第399話
満天の星空が瞬くエスト高原を、ヤマトはミレディとヘクトルに連れられて歩いていた。
まだ耐えられる程度ではあるものの、北地に近しいがゆえの寒風が身体に染みる。冷たさのあまりに身体が震えたところで、ミレディがくすりと笑みを零すところが眼に入った。
「……何だ」
「いいえ。もう少しで着くから、それまでの辛抱よ」
「それは助かる」
思わず返した言葉が、彼女のツボにはまったのか。
コロコロと笑い声を上げたミレディから視線を逸らせば、今度は堅い面持ちのヘクトルと眼が合った。
ノアと相対している時は剣呑な雰囲気を崩そうとしなかったヘクトルだが、今ばかりは若干緩んだ空気をまとっている。
「まさかお前が、勇者の一味だったとはな」
「正直に答えるわけにもいかないだろう? 許せ」
「責めているわけではない。どんな思惑があったにせよ、共に戦場に立った仲でもあるのだ。今更、お前を拒むことはできんよ」
「……そうか」
人知れず、安堵の溜め息が漏れる。
人間と魔族。越え難い種族の壁に隔てられてなお、彼らにはある種の仲間意識を抱いていた。そのことが自分だけでなかったという事実が、殊の外、ヤマトの胸に大きく響いたのだ。
深い呼吸を数度。乱れかけた鼓動を正し、改めてヘクトルとミレディに向き直った。
「改めて名乗らせてろうか。俺はヤマト。“彼女”――アナスタシアのところに身を寄せていたが、元々は勇者一行に加わっていた。こちらの姿で会うのは、氷の塔以来になるな」
「氷の塔――そうか、あの時に一人残った武者か」
まじまじと顔を見つめられる。
少々の居心地の悪さに任せて口をへの字に曲げれば、流石に不躾だと自覚したのか、ヘクトルは軽く頭を下げた。
「あぁ。あの一件でアナスタシアに拾われ、以降は彼女の下にいた。魔王軍に協力していたのはその関係だ」
「ふむ。“彼女”は人間を仕留めたと言っていたはずだが――」
「謀られていたってこと。今更でしょ? 彼女が腹に一物も二物も抱えているなんてことは」
「……そうだな」
納得し難いが、理解はした。
そんな面持ちで首肯するヘクトルを置いて、ミレディは場を仕切り直すように手を打ち鳴らした。
思わず視線を吸い寄せられたヤマトを、殊の外真剣な眼差しで見返してくる。
「それじゃあヤマト、一応確認しておきたいことがあるんだけど。私たちについて来たってことは――“そういうこと”だと思っていいのかしら?」
「………」
“そういうこと”。
つまりは、魔王軍には敵対しないということ。
勇者一行の宿願が魔王討伐にあることを考えれば、そこにある矛盾――ともすれば勇者一行と反目しかねないリスクに、思いが至るのは当然だろう。
そこを案じるミレディたちの思考は、至極真っ当なものだ。
(魔王軍に協力することは、本来の勇者一行の役目からは大きく外れる――いやむしろ正反対の行為、裏切りに等しいものになる)
ミレディの眼は、そのことを問うている。
お前に、かつて仲間であった勇者一行を裏切る覚悟があるのか、と――。
だがヤマトの考えからすれば、その懸念は無用のものだ。
(ヒカルの意思は、もはや魔王討伐にはない。その先、元いた世界へ帰還することに大きく傾いている。ならば――)
勇者ヒカルの手助けをすること。
そして、魔王軍の手助けをすること。
この二つの間にあった矛盾は、ヒカルの言葉によって既に失せている。先の大戦以前だったならば葛藤もしただろうが、今となっては無用の問いになっていた。
ゆえに、躊躇うことなく首を横に振った。
「心配は無用だ。今の俺には、好んで魔王軍を貶める意思はない」
「その言葉を信じろと?」
「そう言う他ないだろうな」
じろりと向けられたヘクトルの胡乱げな視線に対し、ヤマトも真っ向から視線を叩きつける。
そうした毅然とした態度が、きっと受けたのだろう。
しばらく沈黙したまま睨めつけていたヘクトルだが、やがて深々と溜め息を漏らすと、張り詰めた警戒心を緩めさせた。
「……分かった。今はその言葉を信じるとしよう」
「そうした方がいいわ。どのみち、私たちにはそれ以外の手段はないのだから」
「何が――」
「もうすぐよ。見れば分かるから」
意気消沈と評することすら生温い、一切の覇気が失せた表情。
その真意を問う前に、ミレディは足早に数歩進み――立ち止まった。
「着いたわ。あれを見て」
「あれ……っ!?」
ミレディが指差す方向。
そちらへ顔を向けたヤマトは、飛び込んできた光景を前にして、思わず眼を見開いた。
(黒い、繭か!?)
そうとしか形容できないモノが、遠く離れた大地に渦巻いていた。
漆黒よりも禍々しく、様々な色を無理矢理かき混ぜたかのような混沌とした色の帯。それが幾つも巡り、重なり、巻きつき、一つの繭のようなモノを形成している。僅かに脈動しているように見えるのは、その禍々しさがもたらした幻覚か、それとも現実か。
だがどう取り繕ってみたところで、繭から放たれる妖気が薄まることはない。
額の脂汗を拭い、隣のミレディに視線を向けた。
「あれは何だ」
「……魔王様よ」
「何?」
思わず、耳を疑う。
だが視線を向け、ミレディとヘクトルの大真面目な様子を前にして、それが嘘や冗談の類ではないことを察した。
「あれが……?」
「えぇ。黒いスライム――貴方の言う黒竜に襲われた後、魔王様はあのような姿になってしまった。以来、私たちの声は届かず、魔王様はあそこにずっと佇んだまま」
その言葉が真実であると、ヤマトが受け止め切るよりも早く。
向き直ったミレディとヘクトルは、揃って頭を下げた。
「我らでは魔王様を元に戻す方法に見当もつかなかった。どうか、ヤマトの力を貸してほしい」
「あんな姿になってしまったけれど、間違いなくあれは魔王様よ。だから、どうか――お願い」
想定を遥かに上回る難題。
それを突きつけられたヤマトは、即座に返す言葉が見つからず、腕を組んだまま低い唸り声を漏らすしかできなかった。