第391話
“赤”の襲撃による動乱。
その熱が冷めやらぬ皇城を密かに脱した魔王一行は、帝都を抜け帝国軍の眼も届きづらい平原へと到着した折になって、ようやく息を漏らした。
「ここまで来れば、ひとまずは安全だな」
「はっ。奴らが我々の動きに勘づいた様子もありません。危地は脱したかと」
「このまま城まで何事もなければいいが……」
故郷と比べると、ずいぶん生暖かい風だ。
頬を撫でる感触から故郷を彷彿とさせながら、魔王は呟く。
その横顔から窺える感情は、安堵か、憂鬱か、気負いか。
見かねたらしいヘクトルが口を開くよりも早く、魔王は声を上げた。
「ヘクトル。クロからの連絡はあるか?」
「……いえ。そも、奴との連絡手段は持ち合わせておりませんゆえ」
「そうか……」
魔王の脳裏に引っかかるのは、クロの存在だ。
いくら魔王たちが優れた戦士であるとしても、独力で皇城を――帝国を脱することは困難を極めた。こうして生命からがら脱出できたのも、クロが先んじて皇城に混乱をもたらしたからに他ならない。
(思い返せば、奴には不義理な真似ばかりしてきた)
怪しげな風貌に、忠誠を感じさせない言動。
それゆえに魔王はクロを重用しながらも、どこか監視するような眼差しで接してきた。そのことが間違いだったと悔やむつもりはないが――、
「……クロは何を望むだろうな」
「あら魔王様。あいつに褒賞でも与えるつもり?」
「無論。相応の働きには相応の恩賞を出す。それを欠かせば、私は王たる資格を失うだろうよ」
「律儀なものねぇ」
まるで「処置なし」と言外に呆れるようなミレディの台詞。
そこにクロに対する謝意が欠片も含まれていないことに気づき、魔王は思わず眉をひそめた。
「奴にはそれが不要と、お前は言いたいのか?」
「いいえ? ただ、あんまり素直に感謝しない方がいいと思うわよ」
「恐れながら、私もミレディと意を同じくするところです」
「……ヘクトルもか」
思いがけぬ人物からの言葉に、今度は軽く眼を見張った。
ヘクトルとミレディ。
共に魔王軍騎士団長という大役を任された逸材ながら、二人が常にいがみ合っていることは、魔王にとっては頭痛の種であった。
そんな二人が、珍しく口を揃えて忠言している。
(軽く捉えない方がよさそうだな)
ほんの雑談くらいと考えていたところを、ふっと一息吐くのと同時に切り替えた。
「理由を聞かせてもらおう」
「いかに奴が腕利きであったとしても、あの城へ忍び込めるとは到底思えないのです」
「ほう」
「口惜しいですが、あの国の兵は揃って精強。それだけでなく、優れた将も数多く揃えておりました。ミレディが操るような怪しげな術をいくら用いたところで、奴らの眼全てを欺くのは困難です。――少なくとも、我々の知るクロには不可能」
それは、そうだろう。
ただ一人の力をもって、厳重に警備された皇城を突破する。そんな芸当ができる者がいたならば、魔族がこれほどの窮地に立たされることもなかったはずだ。
ひとまず一定の理解を示した魔王を確かめ、今度はミレディが言葉を引き継ぐ。
「どのような者でも、あそこを正面突破することは難しいでしょう。ならば、きっと別の理由がある」
「……それは?」
「内通していた、とか」
「何を――!」
反射的に声を荒げそうになったところを、寸前で堪える。
ミレディはただの妬み嫉み、感情で他人を悪し様に罵るような女ではない。その蠱惑的な顔の下で、魔王ですら測り知れないほどの知謀を巡らせる才女だ。
数度の深呼吸をもって顔の熱を冷ましてから、ゆっくりと口を開いた。
「続けろ」
「敗残兵とはいえ、私たちは魔王一味――この戦いにおける最重要人物です。そこへ到達できるのは、彼らの身内か、少なくとも相応の信頼を勝ち得なくてはならない」
「……それで、内通か」
「えぇ。秘密裏に私たちの情報を横流しすれば、信頼を勝ち得ることは容易いでしょう。そうなれば、私たちの元まで辿り着くこともできますわ」
理には、適っているのだろうか。
そう納得しかけたところで、慌てて首を横に振る。
「いや、ならばなぜ私たちを脱出させた? これは明らかに帝国の不利となる行為だ」
「そこなのよねぇ。一応、いくつか仮設は立ててみてるけど、どれも確証には欠けていて」
「ならば忠義によるものかもしれん、だろう」
「そう? まあ、そうかもねえ」
言葉にしておきながら、そこに自信を乗せることができない。
脳裏にクロの怪しい笑みがちらつく。魔王の知るクロという男は、少なくとも忠義に殉じるような従順な性格はしていなかった。むしろ嬉々として主を蹴落とし、目的のため利用することを厭わない。強かさと狡猾さを併せ持つ男。
(だが、奴が何かを企んでいたとしてだ。それは一体――)
立ち昇る疑念をそのまま、思考を空へ漂わせようとした――瞬間のことだった。
「―――っ!?」
怖気。
どう足掻いても、たとえ天地が引っ繰り返ったとしても、敵うはずのない上位者。その頂点と対峙したかのような恐怖が、魔王の魂を雁字搦めに縛りつける。
視界が暗くなる。ゼイゼイと慌ただしく呼吸する音が耳奥で木霊し、周囲を見渡そうという発想すら浮かんでこない。
「魔王様っ!」
ヘクトルの声が薄暗闇を切り裂き、仄かな光が差し込む。
震える足に活を入れ、キッと前方を睨みつけた。
「何が――」
問う必要すら、なかった。
魔王らの視線の先。彼らの眼を釘づけにするほどの存在感を伴って、“それ”は立っていた。
『―――』
彼我の間合いは十メートルほどか。
先程までは確かに何もなかった場所。ただ風に晒されるばかりの平原を踏み躙るように、一つの影がある。
影。
そうとしか形容できまい。目鼻口のいずれもなく、影法師がそのまま肉体を得たかのような姿なのだから。
困惑のままに口を開く。
「奴は、何だ?」
「……分かりません。が、お気をつけを」
「これは、流石にマズいかもしれないわねぇ」
わざわざ言われるまでもない。
影法師から立ち昇る力の質と量。その両方共に、魔王らの眼からしても圧倒的だ。
皇城から脱する際に目撃した竜種――“赤“と比べても遜色ない、いやむしろそれを凌ぐほどの存在感。
(私たち三人が共に向かったとて、退けられる保証はない。むしろ逆に、取って食われる可能性すらある)
交戦は避けるべき。
魔王たちがその結論を下すのに、時間も言葉も必要なかった。即座に撤退を選択し、黒い影の眼に留まらぬよう気配を潜める――が。
それは、どうやら無為な決断だったらしい。
『―――』
「………っ! 来るぞ!」
魔王が一番に反応できたのは、加護の賜物だろう。
即座に身を翻した魔王は、その眼で、影法師の腕が滑らかに変形するところを捉えた。
(あの動き――スライムか!?)
その弱小さゆえに、北地ではなかなか見ることのできない魔物。
それが魔王をも圧倒するだけの力を得るとは考え難かったが――現実に起こっているのだ。眼を逸らすわけにはいかない。
「お気をつけをっ!!」
ヘクトルの悲鳴が耳に入る。傍らで影法師――いや黒スライムの腕が、一振りの刀へ変形するところを目撃した。
その刃が向く先は、己だ。
「く――っ!?」
咄嗟に魔力で障壁を貼る。
魔王の身には、歴代魔王から受け継がれた加護――絶対防壁が備わっている。これを破れる者は勇者のみであり、他の者には魔王を傷つけることは叶わない。それはたとえ黒スライムであっても、例外ではない。
そう、理性は判断したにも関わらず、身体は本能の訴える危機感のままに動く。
『―――』
「痴れ者がッ!」
魔力障壁と、加護による絶対防壁。
いかに黒スライムが規格外な力を持っていたとしても、その二枚を容易く貫けるとは思えない。
その判断のままに、腕を天へと突き上げる。魔力を収斂させ、術の形へと練り込み――、
「魔王様ッ!!」
凄まじい力で、身体が突き飛ばされた。
「何を――っ!?」
問おうとして、気がつく。
魔王の身体を突き飛ばしたヘクトル。その胸元を裂くように、黒刃が閃いた。鮮血の華が咲き散り、鉄錆の匂いが辺りに充満する。
だが問題は、そこではない。
(加護が、斬られた……?)
鋭い痛みを訴える脇腹に手を添えた。
ちらとそこを窺えば、手の平が真っ赤に染まっていることが分かる。疑うまでもない、そこを斬られたからだ。
どうして。
どうやって。
ぐるりと空回りした思考の間隙に、再び鋭い殺気が叩き込まれる。
「退いて!」
「―――っ」
咄嗟にバックステップをする。
その直後に放たれたミレディの魔導術。速度を重視した魔力の槍が、黒スライムへ殺到し――、
「弾かれた!?」
『―――』
一撃をもって、ミレディを新たな脅威と見なしたか。
黒スライムは能面のような顔をそちらに向け、まるで苛立ちをぶつけるように、地を踏み締める。
「何を……」
その答えは、一瞬後に示された。
魔王たちの眼に入らぬよう地下を貫いた、黒スライムの足。さながら掘削機のような鋭さを伴った爪先が、大地を割り、遥か間合い外にいたはずの魔女へと至る。
黒スライムの触手が、ミレディの胸元を穿つ。
「が、は……っ!?」
何が起きたのか分からない。
そんな表情をしたままに、ミレディが胸と口から血を噴き、どうと倒れ伏す。
残されたのは、魔王一人。
(ヘクトルとミレディが、こうも呆気なく……!? このスライムは一体――)
だが状況は、魔王に思考する暇すら与えない。
こともなげに二人を沈黙させた黒スライムは、その作業の続きとでも言うように、顔を魔王へと向けた。
腕が伸びる。
『―――』
その腕の先にあるのは、ヘクトルを斬り捨てた片刃の黒剣だ。
魔王の加護ごと斬り捨てた不可思議な力が、脳裏をよぎる。
「く――っ!?」
本能に任せて飛び退ったのは、結果的に正解だったのだろう。
「どうか嘘であってほしい」という願望を嘲笑うように、黒剣が魔王の頬をなぞる。
噴き出す血で視界が染め上げられる中、あと一瞬でも判断が遅れていれば、その凶刃が魔王の脳髄を破壊していたことは想像に難くない。
(駄目だ……これは、勝てない)
絶望が胸の内に広がる。
反撃の手を講じることも忘れ、ただ茫洋と黒スライムを眺めることしかできない。
そんな魔王の脳裏に、いつだかに聞いた言葉が蘇った。
「……偉大なる先祖よ。同胞を導き、旗を上げ、そして無念の内に散った王よ」
それは破れかぶれの発想だ。
クロが別れ際に残した言葉。いざとなれば先祖を――魔王の加護を頼れ。その言葉に、藁にもすがる思いで、辿り着いた。
「私はまだ、倒れるわけにはいかない。私が倒れれば、故郷に残した民たちの未来が閉ざされる。彼らの明日を切り開くため、私はまだ――死ねない」
『―――』
「だから、どうか。どうか……力を」
黒スライムが、凶刃を宿したまま腕を振り上げる。
当たれば、生命はない。
久しく感じることのなかった死の気配。その冷たさに耐え切れず、魔王は咄嗟に眼を閉じ――。
一陣の黒風が、吹き抜けた。