第397話
(元いた世界へ帰りたい、か――)
チラチラと火の粉を散らす焚き火から、眩しいほどに光り輝く満点の星空へ。
ゆっくり視線を上げたヤマトは、つい先程の会話を思い返し、重苦しい溜め息を漏らした。
「当然のことなのだろうな」
己に言い聞かせるように呟く。
分かっていたことだ。少女ヒカルが勇者という役割から解き放たれた時、一番に何を思うのか――。彼女の胸中には、耐え難いほどの望郷の念が渦巻いていたことに、ヤマトたちは気づいていた。
気づいていながらも、直視してこなかった。
ヒカルの言葉を聞いた時に、まず最初に衝撃、次いで一抹の寂しさが過ぎってしまったことが、何よりの証左だ。
(ヒカルがここへ来てから、既に一年以上は過ぎた。わけも分からないまま故郷の地を飛び出し、右も左も分からないまま一年……)
それがどれほどに過酷なことなのか、ヤマトには想像することも難しい。
ヤマトとて、故郷の地を飛び出し流浪の旅を続ける身だ。だがヤマトとヒカルとでは、決定的に違うところがある。ヤマトは自らの意思をもって故郷を飛び出したのに対して、ヒカルは有無を言わさずに故郷から追いやられてしまった。
故郷へ寄せる思いも、ひとしおであろう。
ゆえに、寂寥感もほどほどのところで断ち切る。
「何とか手段を考えなければならないな」
「――とはいえ、何をどうすればいいのか見当もつかないからねぇ」
突然割り込んできた声。
それに一瞬だけ反応しかけるものの、すぐに聞き慣れた声音であることに気づき、再び腰を落ち着けさせた。
「ノア。突然話しかけるな」
「そう? ヤマトなら気づくかなと思ったんだけど」
「……買いかぶりすぎだ」
応えながら、内心で冷や汗をかく。
改めて振り返ってみれば、ノアは決して気配を殺してなどいなかった。それでも彼の接近に気づけなかったのは、ひとえに、ヤマトが自覚していない内に疲労が溜まっていたからに他ならない。
見るからに疲れ切っていたヒカルたちを優先し、彼女らをさっさと寝所へ叩き込んだものの……。休息が必要だったのは、どうやらヤマトも同様だったらしい。
「それより、まだ交代の時間ではない。もう少し寝ていたら――」
「そりゃそうなんだけど、起きちゃったからさ。せっかくだし少し話に付き合ってよ。はいこれ、お茶」
「……分かった」
眠気覚ましの茶だろう。
舌がひりつくほどの熱気と、鼻がスッと通る爽快な匂い。それを口に含んだ瞬間、重くなっていた目蓋が一気に軽くなったことを自覚した。
今度は味を確かめるべく、舐めるように口にしながら。ヤマトは視線をノアへと向ける。
「それで、話とは?」
「ヒカルのこと。ヤマトも気になってたみたいだし、ちょうど本人は寝てるみたいだから」
ちらとテントの方を見やってから、ノアは眼を伏せた。
「ヤマトさ。ヒカルの話を聞いた時、どう思った?」
「それは――」
「驚いた? 寂しかった? それとも、勝手だなって怒った? ……僕はね。正直、ちょっと嬉しかったんだ」
『嬉しい』。
ノアの口から発せられたその言葉に、思わず小首を傾げた。
「どういうことだ」
「大したことじゃないよ。ただ、ヒカルが僕たちの知ってるヒカルの――勇者って責務に苦しんでいる、普通の女の子だったヒカルのままだったから」
「……そうか」
言われて、出会って間もない頃のヒカルを思い返す。
「勇者たれ」という言葉に縛られ、必要以上に毅然としようと振る舞っていたヒカル。肉体同様に心までをも鎧で武装し、周囲を威圧しながら――その裏で、ごく普通の朴訥とした感情に左右されていた少女。
ヤマトたちが友人になり、支えたいと思った少女ヒカルは――そんな人物だった。
「あの時のヒカルが変わってなかったことが嬉しかった。けど同時に、そのことを忘れそうになっていた自分が――恥ずかしくなった。いつの間にか、彼女のことを『勇者ヒカル』としてばかり見ている自分に、気づいてしまったから」
「………」
「だから、僕は決めたんだ」
悔いるような声音。
だがそれとは裏腹に、ノアの眼には力強い光が瞬いていた。
「――僕も、ヒカルの願いを叶えたいと思う」
「………それは……」
「もしかしたらヒカルの使命――勇者の責務とぶつかるのかもしれない。それでも僕は、ヒカルの背中を後押ししたい」
言い切ってから、若干の気恥ずかしさが込み上げてきたのか。
僅かに頬を紅潮させて視線を逸らした。
「まあ、そういうことだから。――で、話は最初に戻るんだけど」
「……具体的な方法か」
ヤマトの言葉に、ノアが首肯する。
「ヒカルは元の世界に帰りたいと願ったから、僕たちはそれを叶えたい。だけど、具体的に何をすればいいか分からないのが現状だ」
「手がかりがないからな」
「そう。使用されたのが魔導術なのか、加護に類する力なのか、それとも全くの別物なのか。現状は、そうしたことすら判明していない段階だからね。取っ掛かりすら見当たらない」
そう絶望的な内容を口にしながらも、ノアは「だけど」と言葉を続けた。
「だけどヒカルはこの世界に呼び出された時、神官から言われたらしい。『魔王討伐を成し遂げたならば、きっと元の世界に帰れるだろう』ってね」
「だがそれも、真実かどうかは分からないだろう?」
「そうだね、ただの出任せだった可能性もある。けど正直、これ以外には情報と呼べそうなものもないんだ」
溜め息を漏らしながら、ノアは三本の指を立てる。
「僕が考える限り、可能性は三つ。一つ目は、教会が異世界召喚の術原理を秘匿しているというもの。魔王討伐が果たされた暁には、教会の手によってヒカルは送還される予定だった。続く二つ目は、魔王の所領内に失われた魔導術が残されているというもの。これを解読してヒカルを送還する術を見つけようとしていた」
「……どちらも、ありえない話ではないな」
「そう。一応三つ目は、そういう使命を果たしたことで、ヒカルが何か超的なモノから干渉されて、元の世界に送ってもらえるって線だけど……。それに期待しても仕方ないからね」
超的なモノ。
異なる世界を跨いで人を行き来させる御業。もしそんな行為が可能な存在がいるならば、それは恐らく――『神』と呼ばれるようなモノだ。
苦しい時の神頼みとは言うが、安易に神に縋りつくような考え方は、ヤマトもノアも良しとはしていない。
しばらく黙考した後、自ずと溜め息が漏れ出た。
「一番現実的なところだと、二つ目か。魔族領にそうした術式が残っていないかを捜索する」
「だね。太陽教会の方は、その気になれば簡単に調べられるだろうから」
ひとまずの合意を得ておく。
これが本当に採用されるかどうかは、今は寝ているヒカルの決定次第だろう。彼女がこの案を拒んだならば、また別の手法を考えることになる。
だがそうして一つの答えを出したことで、胸のつかえが下りるような気分にはなれた。
(後は、ゆっくり休んでから考えるべきだな――)
視線を下ろせば、ちょうど手にしていた茶も空になっていた。
焚き火の燻り具合から察するに、時間も都合がいい。
「……そろそろ俺は寝るか」
「そうした方がいいよ。また明日から、忙しくなりそうだし――」
和やかに会話をしつつ、席を立とうとした。
その瞬間のことだった。
「―――っ!」
「……気配。二人、かな」
ヤマトとノアの間に、一瞬にして緊迫感が張り詰める。
緩みかけていた気を引き締める。油断なく周囲を探れば、確かにノアの言葉通り、周囲には二人分の気配が感じられた。
(だが、この気配は……?)
どこかで感じたことがある、ような――。
今一つ明瞭な形にならない予感を胸にしたまま、腰元の刀を引き寄せた。
「……仕掛けてくると思う?」
「敵意があるなら、間違いなく」
小声で会話をしながら、徐々に身体に力を巡らせていく。
そうして、ヤマトたちが臨戦態勢に入ったことを察知したのだろう。
闇夜に隠れてキャンプ地を見つめていた二人分の気配が、ゆっくりと近づいてくる。
「………」
「ヤマト。まずは僕が応じる」
返答はしない、する必要がない。
まるで敵意がないことをアピールするかのような、悠然とした足音。その主が焚き火の明かりの内へ足を踏み入れたところで、ノアは手元の魔導銃を掲げた。
「誰ですか。速やかに名乗り出なさい」
「………」
「………」
返答は、ない。
静かに警戒の水位を高めていくノアに対して、ヤマトは徐ろに近づいてきた者たちの様子を窺い――、
「―――! お前たちは……!」
思わず、眼を剥いた。
エスト高原での決戦に際して姿を暗ませ、以来行方不明だった二人。その実力は折り紙つきであったがために、ヤマトもただ安直に戦死と考えていたわけではなかったが。
まさか、ここで出会うことになるとは。
(魔王軍騎士団長、ヘクトルとミレディ――!?)
予期しない来客を迎えたキャンプ地に、冷たい夜風が吹き抜けた。