第401話
穏やかな風が吹き抜けるエスト高原にあって、唯一つ異形なモノ。
脈絡なく出現した“黒い繭”は、圧倒的な存在感を伴って緑の大地に鎮座していた。魔力を感知できない体質なヤマトをしても、見るだけで吐き気を催すほどに、不吉な気配が濃く渦巻いている。
眉間に寄るシワを伸ばし、ふっと息を吐くのと共に鼓動を落ち着かせる。
改めて、後ろについてきた同行者たちに向けて、黒い繭を指差した。
「あれだ」
「ふぅん……?」
「……確かに、放っておいていいモノじゃなさそうだ」
指差したヤマトに対して、ノアとアナスタシアの反応は対照的だった。
ヤマト同様に眉間にシワを寄せ、不快感と危機感を顕わにするノア。他方のアナスタシアは、確かに気味悪いモノを感じているらしい素振りは見せるものの、それよりも知的好奇心をより強く刺激されているようだ。煩悩に衝き動かされるまま、己の世界へと没入してしまう。
そんな彼女のことはひとまず置いておいて、ヤマトはノアへ眼の焦点を合わせた。
「何か分かるか? 俺にはせいぜい、見るからに異常だというくらいしか分からないのだが……」
「ちょっと待って」
短く応えてから、深呼吸をすること数回。
そうしてようやく平静を取り戻せたのか。先程よりも幾分か顔色のよくなったノアが、改めて遠くにある黒い繭を一望する。その瞳には、どこか畏怖に近しい感情の色が滲んでいるようい窺えた。
ややあってから、ノアは徐ろに声を上げる。
「とんでもない魔力だね。ただ大きいってだけじゃない。清も濁も、光も闇も、あらゆる属性の魔力をかき集めて、無理矢理一つにまとめ上げているような気持ち悪さがある。ヤマトが会った将軍たちはこれが魔王だって確信していたみたいだけど、どう考えても、それだけじゃない」
「……それだけじゃない? 魔王以外のモノも、あそこには入っているということか」
「たぶん」
言われて、真っ先に頭に浮かんだ存在は。
「黒竜か」
だがその言葉に対して、ノアが示した反応は――疑念だった。
「どうだろう。その黒いスライムがどんな奴かは分からないけど、あれは一体二体で生み出せるような混沌じゃない。それこそ、数十数百の生命を注ぎ込まないと完成しない代物だ」
「数百……、それだけの生命が」
思わず、眉間のシワがより深く刻み込まれた。
「集落が丸ごと飲み込まれたか」
「……可能性としては、それが一番ありえるかな。ただ状況を分析しただけの推測だけど。念の為、これ以上近づくのは止めた方がいいと思う」
言われて、即座に頷いた。
黒い繭がどんな代物なのか。その確信を得たわけではないが、ともすれば人を喰うかもしれないとあっては、不用意に近づくのは危険だ。
半ば睨みつけるような眼差しで黒い繭を見つめ、手持ち無沙汰のままに溜め息を漏らした。
「だが、ならどうする? このまま眺めていても仕方ないだろう」
「うーん……。そうは言うけど、正直手がかりもないからなぁ」
言いながら、ノアも黒い繭を指差す。
「あれ、結構ギリギリのバランスで立っているっぽいんだよね。さっき言った通り幾つもの魔力が混ざっているんだけど、それが一つの形を保っているのって、そうそうあることじゃないんだよ」
「ふむ……?」
「今でこそ落ち着いているみたいだけど、何がきっかけで崩れるか分からないってこと。もし崩れた時に、何が起こるかも読めない。結局、下手に手出しせず見ているだけにしているのが、リスクを避けるって意味だと一番なんだ」
「……そうか」
ノアの言わんとすることは理解できた。
事がヤマトたちの内にのみ完結するのであれば、間違いなく彼の言う通りに静観に徹していたことだろう。ヤマトとて、見るからに不吉なモノへ好き好んで近づく気性は持ち合わせていない。
だが、今回に限ってはそれは許されない。
(ミレディとヘクトル、あの二人がそれを許すはずがない)
騎士団長を任じられるだけあって、彼女ら二人の魔王への忠誠心は相当なものだ。
状況の静観。言うなれば魔王を見殺しにしようという方針を、彼女らが採用するはずがなかった。
そんなヤマトの内心を察してか、ノアも難しい表情になる。
「……そうもいかないか。なら何とかして手立てを見つけないといけないけど――」
手がかりを探すようにグルリと視線を巡らせ、その先にアナスタシアを捉えた。
「アナスタシアはどう? 何か分かったことはある?」
「……あん? まあそうだな」
その一声で我を取り戻したらしい。
ハッと現実に帰ってきた表情をしたアナスタシアは、ノアの言葉に確かに首肯した。
「一応、だいたいの見当はついたってくらいか」
「見当が?」
にわかには信じ難いという表情をノアは浮かべる。
対してアナスタシアは事もなげに頷き、胎動を続ける黒い繭を指差した。
「魔王が関わってるのが確かなら、あれは野郎の加護が原因だろうよ」
「加護――魔王の加護か」
「あぁ。あれは普通の加護とは違って、かなり異色なものだからな……」
アナスタシアが零した言葉に、ヤマトとノアは互いに眼を見合わせ、揃って首を傾げた。
「異色っていうのはどういうこと? 単に強弱のことを言っているわけじゃないんだよね」
「そもそもの成り立ちが違うんだよ。普通、加護って呼ばれる奴らは精霊やら神やらから施されるものだが、魔王の加護は違う。言うなれば、歴代魔王の怨霊が伝え継ぐ力だ」
「怨霊……」
「胡散臭い」とばかりに顔をしかめたノアに、アナスタシアはただ肩をすくめることのみで応える。
「別に信じなくていい。問題は、何代も続く魔王全員の思念を丸ごと背負えるような奴はいないってことだ」
「どういうことだ」
「平時は宿主に負担をかけすぎないよう、加護は抑えられている。だが一度タカが外れたなら、加護は宿主の身体から溢れ出し、外に向けて侵食を始める。その結果どうなるかは、まあ場合によりけりってやつだな」
結局、どうなるか予想もつかないということか。
そう落胆の意を隠せないヤマトに対して、アナスタシアはニヤッと不敵な笑みを浮かべた。
「こりゃ波乱の予感がするな」
「波乱だと?」
「あぁ。どうなるにせよ、魔王の加護とかいうとんでもないモノを解き放って、何も起こらないなんてことはありえねえ。――間違いなく、デカいことが起こるぜ」
『デカいこと』。
そうアナスタシアが呟いたことが、具体的にどのようなことを指しているのか。そのことに見当はつかないが――、
「……備えた方がよさそうだな」
にわかに不穏な風が吹き始める。
そのことを五体で感じ取ったヤマトは、若干の疲労混じりに、わざとらしく溜め息を零してみせた。