第383話
大いなる蒼穹を背に、双翼を悠々とはためかせて滞空する紅の竜。その威容は凄まじく、他に比類する者無しと容易く断言できるほどであった。
それに対するは、元は帝国の皇城であった瓦礫の山を踏みしめる一人の英傑。人という頼りなき身という道理を飛び越え、見れば不思議と希望を抱いてしまう――そんな不思議な力強さが、彼からは放たれていた。
至高の一柱たる“赤”の竜と、帝国の大英雄たるラインハルト。
二者の戦いは、その圧倒的な種族差体格差とは裏腹に、互角のまま白熱していた。
「こりゃ壮観だなぁ」
荒れ狂う大気の奔流に髪を乱しながら、呆けたようにアナスタシアは呟いた。
広い天空を我が物顔で飛翔し、その巨体からは想像もできないほど俊敏な動きで攻勢に出る“赤”。一方のラインハルトは幅広の剣を手に、その影を睥睨し、交錯する刹那の内に数多の斬撃を放つ。
再び、“赤”の血飛沫が噴き出した。
『クソッ! 貴様本当に人間か!?』
「見れば分かるだろう」
『分からないから言っているのであろうが!!』
悪態混じりに“赤”の強靭な尾が薙ぎ払われるが、その先端が身に達するよりも早く、ラインハルトは光速の一撃を繰り出す。
閃光。
更にドス黒い血飛沫が噴き出し、“赤”の双眸が苦悶で歪められた。
『非常識な男だ!!』
「この国を守るために必要なことだ」
『吐かせッ!』
先に見立てた通り、戦況は互角。
だが局所的な剣戟の結果だけを取り出したならば、その勝敗はラインハルトの方へ大きく傾いている。そう言わざるを得ないだろう。
“赤”がそれでも互角の戦いに持ち込めているのは、彼が竜種ゆえの無尽蔵な体力魔力を有していることと、その大翼で空を翔けているからに他ならない。極論、“赤”は高空をたゆたうのみに留めたならば、ラインハルトの一撃を喰らう道理はないのだから。
(まるで大人と子供のやり取りだな)
アナスタシアをして思わずそう感じてしまうほどに、二者の実力は隔たっていた。
無論、“赤”の竜の力が劣っているということはありえない。仮にも帝国の本拠地である皇城を半壊させただけあって、その身に秘めた破壊力は規格外の一言であり、世界最高峰の名も相応しいと納得できるほどのものだった。
ゆえにこの場で異常な者は、ラインハルトだ。
(ラインハルト。帝国の大英雄にして、生ける伝説。初代皇帝の建国に際しても武功を挙げたとかいう話は、お伽噺だとばかり考えていたが……)
スッと眼を細める。
ヤマトやノアのような尋常な者の常識からすれば、そうした不老不死は伝説の類であっただろう。だが生憎と、アナスタシアはその手の話には造詣が深かった。荒唐無稽の一言で切り捨てたりしない程度には、禁忌の知識を持ち合わせているのだ。
その観点から、ラインハルトの不死性不老性について考察を進める。
(身体に不調が出てる、なんてことはないな。ならスペアボディって線はなしか)
記憶や意識、およそ魂と呼ばれるモノを継承させようとすれば、相応に複雑な機構を搭載したスペアボディが必要になる。
それを使っているようでは、“赤”と対等以上の戦いを繰り広げるような無茶を効かせることはできまい。
(人間の不死化技術を開発した、なんてわけもねぇ。もしそんなことができるなら、真っ先に皇帝を不死化させるはずだ)
次々に浮かぶ推論を、一つ一つ潰していく。
そうして残った可能性が、アナスタシアの頭の中に一つ残る。
「加護、だな」
加護。
人の眼では見えないものの、世界中にあまねく存在すると伝えられる精霊。その中でも特に強い力をもつ個体が、気まぐれに人へ加護を授けることがあるという。
(人に不死を授けるなんざ、それこそ精霊王の類でもなけりゃ無理だろうが――)
再び思案の海に沈みかけたところで、取り止めた。
「考えても仕方ねえな」
今するべきことは、他にある。
相変わらず激戦を繰り広げている“赤”とラインハルトから視線を外し、その場にいる残りの人間――瓦礫の間でうずくまるセバスと、彼を案じているフランへと眼を向けた。
「怪我の調子はどうだよ」
「問題はありません、と言いたいところでしたが……」
「ま、そりゃそうだろうな」
天井の崩落から、フランの身を守ったからだろう。
強がりを口にするセバスだが、その執事服には無数の裂け目ができてしまっている。そしてその内側からは、出血が絶えない状態だ。
(単なる裂傷だけでも相当数。内側の打撲も含めれば、十分重傷に至っている。動くことはできそうにないな)
普通の人間であれば、意識を失っていても当然なレベルの傷だ。
既に年老いたセバスが、今こうして会話できていることの方が驚嘆に値する。これも、彼が老体ながらに身体を鍛え上げていたことの賜物であろう。
(お姫様の方も、爺さんの看病に手を取られている。ここから動けるのは俺一人ってことか)
思わず、溜め息を漏らしたくなる。
「薄情な奴らだぜ。俺を置いていくたぁな」
ヤマトとノア。
彼ら二人がいたならば、ここでアナスタシアが取れる行動に大きく幅が出たことだろう。混乱に乗じて勇者を解放するもよし、魔王を秘密裏に脱出させるもよし。可能であれば、帝国が頑なに秘匿している技術を暴きに行ってもよかった。
だがそれらは全て、アナスタシアが一人でこなすにはあまりに難しい。
技術の粋を結集させて完成させた肉体とはいえ、そのベースはあくまで十代半ばの少女のものだ。この身体で発揮できる力にも、限度がある。
(ひとまず、今できることといえば――)
ポケットの中に手を滑り込ませる。
中から取り出したのは、小型の通信機。イヤホンタイプのスピーカーを耳に装着し、本体に内蔵されたマイクを口元へ近づけた。
「あー、あー……。聞こえるか? 聞こえたら返事をしろ」
『む? アナスタシアか?』
「そうだよ。薄情にもお前らが置いていったアナスタシアちゃんだよ」
『いや、その……済まない』
「帰ったら覚えてろよ」
スピーカーからヤマトの声が聞こえてくる。
ひとまず連絡が取れたことに内心安堵しながら、続けて本題に話を移した。
「で? お前らは今何やってんのよ」
『……皇帝と話をした。そこで得た情報を基に行動に移ろうとしていたことだ』
「へぇ。手が速いな」
本心からの感嘆を口にする。
その響きにヤマトが気がついたのか、怪訝そうな声がスピーカーから漏れ出た。
それを黙殺しつつ、更に問うた。
「んで、情報ってのは?」
『ここにクロがいるのは事実。恐らく、奴はこの混乱に乗じて……何かを画策している』
「ふぅん。クロが、何かをねぇ」
恐らくヤマトは、彼の目的が何であるのかに見当をつけている。
それを正直に話さない理由は、まだ確信が持てていないからか、それともアナスタシアを信頼していないからか――、
(まあ後者だろうな)
あっさりと断ずる。
彼の信頼を勝ち得るような真似をした覚えがないのだから、それが自然だ。むしろ馬鹿正直に全てを話された方が、何か裏があるのではないかと勘繰ったことだろう。
様々な推論を頭で並べ立てる一方で、アナスタシアの口はヤマトとの会話を続けていく。
「じゃあ、お前らはそれを止めに行くってところか?」
『……まあ、そんなところだ』
「……お前、相変わらず腹芸が下手すぎるだろ」
仮にも協力者であるヤマトの有り様に、眼を覆いたくなった。
これでは、ヤマトたちの目的が別のところ――たとえば勇者との合流などにあると、言外に白状しているようなものではないか。
そのことを小一時間問い詰めたい気持ちに駆られながら、話を進める。
「そんじゃあ、こっちに戻る暇はないってことだな」
『あぁ』
「となると、合流は騒動が一段落した後か。ホテルにするか、いっそ郊外にしちまうか……」
言いかけたところで、こちらを怪訝そうに窺うフランたちの視線に気がついた。
「後のことは追って連絡する。変に着替えたりすんなよ」
『……やはり服に着けていたのか』
「まあな」
とやかく煩いことを言われる前に、さっさと通信を遮断する。
通信機を口元から遠ざけたことで、会話が終わったことを察したのだろう。遠慮がちに見上げながら、アナスタシアを窺っていたフランが口を開いた。
「どなたとお話をされていたのですか」
「あん? まあヤマトたちとな」
そう端的に答えてから、フランが本当に問いたいことに思いが至る。
「あー……、ノアも向こうにいるみたいだ。皇帝と話をしてきたみたいだな」
「………お父様とノアが……」
「ここに俺たちが来た理由は、もう聞いていたよな? そのことについて話してたんじゃないか」
付け加えたものの、その言葉は果たして届いたのだろうか。
何事かを考え込むように顔を伏せさせたフランは、次の瞬間、毅然とした光を眼に宿して面を上げた。
「セバス」
「はっ、フラン様」
「しばらくここを離れようと思います。貴方をここに置いていくことになってしまうのですが――」
「御心のままに」
「そう。ありがとう」
言い残し、フランは颯爽と立ち上がる。
束の間だけ、その背から眩い光が放たれているような錯覚を覚えた。
(何だ? 雰囲気が変わったような……)
胸の内に妙な暗雲が立ち込め始める。
だがその正体を明らかにするよりも早く、フランはアナスタシアの眼を覗き込んできた。
「私はお父様のもとへ向かいます。貴方はどうしますか」
「……さてな。俺一人で歩き回っていい状況じゃあなさそうだ。適当に抜け出すんじゃねぇかな」
「そう。ならば、早い内に出ることをお勧めします」
反論一切を許さない口振り。
思わず首肯してしまってから、フランから放たれていた気迫――一種の覇気と呼ぶべきものに、自分が圧倒されていたことに気がついた。
すぐにその場を後にしようとしたフランの背を、咄嗟に呼び止める。
「何をするつもりだ?」
「ただ、お父様とお話させていただくだけです。それ以外には何も」
「……そうかよ」
「では私はこれにて、失礼します」
アナスタシアの眼をもってしても、その言葉の真意を見破ることはできない。
それに何と言い募ってみせたところで、今のフランがそれで翻意するようには思えない。流石は皇族というべきか。それほどの覇気を、彼女が身にまとっているからだ。
颯爽と立ち去っていくフランの背を、アナスタシアは呆けたように見送ることしかできなかった。