第38話
ときはさかのぼる。
太陽は直上にて強い光を降り注ぎ、地面を熱く照りつけている。時折吹き抜けていく風すらも、かつての涼しさはどこへやら、すっかり熱風となって身を熱くさせる。
いよいよ夏らしい暑さにうんざりとしながら、それ以上に凄まじい熱気を放つ市場の中を、ヒカルは歩いていた。
「まったく。ここの者は勇者様の使命を何だと思っているのでしょうか」
「そうかっかするな。こうなることも予想していた」
「とは言え、ですなぁ……!!」
そんな夏の熱気に負けずの熱気に放ち、肩を怒らせた神官がヒカルの隣にいた。橙色の神官服を身にまとった、太陽教会から派遣された神官だ。
大して盛況ではないにしても、ここアルスにも太陽教会の支部は存在する。普段はそこに駐在している神官らしく、日頃の閑散さとは別世界のような、勇者ヒカルの案内役というお役目に熱意をたぎらせていた。そんな彼だからこそ、先程のことは腹に据えかねたのだろう。
胸中で溜め息を漏らしながら、ヒカルは先程のこと――評議会での出来事を思い返す。
「だが、まさか試着すら許されないとはな」
「魔王の脅威を、彼らは欠片も理解できていないのです。日頃から金ばかりを握り、神への祈りを忘れた罪でしょうか……」
(それは関係ないんじゃないかな……)
太陽教会に勤める者たちは、多くは品行方正で清廉潔白な人物ばかりだ。ヒカルが元いた世界の常識から見ても、彼らの多くは善人と言えるだろう。その反面、時折垣間見える神への異常な忠誠心については、正直恐ろしくも思える。
金銭を握りすぎたあまり、欲望で目が濁ってしまったとかならば、まだ分かるものだが。
「本部の方にも協力いただいて、なんとしても奴らは従わせるつもりですが……」
「時間はかかりそうか」
「申し訳ありません。勇者様の手を煩わせるとは、何たる不覚か」
そう言ってうなだれる神官を、若干の面倒臭さと共に、手で制止する。
できるだけ早くに勇者としての使命を終わらせて、元の世界へ帰りたい。そんな願いが尽きたわけでもないが、最近はこちらの世界にも気の許せる友人ができたのだ。以前ほど急いているわけではない。
「確実に穏便に。無益な争いは何も生まない」
「は、ははぁっ! 勇者様のお言葉通りに!!」
まるで神の化身を前にしたように、神官は大仰に礼をする。
初めて見たときには面食らったものだが、いい加減慣れてきた。鬱陶しくはあるが、グランダークにいた生臭神官に比べれば、まだまだ可愛らしいものだ。
「……しかし、これからどうするか」
「勇者様の偉業もまだ始まったばかり。奴らが作った場所と思うと業腹でありますが、ここで英気を養ってはいかがでしょう」
確かに、ここアルスという街はリゾート地として知られる場所だと聞く。
二人の友人――ヤマトとノアを誘ってあちこちを巡ってみるのも悪くない。二人共情報通だから、ヒカルが一人でいるよりも様々な場所を訪れることができるだろう。
そんな光景を空想し、兜の中で密かに頬を緩ませていたところで、
「なんだ、この臭いは」
「か、嗅いだことがないので私にも何やら。ただ、これは尋常ではありまえんな……!?」
何とも形容しがたい臭いだ。その正体を例えようとする前に、脳が臭いで麻痺していく。兜の中でじんわりと目に涙が滲む。
思わず兜の前方を手で払いながら、ヒカルは臭いの発生源を探す。
「あれ、でしょうか」
外聞を気にした様子もなく鼻をつまんだ神官が、一つの屋台を指差した。
果物屋らしい。店番は少女が一人だけ。ヒカルが見たことのない果物が様々に並んでいるが、その中でも一つだけ、妙に刺々しい表皮の果物が存在感を発揮していた。より具体的に言えば、異臭を放っていた。
「――あれ、あなたは……」
店番をしていた少女がヒカルたちに気がついたらしい。
燃えるような赤い髪に、人懐っこそうな顔。臭いで麻痺する意識の中でそれを認めて、ヒカルはそれが知人であることを確認した。
「確か、ララと言ったか」
「は、はいっ! あなたは勇者様、ですよね?」
明るく快活な笑みを浮かべていた顔を緊張の色に染めて、少女ララはそう言った。
昨日ヤマトとノアと再開した折に、彼らと共にいた少女。どうやら冒険者仲間ではないらしいことは分かったが、それ以外は不明であった。結局、大した話をすることもなく昨日は解散してしまったが。
「昨日は邪魔をして済まなかったな」
「いえいえ! 私は何の問題もありませんでしたとも!」
「そうか。それはそれとして、だな」
言いながら、ヒカルはゴツゴツとした果物を指差す。
「これは何だ」
「これは、ダリアの実と言います! 試食されていきますか?」
「い、いや、遠慮しておこう」
味に興味がないと言えば嘘になるが、あまりに食欲を削る臭いに圧されて、首が即座に横に振られた。
神官はいつの間にかヒカルたちから距離を取り、後ろの方でにこやかな笑みを浮かべたまま固まってしまっていた。勇者への忠誠心はどこへやら、関わりたくないという意思がありありと感じ取れる。
そんなヒカルと神官の反応に、少女は苦笑いを浮かべる。
「やっぱり駄目ですか。慣れると美味しいんですけどね……」
「すると、君の周りの人間はこれを好むのか」
「……私と、お母さんは」
駄目じゃないか、そんなものを商品に置くだなんて。
そんな思いを目に浮かべて、ヒカルと神官は思わず目を見合わせてしまう。
「で、でもですね! 昨日のお客さんはかなり気に入ってくれたみたいですよ!」
「ほぅ? それはどちらの方だ」
「こう、細い剣を持った人です」
ヤマトがこの果物――ダリアの実を気に入ったらしい。
確かにどこか変わり者という風情ではあったが。まさか、こんな臭いのするものを口にできるとは。
「二人と知り合ったきっかけは、これか」
「はい。あとは成り行きで、街を案内することになりまして」
相変わらず、少女の顔から強張りが抜けない。
こうした肩肘張ったような対応にも慣れたとは言え、同年代の少女にこうされるのは、少々心に来るものがある。
ヒカルは後ろで固まっていた神官の方へ振り返る。
「私は彼女と少し話をしてから戻る。先に戻ってくれて構わないぞ」
「……了解しました。では勇者様、どうかお気をつけて」
ララと一対一で話したいというヒカルの思いを察したらしく、神官は少し考える素振りをしてから、その場を後にする。
その背中を見送ってから、ヒカルはララに向き直る。
「さて。できれば、あまり力を入れないでもらいたいのだが」
「そ、そうですか?」
「あぁ。まずは敬語をなくしてほしいところだな」
ひどく困った表情を浮かべるララに、ヒカルは思わず笑みを零す。
ヤマトとノアの二人と知り合ったからだろうか。ときに、勇者ヒカルとして演じる人格ではなく、素のままのヒカルとして人と話したくなる。
「ヤマトがこれを食べたのだったな。どんな様子だった」
「そうで――そうだね……。最初の一口は、今にも吐き出しそうな感じだったかな。顔が真っ青になって、汗もぼたぼた流して。でも、すぐに二口目を食べて、後はもう一気に」
「一口目が鬼門か」
「私も一口目は、ひどい味だって思ったからね。食べさせたお母さんを恨んだくらい」
それでも、今ではダリアの実を店先に並べて平然としていられるほどには、臭いにも慣れたということか。
むくむくと湧き起こる好奇心のままに、ヒカルは指でダリアの実を示す。
「一つ、試食してみようか」
「おっ! お客さん度胸があるねぇ」
嬉しそうに笑って、ララは屋台の陰から大きな包丁を取り出す。
まるで武人のように包丁を振るって実をかち割り、中身を手早くくり抜いた。
「ささ、どうぞ」
「これは……」
まさか、中身の方が臭いが強烈だとは。
臭いを避けて、辺りの人混みが薄くなる。そんな光景も既に慣れたものなのか、ララは表情一つ変えず、期待の眼差しでヒカルを見つめている。
「……いただきます」
木匙を持つ手が震える。
兜の面頬を外して、口にダリアの実を運ぶ。鼻呼吸を止めて、臭いは極力排除する。
「―――」
滑らかな口当たり。思いの外食感は悪くない。味の方はよく分からないが、食べられないことはなさそうだ。
そう油断したのが、運の尽きか。鼻呼吸を再開した途端に、脳へ強烈な臭いが滑り込んできた。
「………ッ!?」
目から涙が止まらない。
咄嗟に吐き出そうとしても、果物のほとんどは既に口の奥へ滑り込んでしまった。胃の中から悪臭が漂ってくるような感覚がある。
「ほら、お水」
「た、助かる」
差し出された水を確かめることなく、一気に煽る。
何かのジュースだったのかもしれない。ほのかな甘味が感じられる水が、口内にこびりつく臭いを押し流してくれる。依然として喉の奥から臭いが漏れてる気はするが、必死に黙殺する。
「……ごちそうさまでした」
「どうだった?」
笑いを堪えるような目のララを、恨めしげに見上げる。
「もう二度と食べない」
そんなヒカルの言葉に、耐えきれなかったらしいララが吹き出す。
「ははっ、まあ普通の人はそうだよね」
「ヤマトは本当にこれが気に入ったのか……?」
「驚くことにね。うちの連中だって、普段はいかついくせに、これだけは駄目だって逃げるんだよ?」
「信じられん」
口直しとしてララが新たに差し出した果実を、臭いを入念を確かめてから口に運ぶ。柑橘のようなものらしく、爽やかな香りと、酸味と甘味が混じった果汁が口の中を満たす。
「お連れの恋人さんも、凄い顔で見てたよ。本当にこれ食べるのかー!? みたいな感じで」
恋人さん。ノアのことだろう。
そのまま放置してもよかったのだが、むくむくと悪戯心が湧き起こる。ダリアの実を食べてしまったことへの、八つ当たりのような感情だったのかもしれないが。
「男だぞ」
「何が?」
「刀を持ったヤマトと一緒にいた方。あんな顔をしているが、男らしいぞ」
嘘でしょ? という表情のララに、ただ無言で頷き返す。
ララは必死にノアの顔を思い出そうとしているが、幾ら思い出したところで――否、むしろ思い出すほどに、ノアは女性にしか思えない。
「……理不尽でしょ」
それが何への怨嗟なのかは分からないが。
なぜだか、ヒカルも無性に頷きたくなる衝動に駆られるのだった。