第379話
“是”。
皇帝がその言葉を呟いた、瞬間のことだった。
『――下郎がァッッッ!!』
“赤”の竜が咆哮し、そのままに鋭い牙を剥く。
相手が人間であることなど微塵も考えていないだろう、容赦のない殺気の奔流。その余波を脇で浴びているだけだというのに、ヤマトの膝は勝手に震え始める。
この恐怖を誤魔化すだけの余裕など、あるはずもない。
(まずい……!)
胸の内で焦燥感が募る。
このまま“赤”が怒りに任せて暴威を振り撒いたならば、辺り一帯は無事では済まないだろう。皇城の全壊までは確実――皇都全体が半壊しても、おかしくないだけの脅威だ。
振り返り、顔を青ざめさせていたノアを捉える。
「ノア、今すぐここから――」
「離れるぞ」。
その言葉を放つ寸前に、“赤”の前へ進み出る人影が一人あった。
「陛下、殿下。お下がりください」
ラインハルト。
今回の面会に際して、皇帝の護衛としてただ一人だけ連れられていた武官だ。
単独で皇帝の御身を守り抜くという大役を担えるだけあり、その身体から感じられる力は途方もないものであったが――、
(それでも、所詮は人だ)
到底、“赤”と渡り合えるとは思えない。
彼が役者不足だと言っているわけではない。そも“赤”は他の一切を隔絶する力の持ち主であり、ゆえに彼と渡り合えるとすれば、それは同じく至高の一柱に数えられる竜種のみ。ラインハルトがどれほど卓越した武を修めていようとも、彼が人という種である以上、“赤”と比肩できるはずがない。
どう見ても、無謀だ。
――だというのに。
(なぜ奴らは、ああも平然としていられる?)
ヤマトの眼に映るのは、“赤”を前にして恐怖一切を覚えていないらしい皇帝の笑みと、それを背に立つラインハルトの無愛想な真顔。
これが常人であったならば、圧倒的な暴威を前にして理性本能の両方が弾け飛び、もはや笑うしかなくなったのだと憐憫するところだろう。だが彼らは、その身体に帝国を背負うだけの人材だ。
(何か勝算があるのか?)
そうヤマトが考えるのと、時を同じくして。
ラインハルトと相対していた“赤”の竜もまた、一旦激昂を腹の内に収め、警戒した瞳で二人の人間を睨めつけた。
『……なるほど。人にしてはよく鍛えているようだが、所詮はその程度。よもや貴様程度の力で、我に比すると思っているのではあるまないな?』
「さてな」
『舐められたものよ』
周囲の温度が、グンと上昇する。
“赤”の顎から漏れ出る火の粉がにわかに勢いを増し、空気を灼いているのだ。
十分に距離を開けて立っているというのに、ヤマトの額からは汗が止まらない。
(来るか)
もはや蚊帳の外に置かれた身ではあるが、そうであるがゆえに、巻き添えを喰らって死ぬなどという結末は耐えられない。
活路を見出さんと身構えたヤマトの視線の先で、ラインハルトがそっと腰を落とした。
「陛下。ここは某に任せて、陛下は安全な場所までお下がりください」
「そうしよう。想定外の事態だ、政務も増すだろうからな」
『……行かせると思うか』
注視してみたところで、捉えられるものではなかった。
くるりと踵を返した皇帝の背めがけて、怒りに眼を濁らせた“赤”は、その口から巨大な火球を吐く。刹那の内に空間を灼いた火球は、その勢いのまま、皇帝の背へと迫り――、
「シ――ッ!」
一閃。
いつの間に抜いていたのか。反りのない直剣を手にしたラインハルトは、ヤマトがその輝きを眼に捉えた瞬間には、剣を振り抜いていた。
一瞬遅れて、銀色の閃光が奔る。
閃光は火球の中心を穿ち、そのまま爆発すら起こさせずに消失させた。
『……ほう』
「大層な自信の割に、温い攻撃を撃つのだな」
獰猛に眼を細める“赤”。
それに対して、ラインハルトは一貫した無表情のまま、淡々と毒を吐く。
にわかに二者の間の緊張感が増していく。だが一番たまったものではないのは、脇から静観していたヤマトの方だった。
(――何だ今のは!?)
驚愕のあまり、声を出すことすら忘れて眼を見開く。
“赤”が放った火球のバカげた威力は、もはや特筆する必要もないだろう。当たれば骨も残さず灼き尽くされるだろう高温の塊は、この世のほとんどの者では防ぐことは能わない。
ゆえに、それを眼の前で防いで――斬り捨ててみせたラインハルトの異質さこそが、ヤマトの眼に焼きついた。
(剣に細工が――いや違う、ただの鉄剣だ。ならばあれは、ただ剣技によるものだということか!?)
ただ技一つを見ただけで、己に不足しているものが次々に浮かび上がってくる。
たとえば、現象を深層まで見抜いてみせる眼力。“赤”が放った火球を前にして、その核がどこにあるかなどを探ることはできなかった。
たとえば、危機を前に動じないだけの胆力。一手間違えれば、己の最善を尽くせなければ、容易く命が吹き飛ぶほどの逆境。そこにあって十全の力を発揮することは、できそうにない。
たとえば、炎の塊を斬り裂く技術。熱に刃が侵されぬほど高速の斬撃が放てたところで、今のヤマトに、無形の炎を斬ることはできない。
(足りない。今の俺では、あの戦いを見ることすら叶わない――!)
ドクンと胸が高鳴った。
己の不甲斐なさを悔やむ心はある。力になれない弱さを嘆く心もある。
だがそれ以上に、遥かな高みをすぐ近くにまみえた高揚が、ヤマトの胸を支配していた。
その興奮を他所に、“赤”とラインハルトの闘志は段々と高まっていく。
『生意気な人間だ。すぐに減らず口を叩けぬようにしてくれる』
「やってみろ」
『吐かせッ!!』
怒号と共に“赤”の尾が薙ぎ払われ、かと思えばラインハルトの身体が跳ね回り尾を回避する。
そこから先は、到底ヤマトと同じ人間が繰り広げている戦いとは思えないほどに、馬鹿げた様相を呈していた。
巨躯ゆえに“赤”の動きは緩慢に見えるが、そんなことはない。ただの人では眼に捉えることすらできない高速かつ強力な一撃を、息を吐くような気楽さをもって、立て続けに放つ。流石は至高と言わざるを得ないだけの暴威に、否応なく戦慄がヤマトの背を駆け抜ける。
――だが、真に常道を逸しているのは、ラインハルトの方であろう。
『ちょこまかとッ!!』
「狙いが悪い」
ヤマトが時折するような、本能任せの我武者羅な回避などではない。
眼にも留まらぬ速さで繰り出される“赤”の連撃。その一つ一つを見切り、針に糸を通すような緻密さをもって、致命の攻撃をいなし続ける――のみならず。時折剣を振るっては、“赤”の竜鱗をいとも容易く斬り裂き、鮮血の雨を振らせていた。
人間業ではない。
今でこそ“赤”の勢いが強く、形勢は互角に見える。だが明らかに有効打を通しているのは、ラインハルトの方だった。
(格が違う。俺とは立っている場所が、あまりにも――)
間近の危機に備えることも忘れて、呆然と二人の戦いに見惚れる。
そんなヤマトの脇に、血色を取り戻したノアが近寄ってきた。
「どうなることかと思ったけど。まさか、あの竜と互角以上に戦えるなんてね」
「………ノア。あの人は……」
「あの人って……。まあいいけど――」
コホンと咳払い。
その音で我を取り戻したヤマトに、ノアは語り始めた。
「英雄ラインハルト。ヤマトも前に聞いたでしょ? 帝国軍の頂点に立つ人で、半ばお伽噺になっている英雄がいるって」
「軍部の総大将……。アナスタシアが、そんなことを言っていたか」
「そう。で、これは皇室にだけ伝わる話なんだけど――」
“赤”の暴威を前にして、傷一つなく戦い続ける英雄。
その背を指差し、ノアは声をひそめる。
「あの人、どうやら数十年もあの姿のままみたいでさ。一切歳を取っていない、正真正銘の大英雄なんだよ」
「何だと」
「冗談じゃないよ? 何枚もあの人を撮った写真があるんだけど、その全部が、今とまったく同じ姿。どういう理屈かは知らないけどね」
不老不死。
ノアの話を聞いた瞬間に、その語が脳裏を過ぎった。
「ちょっと聞いた話だと、初代皇帝と一緒に国興しをしていた頃に、そういう精霊と契約を結んだって話。真偽は定かじゃないけど」
「不老不死の精霊、時間を司る類のものか?」
極めて珍しい種であるが、過去に例がないわけではない。考えてみれば勇者ヒカルが授かっている加護もまた、時空を司るものだ。
そう得心しかけたヤマトを前に、ノアは軽く首を傾げた。
「どうだろう。それとは別物のような気もするけど……」
だがいくら考えてみたところで、容易く答えが得られるものではない。
すぐに諦めたように、首を数度振る。
「まあとにかく。あの人は『帝国の守護神』なんて呼ばれるくらいの大英雄だから、相当腕が立つのは知っていた。けど、それが竜と――しかもあんな強そうな個体と戦えるほどだとは、流石に予想していなかったかな」
「……そうか」
「――それよりも」
話を区切るように、ノアは言い切った。
その眼に、つい先程までの気楽な色はない。
「さっきの話、覚えてる?」
「さっきのというと……」
「皇帝と、あのクロが繋がっていたっていう話」
「あぁ」
即座に頷く。
クロ。
表向きは魔王軍の隠密部隊を名乗っていたが、それは恐らく真実ではない。同じ魔王軍に属する四将軍からも信頼されず、さりとて能力の高さゆえに廃嫡もされず。持ち前の飄々とした態度をもって、魔王軍を根城にしていたのだろう。
また彼は、太陽教会の聖地と竜の里を襲い、その両方を壊滅させている。それだけでなく、勇者ヒカル一行の前に幾度も現れては、不可解な言動で場を引っ掻き回していた。大陸各地に眠る「初代魔王の遺骸」を回収していることも、その行為として忘れてはならない。
彼の力はもはや論ずるまでもなく、脅威だ。
(これまでの行動は、全て帝国に利するためのものだったということか?)
そう考えてみたならば、合点できる部分は確かにある。
太陽教会の聖地を襲撃したのは、その宗教の権威が帝国にとって不都合だったからだ。事実、鉄道を始めとする文明を大陸に広めようとしていた帝国は、教会勢力とは敵対関係にあった。
――だが。
(ならばなぜ、竜の里を襲った? そしてなぜ、竜がここへ来れるような痕跡を残した?)
そこが不可解だ。
ヤマトの知るクロという男は、こと魔導術に関して言えば、他の追随を許さないほどの技巧を誇っている。当然、魔力の痕跡を消したり欺いたりといった技術についても、お手の物だろう。
だというのに、“赤”は帝国へ辿り着いた。
「何が狙いだ?」
「分からない。――だけど、それを知っているかもしれない人が、ここに一人いる」
ノアの言葉に、視線を上げた。
瓦礫を踏み越え、颯爽とその場を後にしようとしている――皇帝。
「問い詰めよう」
「……分かった」
一瞬だけヤマトの返答が淀んだのは、この瓦礫の間にいるかもしれない人――アナスタシアや、皇女フランとセバスなどを案じたからだ。
だが、思い直す。
(そう易々とくたばる連中ではない)
アナスタシアの悪運の強さは、もはや語るまでもない。たとえ腕や足がもげていようと、彼女ならばケロリと平然な顔をしていそうだ。
皇女フランの方は、すぐ近くにいたせバスが身命を賭して守っていることだろう。ならば、きっと無事でいるはず。
(今は、皇帝とクロのことを問い詰める方が先決だ)
“赤”の言葉では、ここ皇城にクロは潜んでいるらしい。
それが事実であれば、“赤”がクロの狙い通りに襲撃してきた今、何か事を起こす算段かもしれない。そうでなくとも、捨て置くことはできない。
「行こう、ヤマト」
「あぁ」
むんずと腰の刀を掴み、なけなしの気力を振り絞って闘志を捻出する。
だがその裏では、何か得体の知れない事態が進んでいるような不吉な予感が、ヤマトの胸中を渦巻いていた。