第388話
「ごめん、ちょっと時間がかかった」
「このくらいは大した問題じゃないよ。まだまだ余裕もあったし」
クロに油断ない視線を送りながら駆け寄ってくる三人。
その先頭にいるヒカルの姿が、久方ぶりに見る全身鎧であったことに、妙な感慨を抱いた。
だがそれを表に出す間もなく、ヒカルたちはヤマトらの元へ辿り着く。
「聖剣。ちゃんと回収できたみたいだね」
「あるかどうかは冷や汗モノだったけど、何とか」
「あったんだから、それでいいじゃん」
ヒカルの手の中にあった剣が、その言葉に応えてか、爛々とした輝きを放った。
聖剣。
勇者ヒカルがこの世界に降臨した際、まず最初に手にした武具。片時も離れず彼女と共にあったその剣は、使い手と共に数多の修羅場を潜り抜けてきた。
そんな代物が再びヒカルの手元へ返ってきたことに、少なくない感動を自覚する。
「――それより」
和やかな空気を一変させて、ノアは鋭い眼差しを作る。
豹変した場の雰囲気に、ヒカルも今が喜び合う時でないことを察したのだろう。兜の内からピリリと痺れるような闘気を放ち、首肯する。
ヤマトとノアに代わり、ヒカルが一歩前へ進み出た。
「クロ。先程ぶりだ」
「これはこれは勇者様、また兜を被ってしまったのですね。私としては、そんなものはない方がいいと思うのですが」
「ふんっ」
クロの言葉を鼻で笑い飛ばし、ヒカルは己の言葉を続ける。
「ここにいる理由を聞かせてもらおうか?」
「さあて、何だと思います」
「……素直に答えるつもりはない、ということか」
「そうではないんですけどね」
あっけらかんと答えてみせたクロだが、その態度に、ヒカルはもはや微塵たりとも動揺を顕わにはしない。
ただ黙したまま聖剣を構え、その刃をクロの胸元へと向ける。
「おや。ひょっとして私を殺すつもりですか? それでは何も聞き出せないでしょうに」
「事情の仔細までは知らなくても、お前が悪性のモノであることは間違いない。ならば、ここで片付けた方がいいだろう?」
「クククッ、ずいぶんと物騒なことを仰る」
戯言の類でないと瞬時に理解させられる、本気の殺意。
その奔流を目の当たりにしてもなお、クロの佇まいから余裕が失せることはない。むしろ、彼の内に秘められた底知れなさが増しているようにすら感じられる。
威迫されたように、ヒカルが僅かにたじろぐ。
「やはりその兜はいけないですね。人という生き物は賢く、浅はかだ。顔が隠れているという一事ゆえに、本心とは真逆のことも平然と口に出せるようになる。――ですがそれはいけない。虚飾は人に必要であっても、勇者には不要なものですから」
「……何が言いたい」
「勇者に偽りは認められない。建前として貼りつけ飾り立てただけの正義など、勇者には相応しくない」
とても要領を得ない物言い。
ただ戸惑いを顔に浮かべる一行だが、ただ一人ヤマトだけは、クロの雰囲気が普段から豹変していることに気づいた。
(こいつは、何を伝えようとしている?)
相手を舐めた雰囲気が失せている。
珍しいどころではない。過去幾度となく対峙したヤマトをしても、ほとんど初めて目の当たりにするクロの姿。これまでは他人を愚弄するようなことばかり口にしていたクロが、今この時だけは、何か重要なことを言おうとしているのではないか。
そんなヤマトの衝撃を置いて、クロは更に言葉を重ねていく。
「勇者は正義を象徴する存在でなければならない。世に住む全ての人が希望を託し、それに応えられる傑物でなければならない。それには、魂の輝きが――余人では及びもつかないほどの高潔な魂が必要だ」
「………」
「そして私が見るに――貴方は、それが不足している」
「不足?」
「勇者として未熟だということですよ。足りない。あまりにも足りていない」
本来ならば憤ってもいいのかもしれない。
だがその言葉を吐かれた張本人は、あまりに豹変したクロの態度を前にして、戸惑いの色を隠せないでいた。
口を噤むヒカルに代わって、ノアが眼尻を鋭くさせながら前へ出る。
「ずいぶんと知ったような口をきくね」
「実際に知っていますから。勇者についても、魔王についても、その戦いについても。だからこそ、今代勇者の不甲斐なさが嘆かわしいのですよ」
「へえ」
ノアの瞳が剣呑な色を帯びる。
そこに含まれた感情に、友人を不当に罵倒されていることへの怒りがあることは間違いない。だがそれ以外にも、クロが漏らした情報を精査する理性が残っているように見えた。
だがそれを口にするよりも先に、クロが動いた。
「できれば、こういった手段は取りたくなかったんですけどねえ」
「何を――」
「構えた方がいいですよ」
不本意であることを執拗に主張するようで、どこか嬉々とした様子でもある。そんな、一見して彼の本心を疑いたくなる雰囲気のままに、クロは懐から一振りのナイフを取り出した。
狂気が滲むような白刃の輝きが、ヤマトらの眼に飛び込む。
戸惑いの声を上げようとしたヒカルの前で、クロがその刃を彼女の胸元へ向け――殺意を剥き出しにする。
これまで一度も眼にすることができなかった、本気の攻勢。
(マズい!!)
それに辛うじて反応できたのは、ヤマトだけだった。
銀閃。
刹那の瞬間にヒカルへ繰り出された斬撃を、既のところで弾き返す。
数拍遅れて、ヒカルたちに理解の色が及んだ。
「な……っ!?」
「ずいぶんな挨拶だね!」
ヤマトが反応できていなければ、凶刃は確実にヒカルの生命を抉っていた。
そのことを理解したからだろう。初め自らを恥じるように顔を俯かせた面々は、だが次の瞬間には、その不甲斐なさを払拭するべく闘志の炎を滾らせる。
もはや開戦を躊躇うような者は誰一人としていない。
「ヤマト、レレイ、二人は前に出て! 後ろは私とノアでサポートするから! ヒカルは力を溜めて、合図に合わせて攻撃!」
「了解!」
「あー、俺は?」
「アナスタシア……、貴方はどっか邪魔にならないところに隠れて!」
「おうよ」
矢継ぎ早に下されるリーシャの指示。
その小気味いい響きの指令に応じて、即座にヤマトとレレイは前へ躍り出る。
黒フードの下でニヤニヤと不快な笑みを浮かべているであろうクロ。彼を睨めつけ、刀の刃を立てる。
(クロ。俺とノアの二人では届かないほどの難敵だが――)
こちらは都合五人。
烏合の衆であれば切り抜けることは容易いだろうが、かつては勇者一行として共に修羅場を潜り抜けてきた戦友たちだ。連携は十全に交わせる。
クロ一人を相手にして、負ける気はしなかった。
だがそんなことは、相対しているクロ当人は百も承知だったのだろう。
「勇者に従う戦士が四人。それぞれが英雄たるに相応しい素質を持つがゆえに、勇者は堕落した。甘えてしまった」
そう嘯きながら、クロは爪先を持ち上げ――トントンと床を小突く。
即座に確信する。
(魔導術か!)
ヤマトは魔力を感知することができない。自然、魔導術に対しては最大限の警戒を払う必要がある。
咄嗟に駆け足を緩めようとするが、その背を後押しするように、リーシャの声が響いた。
「走って! こっちで援護する!」
「―――っ、助かる!」
減速しようとしていたところを反転、更に加速する。
案の定、虚空に形成されていく半透明な槍の数々。だがその穂先がヤマトらを捉えるよりも早く、光の剣が空を奔った。
感心したようにクロが溜め息を漏らす。
「教会の聖騎士に伝わる、聖剣術。“彼”はその使い手として高名でしたが、それに遜色ない精度です」
「お褒めに預かり、どうも!」
無数の疑似聖剣が煌めき、クロの展開した魔導術の槍全てを薙ぎ払っていく。
槍と剣が交わり、光の粒子となって弾け飛ぶ。
その景色に思わず見惚れそうになるが、そんな暇はない。
顔を上げたヤマトの視線の先では、より高速で肉薄したレレイが拳を握り固めていた。
「まずは一発!」
威勢のいい掛け声と共に、拳が振り抜かれる。
華奢な見た目に騙されることなかれ。長き研鑽と竜との邂逅を経て、彼女の膂力は並大抵の人間では及びもつかないほどの破壊力を秘めた。
さながら砲撃のごとし。
想像することすら馬鹿馬鹿しくなるほどの重い音を伴って、拳が閃いた。
「竜の加護を授かりし巫女。身体がまだ人の形を保っていることの方が不思議ですが――」
「ふんッ!」
「困ったものですね。流石に、正面切って対抗はできませんし」
対するクロの応答は、迎撃。
弱音を吐く口振りとは裏腹に、力強く腕を振り抜き、突き込まれたレレイの拳を横から思い切り叩いた。
砲弾がクロの脇に逸れ、空を貫く。
拳の勢いを殺し切ることができずに、レレイの身体が一瞬停止した。
「くっ!?」
「これは、隙ありでしょうか」
勢いのままに、肘鉄が放たれる。
咄嗟に顔を仰け反らしたレレイへ、クロは拳を握り固めた。
(まともに入れば、再起は難しい)
そう楽に窺えるほどの威力が、クロの拳には込められている。
だが、その懸念が現実になることはない。
「おっと! 危ない危ない、欲をかくところでしたよ。貴方の前でそんな姿を晒した代償は、高くつきそうですからね」
「……そのまま当たってくれればよかったのに」
「貴方の銃は特別製でしょう? そんな下手は打てませんよ」
レレイとクロの交錯、その隙間を縫って放たれた銃弾。
普通であれば必殺に等しい一撃を、だがクロは、いとも容易く避けてみせた。まるで未来を予知しているかのような動きに違和感は尽きないが、手を止めるわけにはいかない。
「―――! 」
踏み込む勢いのままに、刀を振り抜く。
刃の命中を確信するよりも先に、クロが不自然な挙動で上体を捻った。
「いやあ怖い怖い。貴方も貴方で怖ろしい人ですよね。ただの人だとは思えない、条理を逸した――」
「シッ!」
「ひええ! 最後まで喋らせてくださいよ!」
回避されることは織り込み済み。
続けて奔らせた斬撃は、だがクロは呆気なく回避してみせた。
(だが、これでいい――)
立て続けに五つの斬撃を放ち、息継ぎを挟む。
その一瞬の間隙を前に、むらりと攻撃の意思を覗かせたクロは、
「――ここで!」
「おや?」
気づいたようだが、もう遅い。
クロの視線の先には、聖剣を大上段に構えたヒカルの姿がある。間合いは十メートルほど。普通であればとても斬撃の届く間合いではないが、ことヒカルに関しては、その法則は当てはまらない。
聖剣から漏れ出る光が、一振りの刃を形作る。
「これはこれは――」
「決めるッ!!」
一閃。
振り下ろした聖剣の刃先から、巨大な光の斬撃が放たれた。その狙いは寸分違わずクロのみへと向いており、威力も計り知れない。
常人ならば、抵抗もできずに飲み込まれるだろう。
玄人であっても、決死の抵抗が意味を成すことはあるまい。
そんな一撃を前にして、クロはどう動く。
(避けられるか? いや、クロならば避けるのだろうな。――だがその先には、俺たちがいる)
きっとクロでなければ、回避という選択肢を取ることはできない。
だが例えヒカルの攻撃を避けてみせたところで、状況が覆ることはない。更にその先を潰す形で、ヤマトたちが得物を構えているからだ。
個々の力では大きく劣っていたとしても、数の優位は絶対的だ。どんなに優れた武勇知略を持っていようとも、たった一人であるがゆえの手数の少なさは如何ともし難い。
(これで詰みだ)
その確信が、一瞬の気の緩みをもたらす。
ヒカルの斬撃と、その周囲を固めるヤマトらの包囲網。それらを前にして、諦めたように手をだらりと下げたクロは――だが次の瞬間には、ナイフを胸元で構えた。
「勇者ヒカルだけであれば、私一人でも足りたのでしょうが。頼りになりすぎる従者というのも、困りものですね」
そこに予想していた諦観の色など、微塵も含まれてはいない。
光の刃が奔り、クロの身体を飲み込む。そう見えた瞬間に、小さな白刃が閃いた。
光が、散らされる。
「な……っ!?」
一瞬、目の前で起こった現実を受け止め損ねた。
ヒカルの全力をもって放たれた一撃。魔王であろうと防御困難であるはずの攻撃を、だがクロは、その小さなナイフをもって相殺してみせた。
(こんなことができる者など、そういるはずが――)
とりとめない思考に揺蕩いかけたところで、ハッと我に返る。
ほんの数秒にも満たない間の空白。
だがそれは、クロにとっては十分以上の隙であったらしい。
魔導術の前兆たる足踏みを、既に数度繰り返している。
「仕方ありません。こちらも、応援を頼むとしましょうか」
「何を――」
問おうとして、その必要がないことに気づいた。
全身を奔る悪寒。
それが、以前にも感じた覚えのあるものだったからだ。
「これはっ」
「魔王の遺骸!? 封印を解いたのか!」
ヤマトと同じく、悪寒に身の覚えがあるレレイが叫んだ。
初代魔王の左脚が解放された余波だろう。瘴気・妖気と呼ぶべき奇妙なモノが地下から立ち昇り、さながら白地の布が穢されるように、地上を汚染していく。
辺りの地面から染み出すように、黒いモヤが姿を現す。それらは徐々に人の形を真似始め――気づけば、無数の影法師が立ち並び、目鼻のない顔をヤマトらへと向けていた。
その数、見渡すだけでも百はいるか。
(数の優位を取られた。これは――!)
見た目ではただのふざけた影法師。
だが彼らの動きに、ヤマトの眼には明確な意思が宿っているように映る。その技量も、低く見積もっても並以上は確実だろう。
これはマズい。正面切ってぶつかれば、どれほどの被害が出るか分からない。
危機感を募らせるヤマトらを嘲笑うように、クロは声を上げる。
「正確には、持ち出しました。封印は既に解いていたのですが、魔力を抑え込む機能が働いていたみたいでしてね。ただそれも、地表まで出してしまえば問題ないことです」
「お前は……!」
「これでひとまず、お膳立ては終わりました」
憤りを顕わにするヤマトを無視し、まるで舞台役者のように、クロは大仰な礼をする。
その視線の先には、周囲で立ち昇る不吉な気配を前にして、無意識に聖剣の光を強めさせているヒカルがいた。
「さあ勇者ヒカル。今こそ試練の時ですよ」
「何を言って、試練?」
「ええ試練です。貴方が真に覚悟を定め、正真正銘の勇者となるために必要な」
戸惑う子供へ根気強く言い聞かせるように、クロは言葉を重ねる。
「突如襲来した竜の暴威により、城は混乱状態にあります。大英雄殿の獅子奮迅の活躍により被害は押し留めているようですが、それは奇跡的な均衡の上に成り立つもの。ここにいる異形が暴れまわったなら、瞬く間に均衡は崩れてしまうでしょうね」
「そんなことはさせない」
「ええその通り。貴方は勇者だ。勇者は万民の正義を体現する者であるがゆえに――戦わなければならない」
ことさらに邪悪さを強調してみせるように、クロはフードを揺らす。その口元に、禍々しい笑みを描いた。
「貴方の眼の前にはちょうど、その主犯がいます。放っておけば、更に被害は増していくでしょうね。他ならぬ貴方が、何とかして止めなくてはならない」
「……お前は、何がやりたい」
「さあて」
おどけるように肩をすくめるクロだが、彼から立ち昇る闘志が陰ることはない。
むしろ肌が粟立つほどの殺気を更に濃密にさせて、ヤマトらへと叩きつけた。
「―――っ!」
「お話が過ぎましたね。そろそろ、始めましょうか」
胸の内にわだかまる気味悪さは、まったく薄れてくれない。自分たちがクロの手の平の上で踊らされてることに釈然としない気持ちは、秒ごとにむしろ増していく。
――だが、ここで戦わない選択肢はありえないのだろう。
ヤマトが意を決して刀を構えるのと同時に、ヒカルたちも得物を構えた。
そんな全員の闘志を前に、クロは歓喜の色を全身で表すように、大袈裟に手を叩く。
「お見事! お見事ですよええ本当に! 自らの不利を悟っていても立ち向かう、それでこそ勇者というものです!」
ヤマトらの闘志に応えて、無数の影法師が一斉に身構えた。
その威圧感に、知らず生唾を飲み込む。
だがクロは、そんなヤマトらの平静を待ってくれはしない。
「それでは始めましょう! 激闘の末。己の未熟を痛感し、力を渇望した先でこそ、貴方は真に勇者となれるのですから! ――それでは、お行きなさい」
血で血を洗う激戦が、幕を開けた。