第389話
辺り一面を埋め尽くすほどの、無数の影法師。
初代魔王の遺骸。その一つを解き放ったことで漏れ出た高濃度の魔力が、彼ら――帝国の地に眠っていたであろう様々な情念を呼び起こし、鬼として顕現させたのだ。
のっぺらぼうのように目鼻のない黒人形を前にしながらも、面々に恐怖の色はない。
「ヤマトとレレイは奴らの勢いを止めて! 私とノアで、何とか数を減らしてみる!」
「分かった!」
「食い止めてみせる」
凛としたリーシャの指示を受け、ヤマトとレレイが共に飛び出した。
その背を追い越して、無数の疑似聖剣が空を舞い、銃弾が放たれる。光の剣に薙ぎ払われ、銃弾に頭を撃ち抜かれた影法師が、ぐらりと力を失い倒れる姿が眼に入った。
「……よかった。攻撃は通るみたいね」
ポツリと溢れたリーシャの安堵の声が、すぐ傍のヒカルの耳に滑り込む。
だがそれに応じる間もなく。すぐさま表情を取り繕ったリーシャが、次いでヒカルへと視線を飛ばした。
「こっちは私たちで何とかする。だからヒカルは――」
「私の相手を、お願いしましょうか」
ゾッと背筋を駆け抜けた悪寒。
咄嗟に身を翻し瓦礫の陰へ入り込めば、一瞬前までヒカルが立っていた場所へ、魔力の槍が勢いよく突き刺さる光景が眼に映った。
「クロ……!」
「せっかくここまでお膳立てしたんです。ちゃんと相手をしてくれないと困るんですよねえ」
この事件を引き起こした張本人。
黒いフードに素顔を隠した男クロが、邪気を感じずにはいられない厭らしい笑みを口元に貼りつけ、手中のナイフを弄ぶ。
生理的な嫌悪感のまま顔を引き攣らせながら、ヒカルは聖剣を構えた。
「ヒカル、そっちは任せることになるのだけど――」
「大丈夫。私一人でも、あいつを倒すよ」
「……分かった。こっちが片づいたら、すぐに援護するから」
なおも不安げなリーシャを安心させるべく、力強く首肯する。
視線を前へ戻して、ゆらりと手を掲げようとするクロの姿が眼に入った。
本能が訴えるがままに、聖剣から漏れ出る光の強さを増させた。
「―――っ、これはこれは。聖剣の力を引き上げましたか。大したものですね」
「好き勝手に魔導術を使われたら、面倒だから」
クロがどういった戦法を得意としているかは、かつてヤマトやノアから聞いたことがある。
曰く、近接戦闘における卓越した技量も然ることながら、一番の特徴は魔導術の巧者であること。ほんの瞬き程度の隙間で術式を構築し、気がついた時には取り返しがつかないほどの大規模術式を発動させるのだという。
ゆえに、まずはそれを封じた。
「聖剣に宿りし退魔の力。その実態は、魔力を根こそぎ沈静化させる劇物のようなものです。ゆえに勇者は、魔力に依存した体質である魔族に対し、特攻性というべきものを持っている。――いやあ、大したものですね!」
「………」
「ただ、こうなるとせっかく呼び出した彼らの力まで減衰してしまいますから。早めに済ませないといけなさそうですねえ」
己の得物一つを封じられたにも関わらず、クロの様子に変化はない。
むしろ嬉々とした雰囲気で、ヒカルに向けて一歩踏み出してくる始末だ。
「やるつもり?」
「ええ。貴方の方も、思う存分力を振るった方がいいですよ」
「……そっか」
深呼吸を一つ。胸の内に燻っていた妙な感覚を、呼気と共にどこか遠くまで吐き出した。
先程はヤマトたちと合わせて五人がかりでも、遂にクロを追い詰めることはできなかった。それが、今はヒカル一人。普通に考えたならば、荷が重いのだろう。
だが。
(加護を全力で使えば、もしかしたら――)
再び胸の内に滑り込もうとする、若干の恐怖。
それを努めて無視したヒカルは、クロを睨めつけると同時に、加護の枷を取り外した。
瞬間、身体を巡る力が活性化する。
「おや? 雰囲気が変わりましたね」
「ふぅー……」
全身がカッと熱くなる感覚。やたらと身体の感覚が鋭敏になり、重石のようであった鎧が紙ほどの軽さに感じられる。今ならば、軽く跳ねただけで空を舞えるという確信があった。反面、大きい鼓動の音が耳奥で木霊し、ぐらぐらと頭が揺れているような錯覚がある。
何度も深呼吸をしてみるが、それらが減じることはない。
(このままやるしかない!)
その決意のまま、キッと眼前のクロを見据えた。
「ずいぶんと体調が悪そうですね。無理などなさらず――」
「―――っ!」
風や音、己の感覚をも置き去りにして、踏み込む。
上段に構えた聖剣を、駆ける勢いのままに振り下ろした。
(やっぱり、避けられるか)
ひらりと身を翻したクロが聖剣の刃先から逃れる。だがこの程度は、まだまだ想定内だ。
身体能力を爆発的に引き上げているとはいえ、元々ヒカルは剣術に卓越していない。どれほど剣を振り回したところで、ヤマトをして刃を掠らせることもできなかったクロを、捉えられるとは到底思えなかった。
ゆえに、捻りを加える。
(未来を視る――!)
未来視の力。
時空の加護を授かった当初から行使できた力であり、ゆえにヒカル自身、これまで幾度となく頼りにしてきた能力だ。現実の光景が幾つにもブレる感覚は気持ち悪くもあるが、既に慣れた。
現在のクロの位置と、一秒後のクロの位置。そのちょうど中間を貫くように、聖剣の刃を突き入れる。
「そこ!」
「―――っ」
初めてクロから、相手を見下すような嘲笑が失われた。
ふらふらと揺れながら後退していた身体の動きを急停止。逃げ道をも塞ぐように放たれた刺突に対して、既のところで上体を捻る。
聖剣の刃が、クロの服だけを裂く。
「これは……」
「まだまだ!」
過信はしない。ようやく掴み取った優勢を、そう容易く手放すつもりはなかった。
ほんの僅かに焦りを滲ませて後退ろうとするクロを正面に捉え、やや大振りに聖剣を構え直した。
彼我の間合いは、およそ二メートル弱。
「………?」
女性らしく小柄なヒカルの腕では、少々遠い間合い。
「見誤ったのか?」。そう思案するようなクロの前で、ヒカルは二つ目の能力を発動させる。
(クロの後ろまで、転移!)
世界の光景が一瞬にして切り替わり、ヒカルの目前にクロの背中が現れた。
短距離転移、瞬間移動。
目視できる程度の距離までという制約こそあるものの、それ以外には不自由のほとんどない破格な能力。瞬時に立ち位置を変化させる技は、武に精通した者にこそ大きく機能する。
ヒカルを見失ったクロが我を取り戻すよりも早く、構えた剣を振り抜く。
「く――っ!」
(当たった!?)
刃が確かに肉を裂き、真っ赤な鮮血が噴き出す。
その光景に、勝利に一歩近づいた手応えを得るよりも先に、本当に刃が届いたことへの驚愕が訪れた。
半ば無意識のまま、追撃するべく聖剣を下段で構える。
対するクロに、後退する様子はない。
(退いても意味がないと判断した? 流石に速い)
これが経験値の差だろうか。ヒカルでは、クロほどに迅速な決断を下すことはできなかっただろう。
その事実を冷静に受け止めながらも、動きは鈍らない。
「ここで決めるッ!」
加護の恩恵を最大限享受し、身体能力を可能なだけ上昇させる。
その斬撃へのクロの応答は、迎撃。ナイフを握り締め、ヒカルが振るわんとする斬撃の軌道上に添えた。
(無理矢理押し切ることもできるだろうけど――)
一瞬だけ生じた逡巡は、すぐに払い落とした。
全力で行くべきだ。
(周りの空間ごと、斬る!)
かつて黒竜をも退けた、ヒカルが有する中では最高の一撃。
加護の力を借り、空間そのものを斬り裂く。言うなれば世界を斬る一撃だ。どれほど卓越した技術であっても、この世界の内で留まっている限り、防ぐことは叶わない。
振るう刃の周囲で、空間が軋む音を立てる。
「これは……っ!?」
「行けぇッ!!」
考える暇など与えない。
ギョッとしたようにたじろいだクロ目掛けて、思い切り聖剣を振り抜い――、
刃と刃がぶつかり合う音が、響き渡った。
「なんで……!?」
戸惑いの声が漏れた。
空間ごと破壊する能力は、間違いなく作用していた。聖剣が通り抜けた後の空間は壊れ、真っ暗闇しか覗けない異次元へと繋がっている。眼にするだけで正気が呑まれるだろう深淵の闇は、かつて黒竜を退けた際にも目の当たりにした。
だがその空間断裂の力は、クロの持つナイフにだけ及んでいない。
(魔導術の保護? いやだけど、まだ退魔の力は辺りに充満している。この中じゃ術を使うことは、絶対に無理だから――)
空回りを始めようとする思考。
そこにストップをかけたのは、クロがホッと安堵するように漏らした吐息だった。
ギリギリと噛み合う聖剣とナイフの均衡が、一瞬で崩れる。
「―――っ、何をした!?」
「何も。いやあこれは駄目かと思いましたが、運がよかったみたいです」
「そんな、戯言を……!」
「別にふざけてるわけじゃないんですけどね」
聖剣にのせられた勢いに逆らわず、大きく飛び退る。
間合いが開け、状況がリセットされる。せっかくの優勢を手放したことになるが、今のヒカルには、脳内で渦巻く混乱を鎮める必要があった。
(ナイフが特別性だった? それとも、クロも私のと似た力を持っている? いずれにしても――)
ひとしきり文句を並べ立てれば、頭の熱がスッと冷めてくれた。
どのようにして防いだのか。その答えは皆目見当もつかないが、今やるべきことは判然としている。
「もう一度、押し込む!」
宣言するように叫んでから、再び能力を行使した。
使用したのは短距離転移。その行き先は、クロの背後すぐ近く。
死角に回ったことを確信し、聖剣を上段に掲げた。
「馬鹿の一つ覚えみたいに――」
(――更にもう一回!)
一度見せた技だ。本気で意表を突けるとは思っていない。
あらかじめ想定していたらしく、すぐに振り向こうとするクロ。今度はその眼前を狙って、再び転移した。
ぐるぐると世界が流転し、今度は黒フードが眼の前に現れる。
「おや。こちらが本命でしたか」
「これなら――」
多少は意表を突けただろうか。
クロの様子を見て判断しようとするものの、すぐに諦めた。もうここまで来たならば、振り切る他ない。
上段からの一撃。
渾身の力を込めた斬撃だったが――難なくナイフで捌かれる。
(これは、マズい)
大きく溜め息を溢したい気持ちになった。
全力の攻撃を難なく捌かれるとなれば、もはやヒカルの中に、クロに通用しそうな手札は残っていない。辛うじて可能性があるとすれば、意表を突いた攻撃くらいだろうが――、
「そろそろ、こちらも本気で行くとしましょうか」
クロの雰囲気が一変する。
先程の交錯でもチラと感じた、本気の殺意。幾分か耐性もついたとはいえ馴染みの薄い感情の奔流に、背筋がゾッと凍りつくことを自覚した。
「………っ」
慌てて気を取り直す。
未来視の景色に意識を割いたところで、胸元に突き刺さるナイフの幻覚を目の当たりにした。
「避けなくていいんですか?」
「くっ!」
身体の各所から響く悲鳴を無視し、思い切り上体を捻る。
すぐ傍を掠めていくナイフの感覚。
それに恐怖する間もなく、未来視の能力が次なる危機を伝えてくれた。
「呆けている暇はありませんよ。もっと気を張り巡らさないと」
視界外から跳ね上がる爪先、クルリと舞踏のように回った後ろ蹴り、その最中に振るわれる尋常でない殺意を伴ったナイフ。
加護により身体能力が引き上げられているからといって、その全てを対処することは不可能だ。未来視の予測、転移による緊急回避、空間断裂の牽制。それらをも併用することで、辛うじて手傷を負うことは避けていく。
だがそれも、いつまでも可能な芸当ではない。
(段々と対処が早くなっている……!?)
未来視に映る光景が段々と深刻なものへ変じていくことに、それを確信した。
ヒカルが数秒先を認識した上での戦略。視線の動きを踏まえた転移への警戒。それらを合わせた上で攻めのスピードが徐々に高速化し、空間断裂を起こす暇すらなくなっていく。
敗北。
その二文字が、色濃く脳裏に焼き出された。
「クククッ、ずいぶんと苦しそうですねえ」
「うるさいっ!」
対処の難しい攻撃を繰り広げながらの、余裕ある言葉。
それに無性に神経を逆撫でされたヒカルは、乱暴に応じた。
だがそんな反応すら愉悦だとでも言うように、クロは言葉を続けていく。
「そろそろ気づいたんじゃないですか? 自分はまだ弱いってことに」
「この……!」
「これまではその程度で十分だったのでしょう。けれど、この先で戦うには不足している」
不思議なほどに、クロの言葉が脳へと染み込んでいく。
何か怪しげな魔導術でも使っているのか。そう疑わざるを得ないほどに、ヒカルの意識はその声に絡め取られていた。胸の奥底から無力感が湧き上がり、身体から急速に熱が奪われているような感覚に襲われる。
「更なる力を求めるのです。ただ敵を屠るだけではない、世の条理をも一蹴するような圧倒的な力を。求めれば、貴方の加護はきっと応える」
「何が言いたい」
「力の渇望、その先でこそ真の勇者は完成する。貴方には是非、それになってほしいのですよ」
「真の勇者……?」
「ええそうです。その力をもって魔王と戦えば、きっと――」
「………っ」
何かに取り憑かれたような雰囲気で、言いかけたクロ――その後方。
音も気配もなく肉薄した影が、手にした得物を振り上げるところが眼に写った。
ヒカルの瞳越しに、クロがそれに感づく。
「――つくづく厄介な人ですね!」
「ちっ!」
踏み込む勢いをそのままに乗せた袈裟斬り。
それを紙一重のところで避けたクロは、数度バックステップを刻み、ヒカルとヤマトの両方から間合いを取った。
「ヤマト!」
「何とか間に合ったようだな……」
影法師との戦いが凄絶だったからだろう。
肩で息をするほどの疲労がヤマトにはある様子だが、ひとまず怪我をしたようには見えない。息さえ整えれば、また戦うことができるだろう。
そんなヤマトの姿に不思議と力強さを感じていることを自覚しながら、ヒカルも聖剣を構え直した。
「奴は手強い。連携するぞ」
「分かった!」
先程から覚えていた無力感は、幾分か鳴りを潜めて、胸の奥へと引っ込んでくれたらしい。
そのことに大きな安心感を抱きながら、ヒカルは気を取り直し、改めてクロへと向き直った。