さはヤマトもよく知っている。何も考えず刀を構えたところで、防御ごと斬られるのが関の山だろう。
ゆえに、肉を斬らせて骨を断つ。
腕一つ臓物一つくらいの犠牲は覚悟のうえで、カウンターの一撃を目論んでいたのだが。
「小賢しい」
狙いを悟ったのだろう。赤鬼は刀を上段に構えたまま、幻惑するように刀の切っ先を揺らした。
その目的が理解できないまま、思考が空回りした一瞬のことだった。
「ぐ――っ!?」
苦悶の声がもれる。
視線を下ろせば、腹をえぐるように突き刺さった赤鬼の爪先があった。
「視野がせまい。だから、この程度の小技も見切れない」
「く、っそ……!」
「まだだ。気を離すなよ」
酸っぱいものが喉奥からこみあげるが、それに顔をしかめることもできない。
赤鬼が蹴りあげた足を下ろすと同時に、上段にて刀を構えていた腕に力がこめられた。
ぐずぐずしていたら、そのまま真っ二つに斬られる。
「ふんッ」
「うお――!」
狙いは正中線。
駆けめぐる直感に任せて、思い切り身体をひねった。振り下ろされた刃を避け切れずに、熱い感覚が頬に奔る。
視界の隅に、頬からあふれた血の赤さが映った。
(避けられた? なら反撃――いや、ここは仕切り直すべきか)
赤鬼ほどの強者に、破れかぶれの反撃をしたところで通るとは思えなかった。むしろそれすら利用されて、さらなる痛手を喰らうことになりかねない。
血気に逸りそうになった思考をせき止め、大きく飛び退る。
危機感に任せて数度バックステップをしたところで、ほっと息をつく。
(追われなかった、というよりも見逃された?)
そっと視線をあげる。
見れば赤鬼は、刀にこびりついた鮮血を感慨深そうに眺めていた。その赤さを確かめるように空へかざしてから、払い落とす。
「ふむ。どんな若造かと思えば、存外にできる。さすが、クロに警戒されるだけのことはあるな」
「何だと?」
「力量にはまだ粗がある。だが、死中に活路を見出そうとする気概はいい。困難を前に立たんとする気勢は、得難い資質だ」
「………」
言葉の意図がつかめない。
思わず首を傾げてしまったヤマトを前に、赤鬼はくつくつと笑みをこぼした。
「褒めているのだ。素直に受け取っておけ」
「………」
「だが、そうだな。それゆえに――惜しい」
堰が壊れたかのように、赤鬼から闘志があふれ出す。
短い間とはいえ、直接刃を交えたから分かる。よく練られた闘志。ヤマトでは、赤鬼の技には及ぶべくもないだろう。
ひどく乾いた喉に、どうにか生唾を流し込む。
「貴様のような有望な若者を、ここで斬らねばならんとはな。ただの若造であれば、鍛えるという道もあったのだろうが……」
「そんなものは御免だ」
「であるか」
赤鬼の殺意を表すように、彼の刀がぎらりと獰猛に輝く。
その切っ先から視線を逸らさないように努めながら、ヤマトは内心で、じっとりとした溜め息をもらした。
(これは、そう簡単に合流はできなさそうだな……)
気配を窺ったところ、ノアたちの援護はまだ期待はできない。青鬼が防御に専念しているからだろう。二人がかりでも、すぐに勝敗を決することは難しいようだ。
レレイと連携してみても、赤鬼との差を覆せるとは考えづらい。
まんまと彼らに時間を稼がれている形だ。
(向こうも、無事でいてくれればいいが)
そう思いを馳せたのも、束の間。
赤鬼の足元にあった砂利が、擦れて音を鳴らした。