第402話
にわかに不穏な風が吹き始めたエスト高原から、所は変わり。
大陸西部を占める帝国。その皇都では、先日の動乱による影響も徐々に落ち着きをみせ、失いかけていた平穏を取り戻しつつあった。
その中心――皇城にて。
「………話が長いわね……」
自分以外には聞こえない程度の声量をもって、皇女――否、新皇帝フランは愚痴を零した。
彼女が腰掛けるのは、豪華絢爛に彩られた玉座。そこから見下ろす謁見の間には広く赤絨毯が敷かれ、その両脇を数多くの従者らが取り巻いている。そしてフランの眼の前にて、今は一人の男が跪いていた。
フランが僅かに口を動かしたことに、目敏く気がついたか。男は大仰に手を広げ、わざとらしい笑みを浮かべてみせた。
「これは陛下。いかがなされましたかな?」
「いいえ何も。それより、お話の続きを聞かせてくださらないかしら」
言外に「あまり時間がない」という含みをもたせる。
そんなフランの態度に対し、男は一瞬だけ顔をしかめるも、すぐに柔和な表情を取り繕ってみせた。
「ややっ、これは失礼いたしました! 陛下もご多忙の身でいらっしゃる。確かに、私めがお引き止めするわけには参りませんな」
「そうね」
言葉の表面こそ殊勝なものだが、彼の眼の奥に宿る嘲弄の光が、その一切を台無しにしていた。
努めて顔面を動かさないよう気を払いながら、言葉の続きを待つ。
「陛下におかれましては、かつてない動乱の鎮圧のため、その御身体を苦慮されていることでしょう。私めが提案したいことは、その慰めとなる者を呼んではどうかということです」
「……というと」
「率直に申し上げれば、伴侶を作ってはいかがかと」
言いながら、男の眼に卑しい欲望が灯った。視線が舐め回すほうにフランの肌を這い、鼻の下がだらしなく伸びる。
思わず漏れそうになった溜め息を、既のところで堪えた。
呆れるほどに浅ましい魂胆。要は婿候補として親類縁者を――あわよくば己を売り込もうという算段なのだ。
フランの心奥に募る黒い感情を知ってか知らずか。男はますます饒舌になって言葉を紡ぎ始めた。
「私めにお任せいただければ、陛下を公私ともに支えられる男をお勧めいたしましょう。性格も器量もよく、また実力も高い。きっと陛下の右腕となって働いてくれるかと」
「そう」
「また陛下にも御望みがありましたら、申しつけください。きっと、お眼鏡に適う者を用立ててみせましょう」
「………」
「何卒、御検討のほどを」
男は深々と頭を下げる。
ひとまず気色悪い視線が外れたことに、ホッと安堵の息を漏らしながら。フランは冷たい視線を男の頭へと叩きつける。
(婿? 冗談じゃない。よくそんなことを、臆面もなく口にできるわね)
本気で婿入りを願うのならば、相応の態度というものがある。決して、当の本人を前にして、色欲で濁った眼を晒しながら願うものではない。
そも、今はそんなことに現を抜かしていい状況ではないのだ。皇都の動乱は収まりつつあるとはいえ、その被害全てが補填できたわけではない。こうして色ボケした馬鹿に付き合っている間にも、下端の兵や役人たちは、復興に向けて汗水を垂らしていることだろう。彼らを尻目に婚姻など上げようものなら、いかに強大な帝国といえど破綻しかねない。
(どうしたものかしら――)
考えかけて、フッと笑みを漏らした。
(簡単なことね)
そう、簡単なことだ。
前皇帝たる父は、混乱を避けるべく彼ら帝国貴族を野放しにした。重要な国是からは遠ざけ、日々のらりくらりと陳情をあしらうことで対処したのだ。――その結果生まれたのが、眼の前にいるような愚物。
ならば新皇帝たる己は、それを切除するところから始めよう。
底冷えするような笑みを伴って、玉座の後方へそっと手を這わせた。
「ねえ貴方。戦場で最も怖ろしい敵とは何か、ご存知かしら」
「は……?」
「いいから、答えてみなさい」
唐突な言葉。
それに戸惑いと憤りを隠せないながらも、表面上は穏やかに、貴族の男は答えた。
「……武勇高名な戦士ではないでしょうか。猛き者は戦場にて輝きますから」
「ふぅん」
「勇ましき者に率いられることで、兵もまた一層働きを増す。となれば、猛々しい武者を数多く――」
「零点」
「は?」
「聞こえなかったかしら、落第ということよ」
気まぐれに垂らしてみた蜘蛛の糸も、あまりの愚かしさを前に燃え果てた。
後に残ったのは、そうと知らずに沙汰を待つばかりの愚者が一人。
「戦場で最も怖ろしい敵はね、愚かな味方よ。要らぬ口ばかり回して力を浪費し、肝心な時には隠れ慄き、機とみれば味方の足を引っ張る。本当、救いようのない愚物」
「陛下、いったい何を――」
「あら。分からないフリではなくて、本当に分かってないの? ――やはり、貴方は要らないわね」
玉座の後ろに置いていた宝剣を、手に取る。
持ってみれば、ずっしりと重い手応えが返ってくる。華美な宝飾がこれでもかと載せられたその剣は、到底実戦に耐え得る代物ではない。百人が見て百人が確信する、どうしようもないナマクラだ。
――それでも、愚物一つを斬る程度ならば容易い。
「あまり動かない方がいいわ。狙いが逸れると痛むから」
「な――」
一陣の風が奔った。
彼が最期に見た景色は、いったいどのようなものだったのだろう。遂に恐怖をその顔に浮かべることもないまま、男の首は空を舞い――床に叩きつけられる。
凄絶な血飛沫が、玉座の間にぶち撒けられた。
みるみるうちに立ち込める鉄錆の匂いに、フランはただ率直に顔を歪めた。
「……汚いわね。片づけてもらえるかしら」
「はっ」
「それが終わったら、貴方たちはいつもの業務に戻りなさい。私は、少しここに残るから」
凄惨な殺戮が行われたというのに、玉座の間に控えていた従者たちに動揺の色はない。ただ淡々と頭を下げ、倒れ伏した貴族の遺体を運び出していく。
彼らの仕事振りに満足気な笑みを浮かべたフランは、血脂のついた宝剣を転がし、再び玉座へと腰を下ろした。
一仕事終えたという達成感を顕わに、口を開く。
「まったく、お父様も面倒なものばかり残していくんだから。もう少し身辺整理はしてほしかったものね」
ただの独り言のような呟き。
だがそれに応える声が、一つあった。
「――やりすぎだ」
「あら、英雄様じゃない。来ていたのね」
「白々しい。気づいていたから、彼らを下げたのだろう?」
従者らが退出した後の扉を見やり、男――帝国の大英雄ラインハルトは、深々と溜め息を漏らした。
その姿を前にして、フランはコロコロと可愛らしい笑い声を上げる。
そんなフランを前にして、ラインハルトは苦々しい心情を隠そうともせず、苦言を呈した。
「今の男で十五人目、しかも奴は伯爵位に就いていた男だ。これだけ立て続けに当主が突然行方不明になったとあれば、他の家も黙っていないぞ」
「あら、今更じゃない? 仮に始末せずとも色々煩いんですもの。この先十年を思えば、むしろ静かになったくらいよ。それに、そんなことを言えるような口も全部摘み取ってしまえばいいだけだわ」
「お前は……」
信じられないモノを見るような眼差し。
だが大英雄のそんな表情を前にして、フランはますます口元の弧を釣り上げる。
「英雄ラインハルト。貴方も気づいているのでしょう? 優れた技術に豊かな土地、多くの人材。それだけのものを持ちながらも、この国が大陸に覇を唱えられなかった理由が何か」
「何が言いたい」
「旧態然とした権威に縋りつくモノが多すぎるのよ。帝国貴族の権威を鼻高々に掲げながら、肝心なことは何もせず、ただ毎日足の引っ張り合いをするばかり。益にならないだけじゃない、むしろ害になっている」
「だが――!」
咄嗟に反論しかけたラインハルトは、だが次の瞬間に向けられたフランの眼差しを前に、息を呑んだ。
およその人が見れば、ただ狂気としか呼べない感情の奔流。だが大英雄の眼は、その奥に秘められた熱いモノ――大志を捉える。
口を閉ざしたラインハルトをこんこんと諭すように、フランは言葉を紡ぐ。
「建国期から今に至るまで、あらゆる敵から帝国を守ってきた大英雄。その貴方の眼に、私の行いはどう映っているかしら。暴虐? 無謀? それとも――」
「………」
「私は別に構わないのよ? 貴方が剣を手に――“あの日”の続きをしても」
「く……ッ!」
たじろぎ、数歩後退る。
まるで気圧されたかのようなラインハルトの行動を見て、フランは放っていた覇気をふっと収めた。
「あまりからかっても仕方ないわね。もし本当に貴方が自棄を起こしたら、面倒なことになるのだから」
「―――」
「そう怒らないで。今はまだ、団結して乗り越えなくてはならない難題がある。それが片づくまで、諸々の決着は後回しね」
憮然とした様子ながら、ラインハルトは口を閉ざし腕を組む。
そんな彼の姿を笑いながら、フランは視線を遥か彼方――遠く北方へと投げた。
「先の混乱に紛れて脱走した、勇者と魔王。彼らについての調査は、どのくらい進んだのかしら」
「……両者とも北の国境を抜け、エスト高原に入ったところは確認した。だが魔王の方は、少々厄介なことになっている」
「あら」
「どういうことか」と問う視線を前にして、ラインハルトは眉間のシワを深くさせた。
「黒いスライム――黒竜と呼ばれる個体と接触。その衝撃を経て、今は暴走状態にあるようだ」
「そう、暴走……」
「今でこそ動きは静かなものだが、これからどうなるかまでは読めない。――だが、ずっとこのままとはいくまい」
「静観したまま、というわけにはいかないわね」
しばしの黙考。
だがそう間を置くことなく、フランは顔を上げた。
「エスト高原に駐在しているだけの軍では、少し心許ないところね。増援を出しましょうか」
「……可能ならば、それが望ましいが」
「ラインハルト。貴方も向かいなさい」
提案ではなく、命令。
それを受けたラインハルトは、僅かに眼を見張る。
「だが――」
「ラインハルト?」
「……了解した」
渋々ながらも、ラインハルトは確かに首を縦に振る。
それを見て満足気に頷いたフランは、再び視線を、遥か彼方の北方へと向けた。