第390話
(間に合ってくれたか)
クロの手引きにより、無数に湧き出した影法師――鬼の群れ。
恐らくは天寿を全うした帝国兵らの残滓であったのだろう。感情も理性をも感じさせない無機質な動きであったが、その内には確かに修練の証が垣間見えていた。一体ずつを取り出してみても、そこらの下級兵とも何ら遜色ない強さだった。
その大群を大した傷もなく潜り抜けられた。そのことは望外の僥倖と言う他ないだろう。
(だが、本番はここからだ――)
眼前の敵、クロを睨みつけた。
幾度となく対峙してきたが、そうしてもなお彼の力の本質を見定めることができていない。ただその一事を取り出しても、クロが尋常な相手でないことは窺い知れる。
とても楽観視していい相手ではない。
隣で聖剣を構え直したヒカルに視線を向けた。
「ヒカル、怪我は」
「してない。加護の方もまだまだ使えそうだよ」
「それはよかった」
ひとまず喜ばしい情報が一つ。
こと近接戦闘において引けを取るつもりはないとしても、時空の加護を授かったヒカルの力は破格の一言だ。格闘術魔導術の両方を使いこなすクロを相手取るならば、彼女の力は頼もしいどころではない。
勢い勇んで前へ進み出ようとしたヒカルを、手で制止した。
「前は俺にやらせてくれ。ヒカルは後ろから援護を――」
「――やれやれ。困るんですよねえ、こういうの」
静かながらも猛々しく戦意の炎を滾らせるヤマトとヒカル。
彼らの意気を挫くように、「やれやれ」と肩をすくめたクロの声が飛び込んできた。
一瞬だけ眼を見合わせた後、クロへと向き直る。
「困るだと?」
「えぇ。せっかく用意した舞台に貴方が割り込んでくるの、これで何回目でしたっけ」
「知ったことではないな」
「でしょうね。貴方からすれば、ただ眼の前で起こった事件を解決しているだけでしかない。こうして私が言っていることなど、つまらない言いがかりにしか聞こえないことでしょう。ただ、私としては少々文句を言いたいところでもあるんですよ」
「ほう」
努めて平静を装った言葉だが、その裏には煌々と灯る炎が秘められていた。
焦燥か、憤怒か、歓喜か。
渦巻いている感情の正体は読み取れない。だが、そうしたものの片鱗を覗かせること自体、クロにとっては珍しいことだ。
(あえて見せている? いや、余裕がないのか……?)
スッと眼を細めてクロの様子を窺ってみる。
疲労は、間違いなく募っていた。全力のヒカルを相手にしたのだから当然だ。小休止すれば回復する程度の疲労だが、彼の身体を蝕んでいることは確実だ。
だがその程度で、彼が追い詰められるとも思えない。
(なら演技? だとしても、いったい何が目的で――)
「ククッ、マジで余裕なさそうじゃねぇか」
堂々巡りを始めようとした思考。
それをせき止めたのは、横から割り込んできた冷ややかな声だった。
「アナスタシア……」
「おや。隠れてなくてよかったんですか?」
「もう必要ねえだろ」
リリの姿を借りたアナスタシアだ。
クロとの戦いが始まってから身を隠していたようだが、今になって出てきたらしい。
アナスタシアはそのまま、己の身の危険を省みることなく前へ進み出る。
「それより、面白そうなことを言ってたな。こいつのせいで困ってるんだって?」
「……えぇ、まあ」
「大方、せっかく勇者覚醒のために用意した試練を、こいつが勝手に解決したってところか? ククッ、ざまあねえな」
「言ってくれますね」
今度こそ、クロの言葉の裏側に滲む感情の正体が掴めた。
苛立ち。
ズケズケと踏み込んだアナスタシアの言葉に対して、クロは明確に苛立ちを募らせていた。
冷徹な瞳で一同を観察するヤマトを他所に、アナスタシアとクロの会話は続いていく。
「だが分からねえな。どうしてそこまでして、勇者の覚醒を目指している? んなことをして、どうお前の目的に繋がる」
「お気づきではなかったのですか? 正直、貴方には既に気づかれているものと思っていましたが」
「買い被られたもんだ」
「それ相応の成果を、貴方は出し続けてきましたからね」
言葉の応酬。
それが交わされるごとに、場の空気が刻一刻と冷え込んでいることを実感した。
アナスタシアとクロとの間の緊迫感が増す。
「勇者の覚醒。その先に見ているのは、決戦の激化か? だが勇者と魔王が暴れ回ったところで何がある。んなことをしたって、辺りが壊されるだけだ。それは、お前の目的に関係ないだろ」
「そうかもしれませんね」
「いや。そうすることで“至れる”? 少なくとも、お前はそう考えているってところか」
「さて」
「……ククッ。んな調子じゃあ白状してるのと変わらないぜ? 『図星だから答えたくない』って言ってるようなもんだ」
「そうですか」
妙に強気なアナスタシアの発言だが、その文面ほどには、彼女は確信を抱くことはできていないだろう。
あの手この手で揺さぶりをかけているようだが、クロがそれに乗る様子はない。念入りに感情を封印し、放つ言葉も必要最低限のものだけに留めている始末だ。
そんな調子を前にして、アナスタシアは小さく舌打ちを漏らした。
「厄介な野郎だ」
「お褒めに預かり光栄です。ただ――」
言いながら、クロはふっと佇まいを緩めた。
「そう遠くない内に、貴方の知りたいことは全て判明すると思いますよ?」
「あん? どういうことだ」
「既に種は撒いたということです。後は私が手を下さずとも、種は芽吹き、やがて大輪の花を咲かせる」
「……ずいぶんと詩的な表現だな」
「性分でしてね」
視線を落とし、思案に身を沈めるアナスタシア。
そんな彼女の隙を見逃さずに、クロはその場から一歩退いた。
「ではそろそろ、お暇させていただきましょうか」
「はあ?」
「ここらで退かないと、いよいよ退路が絶たれてしまいそうなので」
言われて、ヤマトは周囲の状況を確かめた。
辺り一面でひしめいていた影法師の大群は、気がつけば、その数をずいぶんと減らしていた。元の半分程度になっただろうか。
対するリーシャたちも、若干の疲労を覗かせてはいるものの、まだ余裕を感じさせる表情をしている。
今でこそ影法師はまだ数多く残っているが、リーシャたちの手によって直に殲滅されることだろう。そうなれば、クロが逃げおおせることも困難だ。
(機を逃した――いや、奴が敏かったか)
もう数分――いや数十秒程度でも遅ければ、決定的な詰みまで持ち込むことができたかもしれない。
だが、それはもう叶わないことだ。
俯かせていた顔を上げたアナスタシアは、だが既に間合いを離しつつあるクロの姿を認めて、疲れの滲んだ溜め息を漏らした。
「ヤマト。追えるか?」
「難しいな。無理をすれば、できるかもしれんが――」
「なら止めとくべきだな」
「……分かった」
ちらりとアナスタシアの横顔を窺ってから、首肯した。
既に確かめているだけで、クロはまだ赤鬼と青鬼を従えている。他にどれほどの手札を隠し持っているかも判然としていないのが現状だ。下手に深追いをすれば、その横っ腹を狙って伏兵が現れるかもしれない。
安全を取るならば、ここはクロを見逃す他ない。
「それでは失礼します。またすぐにお会いできると思いますが。その時は、いよいよ白黒つけることになるかもしれませんね」
「けっ。とっとと失せろ」
「はは、これは手厳しい」
額に手を当て苦笑いするような素振りを見せた後、クロはパチンッと指を鳴らした。
途端に、床から滲み出るように現れた黒いモヤが、クロの身体を取り囲み――
「消えた……」
「ただの手品だ。あのモヤを起点に、幾つかの隠形を発動させただけさ」
「ほう」
言われて周囲の気を探ってみる。
そうすれば、ほんの僅かにではあったが、何かが揺れ動くような気配が感じられた。クロと確信できるようなものではない。だが明らかに“何か”がいると、そう感じられるモノだ。
(隠形。そうか、この感覚か)
初めて掴んだ、クロの尻尾だ。
その感覚を忘れてしまう前に、脳を越えて魂に情報を焼きつけた。余程のことがあっても、これを忘れないように――。
そうしてから眼を開けば。
ヤマトの反応を待っていたかのように、アナスタシアがパチンッと手を打ち鳴らした。
「さて。とりあえずは一件落着、なのかね?」
「どうだろうな」
「まだ確かめてないけど、たぶん遺骸の方は盗られている。一件落着とは言えないんじゃないかな」
苦言を呈したのはヒカルだ。
そんな彼女の発言に、アナスタシアは鷹揚に頷く。
「確かに。だがまあ、見た感じ城の被害は小さい。それはお前たちがクロの相手をして、あの影を抑えていたからだ。そのことは誇っていいんじゃねえの?」
「……そう、かな」
「そう思っといた方が、気が楽だろ」
正確に状況を分析したならば。
この帝国における事件は、終始クロによって先手を奪われていた。彼が主導権を握っていたと言い換えてもいいだろう。ヒカルたちには、後手から対症療法的に駆け回ることしかできなかった。ゆえに皇城の被害が軽微で済んだのも、ヒカルたちの被害が小さかったのも、全ては彼の気まぐれ――もしくは打算によるところが大きい。
そして肝心なクロの狙いについても、その全貌を掴めたわけではない。
(結局、クロは何がしたいんだ)
勇者の覚醒。
それがこの場における目的であったことは間違いない――だが、それで終わるはずもない。クロは勇者覚醒の先に、まだ別の目的を見据えているようだった。
いったい何が目的だ。
思わず眉間にシワを寄せてしまう。
そんなヤマトに対して、ややあって溜め息を漏らしたアナスタシアが、背を伸ばし指で額を小突いた。
「む」
「なに悩んでるんだ。こんなもんは、なるようにしかならねえよ」
「そうか?」
「野郎も言ってたろ、次が正念場だってな。ならお前は、その時に備えて力を蓄えておけよ。どうせ考え込んだところで、お前がそっち方面で役に立つとは思えねえし」
「……それもそうだな」
励ましにしては些か乱暴が過ぎる気もしたが、それがアナスタシアらしくもあるのだろう。
パンッと軽く頬を叩き、気を入れ直す。
(ひとまず、今は奴らの殲滅が先か――)
リーシャたちの奮闘の甲斐あって、影法師の数はずいぶんと減っている。
このまま指をくわえて見ていても、直に片づくだろう。だがそれは、ヤマトの性に合わない。
「リーシャ、手を貸す! 適当に斬っていくぞ!」
「ヤマト――、分かった! ノア、ヤマトの援護に回って」
「了解っと!」
手近な影法師の首を横一文字に斬り飛ばせば、間髪入れず放たれた銃弾が別の影法師を穿つ。
相変わらず、頼もしい援護射撃だ。
再びふつふつと熱を高める己を自覚しながら、ヤマトは影法師らとの戦いに身を投じる。
影法師が全滅するまで、ほんの数分程度であった。