第378話
爆発。
気がついた瞬間には身体の平衡感覚が失われ、自分が立っているのか伏せているのかすら判然としなくなっていた。ドロリと底なし沼を沈み込むような感覚と共に、意識が暗転する。
「―――」
数秒か、数十秒か。
時間感覚も失せた頃合いになって、不意に意識が急浮上をし始める。
そしてまず最初に感じられたものは、頬を撫でていく柔風の感覚だった。
(これ、は……?)
徐々に自我が取り戻されていくに連れて、耳奥で高音が騒々しく鳴り響いていることが気になり始める。
ゆっくりと薄眼を開けてみても、その視界に映るもの全てが灰色に染まり、何が何だかすら判然としない。未だ夢の中をたゆたっているような感覚のまま、再び目蓋を閉ざそうとして――、
「ヤマト!」
「―――っ!?」
ノアの声が、やたらと耳通りよく届いた。
重い目蓋を無理矢理こじ開け、地をなぞる指先に力を込める。膝を立て、腕を突き、ゆっくりと上体を起こしていく。
刀を鞘ごと外して床に突き、杖代わりにしてヤマトはようやく立ち上がった。
「ヤマト、大丈夫!?」
「あ、あぁ……。何とかな」
「そんな、だけど――」
額に走る鈍い痛みに釣られて、指を這わせる。ぬるりと指先が濡れる感覚。
世界が徐々に色彩を取り戻していく中、視線を落とせば、額に触れた手が真っ赤に染まっていることが分かった。
(額を斬ったか)
ひとまず思考に淀みはないから、傷はそう深くないと見ていいだろう。
だが比較的冷静に状況を分析している間にも、傷口からだくだくと流れ続けている血の方は問題だ。このまま放置していては、血が失せすぎて動けなくなることもありえる。
「ヤマト、顔上げて」
「む――?」
言われるがままに視線を上げたところで、すぐ近くまで迫っていたノアが、額に何かを巻きつけていく姿が見える。
布。衣服か何かを裂いたものだろうか。
何気なくボンヤリと見つめていたところで、ギュッと強く額を締め付けられる感覚に我を取り戻した。
「これでよし。止血くらいしかできてないけど、やらないよりはマシでしょ」
「……助かる」
「いいって。それより――」
微笑みも束の間、ノアはすぐに真剣な表情になって周囲を見渡す。
釣られてヤマトも視線を巡らせて――息を呑んだ。
「これは……っ!?」
「見ての通り、だよね」
ヤマトたちが皇帝と面会していた応接室は、既に跡形もなく吹き飛んでいた。
頭上を見上げれば、そこに広がるのは部屋の天井などではなく、やたらと青く透き通った空だ。その先に広がる皇都の街並みの方は、一切の傷なく普段通りに見えることが、より今が異常事態であることを際立たせている。
改めて確かめるまでもない。
帝国の栄華を象徴するが如くそびえ立っていた皇城は、この一瞬の間に、元の優美な姿が思い出せないような有り様にまで壊されたのだ。
そして――その犯人もまた、明白だった。
「赤い竜……」
「ただの竜種じゃない。とてつもない力を感じる」
深い青空を背にして、煌々と紅の鱗を輝かせる竜がそこにいた。
彼我の距離感が狂うほどの巨体に比して、その体躯は俊敏さが伺えるほどに先鋭的。変幻自在に空を舞うための大翼、鋼鉄をも容易く裂くだろう鋭利な尖爪。見るだけで怖気が走る鋭牙の間からは、距離を開けてもなお感じられる炎の熱気が立ち昇り、眩い火花を散らしている。
間違いない。
奴こそが、皇城を半壊させた犯人だ。
(だが、あれの正体は……)
記憶の海を探る。
かつて見たことがないほどに強大な力を感じさせる紅の竜。だが奴と同程度であろう存在を、ヤマトはかつて目の当たりにしたことがある。
すなわち。
「――至高の竜種」
「至高? あのお伽噺の竜?」
「お伽噺などではない。俺は実際に、この眼で確かめた」
世界最高峰の力を秘める竜種であり、生態系の文字通り頂点に君臨する存在。
誰も数えることができないほどの長い年月を経た竜種は、その経験ゆえに、人間や魔族では比類できないだけの力を身に着けるという。
その一柱に数えられる存在であれば、帝国の技術の粋を合わせて作り上げた皇城であっても、その一撃で破壊することができるだろう。
そう確信してみれば、一種の得心と共に、新たな疑問が浮上してきた。
(なぜ、至高の竜種がここを襲撃してきた?)
素直に考えると、帝国が至高の竜種――恐らくは “赤”の名を冠する竜の恨みを、どこかで買っていたというところだろうか。
だがヤマトにしてもノアにしても、帝国の動きを逐一把握しているわけではない。
(直接尋ねてみるしかない)
そう決意すると同時に、杖代わりにしていた刀から力を抜いた。
あれこれ思案する内に、何とか身体は調子を取り戻してくれたようだ。手にした刀を腰元に戻し、そのまま紅の竜を見上げる。
(あれほどの存在が、ただの人間の言葉を聞いてくれるとは思えない。だが――)
ヤマトはかつて竜の里に赴き、その窮地を竜と共に戦った身でもある。
そのことに赤竜が気がつき、向こう側から耳を傾けてくれたならば話は早い。
そう期待する眼差しを空に向けたところで、紅の双眸と視線が絡み合った。
「ノア、少し下がっていてくれ」
「ヤマト……?」
「奴が降りてくる」
認識した瞬間には、赤の竜は高度を下げ、ヤマトのすぐ近くにまで降り立っていた。
背後で、ノアがよろめくように下がる気配を感じる。
(間近で見れば、凄まじい威圧だな)
気を抜いてしまえば、その瞬間に膝から崩れ落ちてしまうことだろう。
今こうして辛うじて立っていられるのも、腰元の刀を鷲掴み、半ば戦場に立つかのような臨戦態勢を取っているからに他ならない。
「………っ」
生唾を飲む。
睨みつけるようにして視線を逸らさないヤマトの先で、赤い竜はゆっくりと顎を開いた。
『貴様』
「―――っ!」
『“白”の気配がする。奴の話にあった、里にいた人間か?』
「……そうだ」
『なるほど確かに、人らしからぬ猛った瞳をしている』
何かを面白がるように、赤の竜はくぐもった笑い声を漏らした。
その響き一つを浴びるたびに、心臓が冗談のように跳ね回る。その臆病を悟られないよう、眼に込めた力をより一層強めた。
『既に察しているだろう。我は至高の一角にして、“赤”を冠している。“白”の加護を受けし者よ、聞きたいことがあるようだな?』
「……ここには、なぜ来た」
『知れたことよ』
一瞬でも温かみを見せたことが嘘のように、“赤”の眼が凍りついた。
それだけで人を殺せそうなほど鋭い眼差しで、周囲を睥睨する。
『クロという人間だったか。ここにそいつがいる』
「何だと……!?」
『“白”が探り、我らが同胞が全空を翔けて調べたことだ。間違いはない』
にわかには信じ難い――というより、信じることに本能的な恐怖を覚えた。
“赤”の言葉が確かであれば、クロは帝国の者、もしくは帝国と取引をしているということになる。
(ありえない話ではない。教会に敵対し、更に魔王軍をも欺く。そんな大事を為すならば、相応の協力者がいて然るべき――)
だがそれは、あまり気分のいい想像ではなかった。
誰か“赤”の言葉を否定してくれることを期待して、視線を巡らす。
ほとんど意味のない行為ではあったが、それでもヤマトの眼は、崩れかけた壁際に佇む人影を捉えた。
(皇帝と、ラインハルト……)
この上ないほどに、帝国の内情に精通した二人だ。彼らならば、“赤”の言葉が真実にせよ偽りにせよ、確かな答えを返してくれるはず。
その期待に応えてか、傷一つない姿のまま、皇帝は口を開いた。
「クロか。確かにその者との間に、取引を交わしたことはある」
『ほう? ずいぶんと回りくどい言い方をする』
「だが事実だ。奴は傭兵のようなもの。契約を結ぶことはあっても、奴自身を縛りつけることなどはできんよ」
『素直に吐くつもりはない、ということか』
苛立ち混じりに、“赤”は皇帝へ牙を剥いた。
咄嗟に前へ出かけるラインハルトを、皇帝は軽く制止する。
『是か否か以外の答えは認めん。単刀直入に問う』
「性急なことだ」
『貴様らはクロと結び、奴の行為を支援した。その一つに我らが里を襲うことが含まれていたことに――相違ないな?』
問いかけという形こそ取っているものの、“赤”の眼には殺意以外の感情は浮かんでいない。
皇帝がどのような答えを返したとしても、その喉元を即座に噛み切る算段だろう。“赤”の暴威を前にして、ただ震え上がる以外の選択肢は人間に許されていない。
――だというのに。
「ククク……ッ」
皇帝は不敵な笑みを浮かべる。
己の命に危機など感じていないということか。脇にいるヤマトも額に脂汗を浮かべるような殺意を受けて、怯える様子一つ見せず、更に笑みをも零している。
尋常ではない。
より言ってしまうならば、正気とも思えない。
『是か否かで答えろと、我は告げたはずだ』
「そう焦るな。至高の名が廃れるぞ」
『答えろ!』
吠えるような一声。
その暴威を目前にしながらも、不敵な笑みは崩さず。
皇帝はその覇気を身にまといながら、嘲るように吐き捨てるように、“赤”へ告げた。
「――是だ」




