第384話
“赤”の襲撃による動転が一段落してくると、皇城内は武官文官たちの喧騒で徐々に騒がしくなっていく。
崩れた城内の様子を確かめようと、入念に眼を配りながら各地を歩き回る人々。彼らの視線から逃れるように身を潜めながら、ヤマトとノアは一路、ヒカルたちが囚われているはずの客室の方へと歩を進めていた。
「本当にこっちで合ってるのか?」
「たぶんね。敵対したとはいえ、ヒカルは教会が対魔王同盟の旗頭として担がれていたから。それなりの待遇で軟禁しているはずだよ」
「……それならばいいが」
そう言ってしまってから、思わず自己嫌悪の念に囚われた。
これではノアの言葉を疑っているようではないか。
「済まない」
「別にいいって。僕だって確信があるわけでもないんだから」
「だがな――」
「それより! もし向こうにクロがいたら、頑張らなくちゃいけないのはヤマトの方なんだからね。僕も援護くらいはするけど、前線で切った張ったなんてことは苦手なんだから。そこら辺、よろしく頼むよ?」
茶化すような物言いに、ふっと小さな笑みが漏れた。
「無論だ。任せておけ」
「ならばよし。――と、そろそろ着くんじゃないかな」
地に散乱していた瓦礫を、駆け足を止めないままに飛び越える。
微かにしか原型を留めていない惨状の周囲を見渡して、ノアはそう呟いた。
続けてヤマトも視線を流して、思わず首を傾げる。
「こちらの方はずいぶんと静かなのだな」
「うん? ――ヤマト、ちょっと止まって」
一瞬にして、ノアの顔から気楽な表情が消え失せた。
即座に駆ける足を止め、油断のない眼差しで周囲の様子を窺う。
「やっぱり。ヤマトが気づいてよかった。人除けの結界が貼られているよ」
「人除け?」
「結界内を認識しづらくして、なかなか近寄れないようにする結界。……それでも、ここまで巧妙に仕込まれていたとは思わなかったけど」
問題は、なぜそんな結界が貼られていたのかということだが。
そのことを思案するまでもなく、ヤマトとノアの脳裏には一人の名が思い浮かんでいた。
「クロか」
「だろうね。たまたまだけど、あいつもこっちに来ていたみたい」
にわかに緊張感が増してきた。
腰元の刀を握り締め、高鳴りそうになる心臓の鼓動を徐々に鎮めていく。
「破れるな」
「当然。ヤマトが気づいていなかったら、正直危なかったけどね――」
言いながら、ノアは体内の魔力を高めている――のだろうか。
ヤマトの眼には今一つ理解しがたいモノが、ノアの身体から立ち昇る。それを手に集中させたノアが、空間をなぞるように指先を動かして、
――ガラスが砕け散るような音。
途端に、何者かが争っているような物音が耳に滑り込んできた。
「これは……!」
「もう始まっている!」
互いの眼を見合わせる必要すらない。
ヤマトとノアは揃って駆け出し、音が聞こえる方へと急行する。
(間に合ってくれ――!)
祈るような心地。
普段ならば黙殺する「己を抜き払え」という刀の意思に、抗うことなく従う。ほとんど無意識の内に鞘に刃を滑らせ、怪しく光る刀身を外気に晒した。
積み重なった瓦礫を踏み越え、飛び越え、蹴飛ばす。
そうして幾つかの山を越えたところで――“それ”は見えた。
「はぁ――っ!」
威勢のいい掛け声と共に、レレイが弾丸のように駆け抜ける。
その両脇を支援するように飛来する光の剣は、リーシャが生み出したものだろう。空を滑るように光の剣――術式で生み出した疑似聖剣が翔け、駆けるレレイの前を塞ごうとするモノをことごとく斬り伏せていく。
そんな二人の猛攻を前にして、相対する騎士――悲哀の青鬼の仮面を被った青年は、動じることなく指先を滑らせ、リーシャのものと同様の疑似聖剣を無数に操り迎撃する。
「奴は……!」
「青鬼。ジークって言ったっけ。でもあの人は捕まっていたはずじゃ――」
言いかけて、ノアは首を横に振った。
「脱獄したんだ」
「独力か、クロの助けによるものか。いずれにしても厄介だな」
ヤマトとノアはそう頷き合う。
青鬼ジーク。
かつて極東を訪れたジークは、そこに封印されていた初代魔王の右腕を解放させるべく暗躍し、ヒカルたちと刃を交えた。
結局その折は、土壇場で聖剣術を完成させたリーシャの奮戦もあり、なんとか彼を撃破、捕獲することに成功したのだが――、
(聖騎士仕込みの剣と、奴が編み出した聖剣術。とても楽観視できるものではない)
ましてや、つい先程まで囚われていたために満足に武器もないリーシャたちでは、ジークを押し切ることは難しいだろう。それどころか、彼の猛攻を凌ぐことすら困難なはずだ。
それでも彼女たちが瓦解せずに済んでいるのは、なぜかここで拳を振るっているレレイの存在あってのこと。彼女が天性の勘やずば抜けた身体能力を駆使して立ち回ることで、なんとか戦いの均衡を保っている。
レレイの体力が尽きるまでという制限時間はあるが、まだしばらくの猶予はあると見ていい。
――ゆえに問題は、もう片方の戦いだ。
「いい加減にしつこい……!」
「………」
焦れたような口振りで文句を言いながら、ヒカルが無数の光を虚空に生み出す。
疑似聖剣――否、聖なる矢だろうか。
その大きさこそ、リーシャやジークが生成する疑似聖剣には遠く及ばない。だが一方で、その矢から放たれる退魔の光は、紛れもなく本物のそれであり、二人の術式など比べ物にならないほどの輝きを放っていた。
魔物であれば、掠った程度でもひとたまりもあるまい。人間であっても、体内の魔力をごっそりと奪われる感覚を前に、膝を屈するはず。
(凄まじい力だ)
ヤマトも、そう感心せざるを得ない。
形のない術式の矢であるために、尋常な手段で撃ち落とすことは叶わない。威力も数も十分以上。更に驚くべきは、ヒカルは聖剣も聖鎧も身にまとっていないというところか。初代勇者の武具による補佐を一切受けず、ただ自身に宿る力のみで、それだけのことを為している。
「流石は勇者」の一言にも尽くし難い、圧倒的な力。
だが、それに抗ってみせる者が一人。
「ふ――っ」
微かな息遣いと共に、痩せぎすの武者――憤怒の赤鬼の仮面を被った男が、手元の刀を奔らせる。
一見して何の変哲もない刃は、だが襲い来る光の矢一つ一つを斬り伏せ、そこに凝縮させていた退魔の光を霧散させていく。解放された聖なる力が男の肌を撫でていくが、それで彼の動きが淀むことはない。
ほんの瞬きをするほどの間に、ヒカルが生成した弾幕の全てが、赤鬼の手によって斬り捨てられていた。
「あれは……」
「刀。結構な業物ではあるけど、それ以外に特徴らしい特徴もないね」
ノアの分析に頷く。
市に出せば相応の値がつくだろう業物。だが逆に言えば、市に出しても問題がない程度の刀でしかない。ヤマトが手に持っている刀は、いわば宝刀というべき代物であり、売りに出すことすら難しいだろう。
つまり、ヒカルの攻撃を斬り捨てた技は、全て赤鬼本人の技によるものということだ。
(あれほどの技を使えるならば、国でも名が知れていたはず。神皇の近衛出身か――)
考えかけて、首を振る。
あれこれ思いを巡らせてみたところで、彼の正体が判明するわけでもない。どうしても確かめたいのならば、直接相対し、その力を正面から破った上で問い質す他ないだろう。
よって問題は――こうして赤鬼を冷静に分析する裏で、ヤマトの胸中を渦巻いているドス黒い感情の方だ。
(闘志、殺意――そんな生易しいものではない)
それは、絶対拒絶の意思とでも言うべきだろうか。
何があっても奴の存在を認めてはならない。赤鬼が眼の前に立っていることが、ともすれば己の存在を揺るがしかねないほどに、認め難い。
理性を総動員して身体を制止していなければ、ヤマトの身体は道理一切を無視して飛び出し、赤鬼へと斬りかかっていたことだろう。
――そしてそれは、相手の方も同様だったらしい。
「……小休止だ」
「なに?」
ポツリと呟いた赤鬼は、ゆらりと正眼に構えていた刀を下ろす。
そうしてヒカルから外した視線を、今度はヤマトの方へと向けた。
「―――っ」
「いつまでそこで見ているつもりだ」
ドクリと心臓が脈打つ。
一際強く流れ出た血が、やたらと熱く感じられた。知らず漏らした息も炎のごとき熱さを放ち、頭が茹だったように視界もボゥっと歪む。
それでも、意識と闘志だけは、僅かにも輪郭をボヤけさせることなくはっきりと感じられた。
「ヤマト?」
「……あぁ、行こう」
ヒカルと赤鬼だけでなく、リーシャたちも一度戦う手を止めたらしい。
そのことをどこか遠い出来事のように捉えながら、ヤマトは積み重なった瓦礫を踏み越え、姿を晒した。
「ヤマト、それにノアも……!」
「……本当に、いたんだ」
ヒカルたちの反応に、少し首を傾げたいところはあったが――それどころではない。
視線に実体があるならば、それだけで射殺してしまいそうな。それほどの鋭さを伴った眼差しで、赤鬼を睨み続ける。
そしてそれは、赤鬼の方も同様だ。
「お前は……」
「さてな。だが言わずとも分かっているのだろう? 俺とお前は、決して相容れないと」
「―――」
滾るヤマトの闘志と殺意の応えて、刀から放たれる殺伐とした意思もまた膨らみ続ける。
それを堪えることで精一杯。下手に口を動かせば、そのまま感情に流されて罵詈雑言が飛び出していきそうだった。
そんなヤマトのことを、知ってか知らずか。
嘲るような吐息を仮面の内で漏らした赤鬼は、手にしていた刀を鞘に収めた。
「青。退くぞ」
「……それはまあ、そうした方が賢いんだろうけど。珍しいね?」
「何がだ」
「赤の方から、撤退の提案なんてすることがさ」
揶揄するように言いながら、青鬼ジークもまた、手にしていた剣を腰元の鞘に収めた。
それに対する赤鬼の返答は、ただ鼻を鳴らすだけというもの。
「あら冷たい」
「くだらないことを言っているからだ。それとも不満か?」
「いや別に。確かに作戦通りのことはできたからね。これ以上の無理をする必要もない」
ジークが指を軽く鳴らすのと同時に、彼の周囲をたゆたっていた疑似聖剣の光も失せた。
完全に武装を解除したらしい。
そのことに戸惑いを覚える間もなく、泡を食ったようにリーシャが飛び出した。
「――兄さん!」
「やあリーシャ。さっきは返事できなくて悪かったね」
「そんな……! だけどどうして――」
「契約だから。それ以外の理由なんて、僕にはないよ」
リーシャを突き放すような物言い。
だが赤鬼はそれを聞き咎め、怪訝そうにジークへと顔を向けた。
「話しすぎではないか」
「そう? まあ守秘義務は守ってるんだし、このくらいは見逃してよ」
「………」
二人のやり取りに、リーシャの顔が不可解そうな色を帯びる。
だがそれに答えを返すことなく、ジークと赤鬼は揃って大きく飛び退った。
「逃がすとでも――」
「残念だけど、まだやることが残ってるからね。捕まるわけにはいかないんだ」
咄嗟にヒカルが放った光の波。
それにジークは即席の疑似聖剣を叩き込み、続いて赤鬼が刀で斬り抜いた。
「く……っ」
「それではこれにて。そう遠くない内に、また会う気もするけど――」
「おい」
「冗談だって」
漫談のような気安い会話を交わしながら、ジークと赤鬼は瓦礫を飛び越え、更にその先へと駆け去っていく。
申し訳程度に後を追い、その後の気配を探ってみるが――、
(速い。追うのは難しいか)
そう判断する。
彼らの――赤鬼の気配が徐々に遠ざかり、やがて少しも感じられないほどの距離にまでなって。ようやく、ヤマトの頭を縛っていた熱が失せ始め、冷静な思考が戻ってくる。
身体に残る倦怠感のままに、溜め息を漏らした。
「ずいぶんあっさりと退いていったね。結局、目的は何だったのか……」
「さてな。だがひとまずは――」
振り返る。
そこにいるのは、ヒカル、リーシャ、レレイの三人。先の戦闘による疲労こそ滲ませるものの、怪我をしている様子はない。
安堵感が胸に広がった。
「なんとか合流できたな」
「……ヤマト、ノア。また会えたね」
「ああ」
エスト高原の決戦前に会った時から数えれば、それほど間は空けていないのかもしれない。だがヤマトたちの感覚としては、ずいぶんと長らく会っていなかったように思える。
懐かしさと喜びとで、胸が膨らんだ。
「久しぶりだな、ヒカルにリーシャも」
「元気――とまではいかなかったかもしれないけど。こうしてまた一緒になれてよかったよ」
言いながら、ヒカルたちと握手を交わし合う。
ずっと欠けていたパズルのピースが、ようやく嵌まったような。そんな得難い感覚に、ヤマトは頬が緩むのを堪えることができなかった。