第400話
翌日。
エスト高原の空は青く澄み渡り、清々しい風を吹かせていた。魔獣という危険さえなければ、そのまま草原に寝転がってしまいたくなるほどの陽気だ。
そして青空の下、駅に向けて歩くヒカルたちの顔にも、華やかな光が差している。
「駅? ねぇねぇ、それってどんなところなの?」
「うーん……、列車っていう乗り物が来る場所かな? 来た人のためにお店が開かれているから、色々買い物もできると思うよ」
「買い物!」
「必要な買い出しが終わったら、ちょっと回ってみようか。せっかくだし、何か美味しいものも買いたいからね」
聞いているだけで頬が綻びそうになる会話を繰り広げているのは、リリとヒカルだ。
アナスタシア謹製のホムンクルスという素性が明らかになったリリだが、その内には、一人の少女として生きてきた経験が残されていた。一悶着こそあったものの、今のヒカルたちは、リリをアナスタシアとは別の少女として認める結論に至ったらしい。
件のアナスタシアはと言えば、ヒカルたちと朗らかに会話をするリリを見て、どこか思うところがあったようだ。和やかとは到底言えないものの、ひとまず彼女らの様子を見守る方針でいた。
(のどかだな)
安堵の溜め息を漏らしたくなる。
だが、そうもしていられない事情が、ヤマトの内側には秘められていた。
(黒竜の襲撃を受け、魔王に異変が起こった。いっそのこと、聞かなかったことにできたならば楽だったのだが……)
昨夜に見た光景が、脳裏に焼きついて離れない。
夜闇に閉ざされ遠く離れていてもなお、確かな存在感を感じてしまえた“黒い繭”――いや、暴走した魔王。ヤマトの眼には、あれは到底無視できるものとは思えなかった。むしろ、一刻も早く対処しなければならない危険物に等しい。
だが、焦燥感をやたらと掻き立てられたところで、具体的な方案が浮かぶわけでもなし。
(どうしたものか)
そう頭を捻っている内に、昨日訪れた駅の近辺に到着したらしい。
歩く足を止めたヒカルたちが、クルリと振り返る。
「それじゃあ、打ち合わせ通り分かれて入ろうか。私とリリ、リーシャとレレイの四人と、そっちの残り三人で」
「通信機は持っているな? 用事が終わったら、それで連絡しよう。帰りの集合場所もここら辺でいいな」
「分かった。それじゃあ――」
ヒカルは同行者たちに眼を向ける。
リリはすぐ近くに迫った賑やかな喧騒を前に、興奮を抑え切れていない。一方のリーシャとレレイも、久方ぶりに気楽な買い物を楽しめるとあってか、幾分か柔らかい面持ちになっていた。
「一足先に、行ってくるね!」
「おうおう行って来い」
「大丈夫だと思うけど、一応気をつけてね」
厄介払いでもするようにシッシと手を払うアナスタシアと、微笑みと共に見送るノア。
そんな二人の極端な反応に苦笑いを浮かべながら、ヒカルたちは駅へと歩みを進めていった。
「――さて」
彼女ら四人の背中が、駅の中へ入ったところを見届けて。
一声漏らしたアナスタシアが、先程までとは打って変わった眼差しになって、ヤマトの顔を覗き込んできた。
「察するに昨日――いや昨夜だな。何があった?」
「む……」
「誤魔化そうとか考えるなよ? どうせバレるんだ、さっさとゲロった方が話が早いだろ」
いきなり核心を突いてくる物言い。
あまりに率直な言葉に、どのような反応をするべきか逡巡してみれば。
アナスタシア同様に雰囲気を一変させたノアも、神妙な面持ちで頷いた。
「そうだね。一晩考えたけど結論が出ないから、今も悩んでいるんでしょ? なら、これ以上抱え込んでいても仕方ないと思うよ」
「それは……」
「どうしても話しづらいっていうなら、これっきりにするけど?」
ノアが懸念しているようなことは、ない。
第一、ノアには先日訪れたミレディとヘクトルの姿を見られているのだ。隠そうとしたところで無理があるし、何かしらの益になるとも思えない。
(正直手詰まりでもあった。なら、話してみるのも手か)
即座に名案が浮かぶとは限らないが、ひとまず問題を共有してみることで、何かいい案の土台くらいは作れるかもしれない。
そんな儚い期待を抱きつつ、首肯した。
「そうだな。昨夜、野営地に客人が訪れた」
「ほぉん」
「魔王軍騎士団長、ヘクトルとミレディだ」
聞いたアナスタシアが、僅かに眼を見開く。
「なるほど、そりゃ確かにヒカルたちに言うわけにもいかねえか。……だが奴らは、ここエスト高原の戦いで敗れた後は行方不明に――いや、そういうことか。帝国にいたんだな?」
「あぁ。つい先日まで帝国に捕らわれていたが、脱出してきたらしい」
「確かに、奴らならそれくらいは造作もないだろうな」
得心するように頷く傍らで、アナスタシアは高速で思考を巡らせていく。
「来たのはヘクトルとミレディ。となると、問題は魔王関連か。坊っちゃんが大怪我でもしたか?」
「相変わらず鋭いな……、だが違う。その程度だったら、あいつらは相談を持ち込みはしなかったはずだ」
「ふぅむ。それもそうか」
何より、その程度で他人に頼ることを魔王が認めるはずもない。
アナスタシアも同様の推測に至ったのか、やはり頷いた。
「となると――死んだか? いや、だったら相談したところで無意味だ。となれば、また捕まったか?」
「問題の方向性としては、そんなところだ」
曖昧に応えながら、ヤマトは空を見上げた。
体内時計と太陽の位置を照らし合わせ、大雑把に方向を把握。昨夜の記憶を頼りに、魔王がいた方を指差した。
「だいたい向こうか。帝国を脱出した魔王たちは、だがその道中で黒竜と出会ったらしい。その際の交戦をきっかけに、魔王は――そうだな、黒い繭のようなものを作り出した」
「はぁん?」
「以降数日、その繭に閉ざされた魔王に動きはない。だがミレディの推測によれば、直に動き出してもおかしくないとのことだ」
「なるほどねぇ……」
「ミレディたちは何とかして魔王を元に戻したい。だがその方策が浮かばず手詰まりになっている――と、そんなところだな」
ひとまず、伝えなくてはならないことは喋り終えただろう。
アナスタシアは一言だけ呟いたきり、遥か彼方を見つめるような眼になり、沈黙に入ってしまう。目の前の景色が意識に残らないほどの集中力をもって、頭を回転させているのだろう。
そんな彼女に代わって口を開いたのはノアだった。
「問題の鍵を握っていそうなのは、やっぱり黒竜だよね。どうして黒竜が、突然魔王たちを襲ったのか。戦いの決着は。その後、黒竜はどうなったのか」
「ふむ……。ひとまず、黒竜の脅威が去ったような口振りだったが……」
「それも、単に魔王の身に何が起きているか分からないから、彼女たちの意識に残っていないだけかもしれない。昨日見た感じ、あまり余裕があるようには思えなかったからね」
「それは、そうだな」
ヘクトルは言わずもがな。
ミレディも日頃好き勝手に振る舞っているように見えて、その実魔王のことは深く案じていたのだろう。思い返してみれば、その端正な美貌は色濃い疲労で褪せていた。
一つ二つの思い違いがあったとしても、不思議ではない。
(無理もない。だが、今ここに限っては――)
ミレディたちから伝えられた情報についても、その真偽を確かめる必要が出てきた。
そんな結論を、ヤマトと同様にノアもアナスタシアも導いたのだろう。二人は軽く顔を合わせると、ヤマトは先程指差した方へと視線を移した。
「ヤマト。ここからその黒い繭が見える場所まで、どれくらいかかりそう?」
「……三十分、いや二十分か。急げばそのくらいだ」
「なら、ちょっと急いだ方がいいかも」
言うや否や。
ノアとアナスタシアは打ち合わせの一つもすることなしに、さっさと歩き始める。
「おい……!」
「急ぐよヤマト。あまり時間をかけてると、厄介なことになるかもしれないし」
「厄介なこと?」
「帝国軍が先に見つけるかもしれないってこと!」
「――分かった」
言われて、ヤマトは頭のスイッチを切り替えた。
夜闇に紛れてもなお、身の毛がよだつほどの存在感を放っていた黒い繭。一夜明けて白日の下に晒された今、いつ帝国軍の眼に入ったとしてもおかしくない。そしてそうなれば、然るべき対処が――監視されるなり破壊するなりが、行われることだろう。
詳しい調査をしたいのならば、急いだ方がいい。
数分前までの和やかな雰囲気は、いずこかへと消え去り。緊迫した空気に包まれたまま、ヤマトたちは歩く足を速めた。