第404話
わずかに時をさかのぼる。
灰色の雲が空を覆い、不吉な予感を覚えずにはいられない生暖かな風が吹き抜ける。
それに髪をたなびかせながら、ヤマトはそっと溜め息をこぼした。
「――どうした。ずいぶんと景気の悪そうな顔してるじゃねぇか」
「アナスタシア……」
よどんでいるようにすらみえる眼を、ゆっくりと動かす。
向けた視線の先にいるのは、ニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべたアナスタシアだ。口では心配するようなことを言っているものの、その内面はまったく違う。心配どころか、むしろ愉悦すら覚えていることだろう。
じっとりとした視線を前にして、アナスタシアはわずかにたじろぐ。
「んな眼をするなよ。駄々こねたから何とかなるもんじゃねぇってのは、お前も分かってるだろ?」
「………」
「俺たちが見立てたところ、魔王はかろうじて小康状態ってところだ。ここから先もずっとおとなしいって保証もない。なら、万が一にそなえて勇者様にご同行願うってのは、筋が通った話だろう」
「それは、分かっているがな」
力なく、首を縦に振る。
理解はしている。アナスタシアの言う通り、これは必要なことだ。今でこそ小康状態にあるものの、もしあの魔王が暴走したとあれば、周囲が――場合によっては大陸や世界そのものが危うくなる。万が一にでも、そんなことを引き起こしてはならない。
だからその時のために、勇者たるヒカルに事情を説明する。
(道理は通っている。必要もある。だがな――)
ぐるぐると頭の中を回るのは、必死に助けを求めてきた二人――ヘクトルとミレディの顔だ。
彼らにとって魔王は、たとえ言葉が通じず、生きているかすら分からなくなったとしても、仰ぐべき主君なのだ。どうあっても害していい相手ではない。ヤマトに相談してきたのも、ヤマトであれば魔王をそうそう害しはすまいという、ある種の信頼があったからだ。
そしてそれを、自分は裏切ろうとしている。
(これでは、義理が立ってない)
つまるところ、ヤマトの中で渦巻いているものは自己嫌悪だ。
ヘクトルたちはヤマトを信頼して相談してくれたというのに、それに応えることができない弱い自分。ただ無力をさらすばかりか、彼らが望んでいなかっただろう方向へ進もうとさえしている。
そんな現状への鬱屈とした思いが、ヤマトの頭を秒ごとに重くさせていた。
そうしたヤマトを見かねたか。アナスタシアはわざとらしく溜め息をついてみせる。
「うだうだ考えても仕方ないだろ。現実として、あの魔王が暴れだすって展開がいちばんマズい。選択の余地はないってやつさ」
「……あぁ」
「あいつらも焦ってたみたいだが、話は分かる。後から説明すれば、そう悪いことにはならないと思うぜ?」
そうであれば、いいのだが。
だが内心の不安をぶちまけてみたところで、それが解決するわけでもない。アナスタシアの言葉に小さく頷いたヤマトは、そのまま視線を脇へと転じた。
エスト高原駅。
帝国軍の駐在兵が詰めているそこでは、まれに訪れた旅人が立ち寄れるよう、小さいながらも商店が営まれている。潤沢な品揃えとまではいかないものの、十分に買い物が楽しめる場所だ。
そして今は、ヒカルたちが息抜きがてらに立ち寄っているはず。
「そろそろか」
「んー、どうだろうな。あの年頃の娘ってのは買い物が長いからなぁ」
「ふむ?」
妙に達観したようなアナスタシアの言葉。
それに小首を傾げながらも、深く追及することはしないでおく。
「……ヒカルたちにも、また難題を背負わせてしまうか」
「そりゃ仕方ないんじゃねえの? 自覚しているかは知らねえが、あいつは勇者だ。勇者ってのは、面倒事を背負い込むためにあるようなもんだからな」
「だが――」
反論をしかけた、その瞬間のことだった。
「こいつは……!」
「アナスタシア?」
突然、アナスタシアが顔を強張らせる。
どうしたのかと勘繰ったヤマトは、だが駅にいる帝国兵たちまでもがざわめき始めていることに気づいた。
「魔力が昂ぶってる? だが、いくら何でも早すぎるぞ!?」
「魔力? もしかして魔王が――」
言い切る暇もなかった。
突如として、北の空が光り輝く。何かあったのかと眼を向けた瞬間に、今度は大地が割れたと錯覚するほどの爆発音が鳴り響いた。
「な……っ!?」
「ちっ、先手を取られてんな」
アナスタシアが忌々しげに呟いているが、それに気をとめるだけの余裕もない。
北へと視線を向ければ、そちらの空を覆っていたはずの雲が失せていることに気がつく。何か巨大な力が薙ぎ払ったかのように、ポッカリと雲が晴れた場所があるのだ。そして、大地からもうもうと巨大なきのこ雲が立ちのぼっていた。
生半可でないことが起きている。
そう確信するだけで精一杯で、それ以上のことに頭を回す余裕などなかった。
「――ヤマト!」
「ノア、ヒカルたちも……」
ただ茫洋と北の空を見つめていたヤマトは、背中からかけられた声で、フッと我に返った。
振り返れば、急いで駅を飛び出してきたらしいヒカルたちの姿が眼に入る。先程までは平和に買い物を楽しんでいたのだろう。彼女たちの手には、幾つかの荷物袋がさげられていた。
現実逃避気味にそれらを確かめたヤマトを尻目に、ヒカルは口角泡を飛ばしながら叫ぶ。
「今のは!? すごい魔力を感じたけど!」
「それは……っ」
動転したヒカルを前にして、気がつけば喉が詰まっていた。
咄嗟に言葉を返せないヤマトに代わって、アナスタシアが一歩前へ出る。
「詳しいところは分からない。だが、デカいことが起こったのは間違いないな。おそらく帝国軍が被害状況の確認に行くだろうが、俺たちはどうする?」
「……力になれるかは分からないけど、私たちも様子を見に行こう。放っておくことなんてできないよ」
元来の正義感ゆえか、勇者としての義務感ゆえか。
そう返したヒカルの横顔を垣間見て、ヤマトは思わず頬の肉を噛んだ。
(情けない。いつまで腑抜けているつもりだ!!)
急変する事態を前に、萎縮しそうになっていた己を自覚する。
瞬間にカッと頭をめぐったのは、情けない自分に対する怒りだ。その熱情に任せて弱気を蹴散らし、刀の柄を撫でて闘志を湧き立たせる。
眼を閉じ、深呼吸を数回。
(為すべきことを為せ。今は迷っている場合じゃない――!!)
ゆらゆらと揺れていた自己が、段々と定まっていく。
そのことを確かめてから、そっと眼を開いた。
「……ヤマト?」
「何でもない。それより――」
ぐるりと周囲を見渡し、眼を鋭くさせる。
「気張ったほうがよさそうだ」
「え?」
「む――」
ヤマトがこぼした言葉に対して、咄嗟に眼を鋭くさせたのはレレイだった。
手にしていた買い物袋を落とし、軽くなった両手を握りながら腰を沈める。何かを探るように、静かに眼を閉ざす。
「一人……いや二人? こちらを見ている者がいる」
「見ている? それって――」
ヒカルが訝しげな様子だったが、丁寧に説明している暇はなさそうだ。
ハッと眼を見開いたレレイに後を任せ、ヤマトは腰元の刀に手をかける。
「――上だ、下がれ!!」
「………っ!?」
事態をきちんと理解したわけではないだろう。だがヒカルたちはレレイの叱咤を受けて、咄嗟に飛び退ってくれた。
広くなった空間にて、ヤマトは一息に刀を抜き払う。
「気づいたか。そうでなくてはな――」
「ぬんッ!」
上空から、何者かが舞い降りる。
刹那の内にその着地点を見切ったヤマトは、鞘から抜き切る間もなく、真一文字に刀を振り抜いた。
刃先が、鋼鉄をかすめる感触だけ返ってくる。
「急くな。慌てずとも、存分に相手をしてやる」
「―――っ」
「ヤマト!」
咄嗟に二撃目を放とうとしたところで、切羽詰まったノアの叫び声が耳に届いた。
理性で本能を御し、大きく飛び退る。
「あらら。踏み込んでくれたら、話は早かったんだけどね」
「余計な手出しをしてくれたな」
「そう言わないでよ。二人で露払いをしろってオーダーなんだからさ」
間合いは三メートルほど。
一息では踏み込みづらいだけの間合いが空いたところで、襲撃者の隣にもう一人、降り立つ者が現れた。
都合二人の姿を認めて、ヤマトは眼を細める。
「お前は……」
「やあ、久しぶり――ってほどでもないね。数日ぶりくらいかな」
突如現れた二人組。
彼らの顔に貼りついた鬼面――悲哀の青鬼と憤怒の赤鬼を見て、ヤマトたちはその正体を確信した。
「クロの手先か」
「手先って。いちおう、僕たちとしては協力者のつもりなんだけどね」
「はっ。顎で使われているくせに、協力者だなんて言えねえだろ」
「そりゃごもっとも」
軽口めいたアナスタシアの毒舌に、青鬼はカラリと笑って応じる。
だがその佇まいに、一分たりとも隙はない。むしろ虎視眈々とこちらの隙を窺い、機があれば喉元に刃を突き立ててくるだろう恐ろしさすら感じられた。
自然、ヤマトたちの間の空気も張り詰めていく。
「――煩い。喋りすぎだ」
だが、唐突にそれを破ったのは、ゆらりと佇まいを正した赤鬼だった。
手にしていた剣――いや長刀を揺らし、無理矢理に青鬼を下がらせる。
「お前はいちど敗れた身。一廉の武士というならば、ただ黙して剣を構えろ」
「……これは手ひどい……」
「恥を知れと言っている」
そうして相方を黙らせてから、赤鬼は刀の切っ先をヒカルたちへと向けた。
「小細工は好かん。勇者以外、貴様らを片端から斬り捨てる」
「な……っ!?」
「気に食わんが、クロの願いだ。勇者だけは見逃してやる。死にたくなければ、疾く退け。退かぬならば斬る」
反論を述べる暇すらなかった。
ヤマトたちが口を開くよりも早く、赤鬼の身体から漆黒の闘志――そう幻視するほどの殺意の奔流が解き放たれたからだ。
「く……っ!」
「選べ。俺はあまり気が長くない」
人数の差など、まるで意に介していないような素振り。
堂々たる威風をもって、赤鬼はヒカルたちへ宣戦布告をした。