第393話
温暖な気候に恵まれ人が文明を築く地と、寒冷な気候に耐え魔族が細々と暮らす地。
その狭間に位置する地――エスト高原では、にわかに怪しげな風が吹き荒れていた。
どんよりと分厚く灰色の雲に覆われた空の下、高原の草々を踏み締める男が一人。
「――いよいよ、計画も大詰めですね」
素顔素肌の一切を外気に晒そうとしない、漆黒のローブ。
その裾を高原の風にはためかせながら、男――クロは周囲を遠望する。
「ずいぶんと時間がかかりました……。できれば、ここでケリがついてほしいところですが」
愚痴をこぼすような口振りながら、その声には、隠し切れない歓喜が滲み出ていた。
そんなクロの言葉に反応する者が、ここには二人。
「この時のために、散々手を回してきたんだから。終わってくれなくちゃ困るよ」
「……興味ないな」
饒舌に喋った男は、その顔に仮面――悲哀の表情を浮かべた青鬼の面を被っている。
一方の寡黙な男の方は、憤怒の表情を浮かべた青鬼の仮面を貼りつけていた。
赤鬼と青鬼。
共に百戦錬磨の戦士であり、クロと共に様々な作戦を遂行してきた。表向きはただ契約を結んだ傭兵という関係であるが、その実情は、互いに目的を共有した同志と言った方が近しい。
クロの呟きに同意するような青鬼の言葉に対して、赤鬼はただ一言だけを返す。
その冷たい響きに、クロはフードの下で苦笑いを浮かべた。
「興味ないって、ちょっと冷たくないですか? 正直、またこういう準備をするのは嫌なんですけど」
「あぁ、“あれ”?」
「えぇ。“あれ”です」
青鬼が顎で示した先。
小高い丘で立つクロたちからは、薄っすらとしか望めない程度に遠い場所。本来であれば草が青々と茂っているはずの大地にて、暴れ狂う異形のモノが一体いた。
黒尽くめの怪物としか形容することができない。大きさはおよそ小山程度、体皮の色は漆黒。手足が幾つ備わっているか、目鼻があるのかすら分からない。だがその一番の特徴は、身動ぎ睥睨咆哮の一つ一つに、測ることすら馬鹿馬鹿しくなるほどの莫大な魔力が漏れ出ていることだろう。遠く離れたクロたちの元にすら、荒れ狂う魔力の波動が伝わっている。
きっと“あれ”の近くには、濃すぎる魔力にあてられて、身の毛がよだつほどの怨霊――鬼が湧き出ていることだろう。
そんな異形のモノを遠望して、クロはクツクツと笑い声を上げた。
「相応のモノになると見込んでいましたが、まさかあれほどとは。嬉しい誤算というやつですね」
「そう? 僕は正直、もっと大成すると思ってたけど」
「おや。ならば、私には人を見る目がなかったということでしょうか」
「さあ。近いからこそ、見切れなかったって感じじゃないかな」
よよよと泣き崩れるような素振りを演じてみせながらも、クロの声音は歓喜に染まっている。
和やかに応じる青鬼の方も、高揚の色は確かに滲ませていた。
一方で普段と変わらない平静を保っているのが、赤鬼だった。
クロと青鬼がひとしきり満足したのを確認してから、小さく咳払いをする。
「あまり気を緩めるな。まだ我々の仕事が終わったわけではない」
「えぇえぇ、仰る通りですね。むしろここまでは前哨戦。ここからが、私たちにとって本番です」
まるで別人格が乗り移ったかのように、クロの態度から喜色が消え失せる。
その雰囲気の豹変を見て取って、赤鬼と青鬼も佇まいを正した。
「“あれ”と勇者を戦わせる。結末がどちらに転ぶにせよ、戦いの余波は大きく、只事では済まなくなるでしょうね。“あれ”の力ならば、人という種の存続が危うくなるほどの状況にまでは持っていけるはず」
「その先に、僕たちの目的がある」
「えぇ。人が滅亡の危機に瀕したとあれば『奴』は君臨せざるを得ない。そうなれば――」
『奴』。
正体をクロが口にすることはなかったが、その一言に含められた感情は、悲哀憤怒といった言葉では形容できないほどに複雑で、また激しいものだった。
混じり気がなく怖ろしいほど研ぎ澄まされた殺意。
それを周囲に振り撒いたクロだったが、割り込んできた赤鬼の咳払いに、我を取り戻した。
「失礼しました。少々、気が逸ったみたいですね。無論私が口にしたことは、計画が上手く行けばの話です。その障害になりえる要素は様々にある」
「それを排するのが、我々の任だ」
「そういうことです」
クロは鷹揚に頷く。
次いで指を三本立てて、話を聞いていた赤鬼と青鬼の方へと向き直った。
「さて。私たちが計画を遂行するに辺り、障害となるものが大きく三つあります。分かりますか?」
まるで幼少の子供を相手にするような口振りだ。
赤鬼は憮然とした様子で口を閉ざすが、一方の青鬼は、苦笑い混じりながらも応じる。
「勿論さ。一つはアナスタシア。もう一つが帝国。そして最後に、勇者一行」
「えぇその通り。ですがこの際、前者二つは無視してしまってもいいでしょうね。アナスタシアは研究所を離れているため、ほとんど脅威になりえない。帝国の方も、先の襲撃の回復で手が回らないはずです。何かしてきたところで、私たちならば十分に対処できる」
クロの言葉に、赤鬼と青鬼は両方とも反論しなかった。
アナスタシアが脅威とされる理由は、その並外れた頭脳によって生み出された技術にある。ボタンを押すだけで大地を燃やし尽くすような兵器は、彼女を脅威と捉える理由に十分値する。だがそれらは、今旅路にある彼女では手にすることができないものだ。研究所を離れたアナスタシアは、頭脳こそ脅威であるものの、それ以外にはか弱い少女でしかない。
そして、帝国。圧倒的な国力を有する彼の国は、クロたちが細々と企てた計画などを軽く一蹴できるだけの力を持っている。だが帝国もまた、今であれば脅威になりにくい。つい先日の“赤”――至高の竜種の襲撃により、帝国は容易く回復できないほどのダメージを負ったからだ。
その現実を三者が共有したところで、沈黙していた赤鬼が声を上げた。
「……ゆえに問題は、勇者一行」
クロは苦虫を噛み潰したような雰囲気で頷く。
「はい。本来であれば、従者は所詮従者にすぎず、無視してもいい存在でした――が、今回に限っては異なる」
「ヤマトって言ったっけ」
ヤマト。
その名を聞いた瞬間に、クロは心底からの溜め息を漏らす。
そこに含まれる感情は、呆れと諦め、怒りと苛立ち、そして感心の全てを含んだもの。
数拍おいてそれらを飲み干してから、クロは再び口を開いた。
「そうです。彼だけは、無視することはできない。これまでも散々邪魔をされてきましたが、今回に限っては、絶対に動かれてはならない。彼が素質を持っていたことに、もう少し早く気づいていたならば、話が変わったかもしれませんが」
「もし万が一、彼が“あれ”を――」
「そういうことです。そうなれば、これまでの私たちの努力だけではない。これから先の展望全てが、水泡に帰すことになります」
散々苦汁を舐めさせられてきたクロと、一度手痛い敗北を経験した青鬼。
二人の間に気まずい沈黙が横たわったところで、赤鬼がふっと嘲るような笑い声を上げた。
「何を臆している。障害になるのであれば、とっとと斬り捨てればいい」
「と言うと?」
「俺が斬る」
鬼気迫る闘志を身に宿し、赤鬼は腰元の刀を揺らす。
それは、同じ刀術の使い手として敵愾心を燃やしているがゆえか。痩せぎすで寡黙な印象の多い赤鬼が、いつになく高揚し、煌々とした覇気には触れていた。
いつもより獰猛な赤鬼の気迫に、青鬼は僅かに気勢を削がれる素振りを見せる。
一瞬早く平静を取り戻したクロが、赤鬼の闘志を歓迎するように、手を打ち鳴らした。
「それは素晴らしい! ならば彼の相手は、貴方にお任せしても?」
「構わない」
「……分かった。なら僕は、その露払いをするよ」
青鬼の言葉に、一瞬だけ赤鬼は何か言いたげな視線を向ける。
だが結局何も口にすることはなく、普段の様子を取り戻した。
「では、そういうことで。恐らく本番は数日後、遅くとも十日後になるでしょう。それまで、英気を養うとしましょうか」
おどけた口振りながら、クロから滲み出る雰囲気は真剣そのもの。
誰の視線もないエスト高原の片隅で、三人は密かに闘志を高める。その煽りを受けてか、黒い異形のモノが、どこか苦しげにも聞こえる雄叫びを木霊させた。