第403話
高原の空は灰色の雲に覆われ、北方らしからぬ生暖かい風を吹かせいている。
どうしても不気味な予想をしないではいられない風を一身に浴び、クロはおもむろに空を見上げた。
「……嫌な雰囲気ですね」
数日後を憂うような声音。
それは、絶えずフードで素顔を覆い隠し数多の陰謀を巡らせてきた彼には、とても似合わない言葉だった。彼の知人がその姿を見れば、きっと彼の不調を疑ったことだろう。
だがその場には、クロ以外の人影はない。
ついに誰にも言い咎められることもないまま、クロは肩をすくめた。
「怖気づいているのでしょうか、柄でもない。この程度の策ならば、これまで幾つも弄してきたというのに……」
その言葉は、己の不甲斐なさを呆れるようでもあり、また喜ぶようでもある。
傍目では片鱗さえも窺えない感情の昂ぶり。
それをしばらく享受したクロは、だがふっと気を取り直すように嘆息すると、僅かにみせていた感情の揺れを鎮めてみせた。
まるで興味のないものを観察するような冷たい眼をもって、眼下に広がるモノ――混沌の魔力をひしめかせる黒い繭を見下ろす。
「経過は良好。魔力は混沌としながらも調和を保ち、破裂する寸前のレベルのまま。この調子ならば、すぐにでも覚醒する」
クロの言葉に応えてか、黒い繭がドクリと脈動する。
間髪入れず、繭から禍々しい魔力が吹き荒れた。もしただの人が浴びてしまったならば、その一瞬で正気を失いかねないほどの狂気。だがそれを煽りながらも、クロは涼しい顔のままでいる。
視線を空へと彷徨わせ、しばし思案に暮れる。
「……予定であれば、勇者の準備を待ってから目覚めさせるつもりでしたが。段取りを早めても、問題はなさそうですね」
呟くクロの脳裏に、これまで幾度となく立ちはだかってきた英傑の姿が浮かび上がった。
ヤマト。
初めて邂逅した時は、ただ腕が立つ剣士程度にしか考えていなかった。勇者一行に加わったとしても、それ以上の大器にはなるまいと高をくくっていたのだ。事実、直接刃を交えたならば、クロがヤマトに遅れを取るようなことはないだろう。
だが事実として、ヤマトは幾つもの障害を乗り越え、クロの計画を破綻させようとしている。
(冒険者や帝国兵をはじめ、露払いには彼らが――赤鬼と青鬼が向かってくれている。これまでならば、彼らに任せっきりでもよかったのですが……)
今回の件についてだけは、そうもいかない。
たとえ失敗しても取り返すことができたこれまでとは、訳が違うのだ。
(念には念を。もう一手、いえ二手ほどは講じておきましょう)
ゆらりと手を掲げる。
それに伴い、不気味ながらも静けさを保っていた黒い繭の魔力が、徐々にほぐれていく。
「少し早いですが……、計画を次の段階へ移しますか」
自然界にあるまじき密度の魔力が、周囲へ漏れ出した。
青々とした草が一斉に生い茂り、花を咲かせ、種子を無数に散らせて――枯れていく。時のめぐりを一瞬にまで縮めたかのような光景。幾つもの生が一気に芽吹き、栄え、そして滅ぶ。
「過剰な魔力は全てのモノを成長させ、そのまま死へと至らせる。使い方を誤れば猛毒ともなる、文字通りの劇物」
寒々しい中でも力強く生きていた高原の姿は、今や影も形もない。
生気を吸いつくされた土がその屍を野に晒し、吹き抜ける風にのって空へと散らされていく。もはや周囲に立ち込めるのは、底冷えするほどの死の気配ばかりだ。
それを前にしたクロは、うんざりという嫌気をみせる。
「何度見ても嫌な景色です。叶うことならば、こんな光景は二度と見たくなかったのですが……」
愚痴をこぼしながらも、動きまでを止めようとはしない。
よどみない動きで手中の魔力を操り、脈動を続ける黒い繭に干渉する。周囲を荒野に変えてもなおあふれるほどの魔力が、さらなる高まりをみせていく。
やがて、どこからともなく奇天烈な軋み音が響き始めたところで、クロはようやく手を止めた。
「仕上がりは上々。これならば、過去例のないほどの災厄を引き起こせる」
満足気に、眼下の“それ”を見下ろす。
およそ自然には存在しないだろうほどの魔力が、無尽蔵にまき散らされていた。ほどよいレベルであれば恵みと尊ばれる魔力も、これほどの密度とあっては恐怖の対象でしかない。その波動を身に浴びたならば、たいていの植物や生物ならば即死。魔力に馴染んだ人間であっても、無事にはすまないだろう。
その奔流を放っている繭の黒い糸が、徐々にほどけていく。
「――さあ、お目覚めのときです。魔王様」
ドクンッとひときわ強く、繭の中にあった“何か”が脈打った。
周囲が枯れ野となるだけではすまない。尋常ではない気配がうごめくたびに、空間が痛々しい悲鳴をあげる。眼には見えない亀裂が走り、どこの世に通じているとも分からない暗闇が点々と空に浮かび上がっていく。
それらを余波として振りまきながら、ゆっくりと姿勢を上げていく異形のモノが一つ。
『―――』
その姿を見ただけで、それがナニであるかを察することは難しい。
黒い獣。
そう形容するしかない。かろうじて二足歩行をしていることだけは分かるものの、それ以外に外見の特徴を述べることができないからだ。多くの魔力が混ざった黒い波動が、獣の身体を取り巻き、見る者の眼を犯している。
とてもではないが、正気では見ていられない光景。
だがそれを前にしながらも、クロには一切の揺らぎがない。
「歴代魔王の妄念と、初代魔王の力。その二つを束ねた貴方ならば、文字通り世界を変えることすら可能でしょう」
『―――!!』
声にならない声が、獣から立ちのぼった。そこから窺える感情は、怒りか、悲しみか、喜びか。
だがそれにクロが返事をすることはない。
「それが貴方の望みだったのでしょう? 圧倒的な力を手にすることが。立ちはだかる困難を討ち倒し、その果てに魔族の未来を掴むこと。それが、貴方の夢だったのでしょう?」
『―――』
「今、貴方はそれが可能なだけの力を手に入れた。ならばもう――躊躇うことはない」
言いながら、クロはおもむろに指を差した。
その先にあるのは、草原の果てから近づいてくる数々の黒点。重武装によって身を固めた、帝国軍の精鋭だ。
遠目でも分かる疲弊から察するに、北地侵略から帰る道中なのだろう。――つまりは魔族にとって、魔王にとって、どうあっても許しがたい敵ということ。
『―――ッ』
「まずは、彼らから」
その一言で、獣は――姿を変貌させた魔王は、殺意を爆発させた。
グワリと大顎を開き、そこへ莫大な魔力を凝縮させる。術の形すらとっていないただの魔力は、だがその密度ゆえに具現化し、眼を灼くほどの白光を迸らせる。まばゆく輝く黒い獣とは対照的に、その周囲の空間は歪みを大きくさせ、その奥から覗かせる深淵の闇をさらに深くさせる。
眼に映るだけの幻の光が、やがて熱量を伴った。
「さあ、撃ちなさい」
『―――――ッ!!』
それは、滅びの始まりを告げる鐘の音だ。
黒い獣から迸った光が、世界を白く染め上げる。混沌に満ちた魔力すら見えなくなるほどの光の中、確かな熱が刹那だけ空を灼き――遥か彼方で、数多の生命が爆ぜ飛んだ。