第377話
地から見上げれば暗澹たる暗雲に閉ざされた空も、その遥か上方から見渡せば、シミ一つ浮かばない蒼穹が広がっている。
雲を遥か下方に置き去りにしたそこは、鳥すらも易々とは踏み込めない聖域。
その蒼天を、我が物顔で飛ぶ影が一つあった。
『――もう間もなくか』
聞いた者がいたならば、その響きだけで心胆を奥底から震え上がらせるような声。
それを呟いた主は、空を翔け抜ける気流によろめく素振りすら見せず、ただ悠々と雄大な翼を広げていた。
真紅の竜。
蒼穹にあって鮮やかさを一層際立たせる紅の甲殻は、地に降り注ぐよりも激しい陽光を跳ね返し、業火がそのまま空を翔けているような光景を生んでいる。巨大でありながらも緩慢な印象はなく、むしろ俊敏さが一目で伝わるような先鋭的なフォルム。その両脇にある雄大な翼は、縦横無尽に吹き荒ぶ風の一切を支配し、その巨体を飛翔させる糧とする。
知能の程度に関わらず、生物がその竜を目の当たりにしたならば、刹那の内に悟ってしまうだろう。
――あれこそが、世界を統べるに相応しい存在なのだと。
高天全てをその両の瞳で睥睨しながら、真紅の竜は更に加速する。
『血が滾る。よもやこの歳になってなお、我が憤怒に支配されようとはな』
面白がるような言葉ながら、その声音は剣呑そのもの。
今の彼の眼に留まってしまったならば、例え羽虫程度であっても瞬時に焼却されてしまいかねない。その殺気ゆえか、空を繋ぐ風までもが萎縮し始めているようだった。
ギロリと、眼下の暗幕を見下ろす。
『ここか』
呟くや否や。
ひたすら真っ直ぐに翔んでいた真紅の竜は、その頭を直下へ。微かに雷鳴轟く暗雲の中へ、一切の躊躇いを覗かせないままに突入した。
稲光が爆ぜ、雷電が真紅の鱗に弾ける。
『煩わしい』
その衝撃は、竜にとって一切の障害たり得なかっただろう。
それでも、竜は紅い眼をスッと細めると。
『――失せよッ!!』
咆哮する。
ただの音波のみならず、計測することもバカバカしくなるほどの魔力、そして紅蓮の炎が撒き散らされた。
刹那の内に雷雲が灼き尽くされ、辺り一面が蒼天へと生まれ変わる。
『これでいい』
満足気な呟きと共に、真紅の竜は改めて視線を真下へと落とした。
そこに広がるは、人間によって築かれた無粋の極み。竜の同胞たる“黄”が根底を支え、“緑”が恩恵をもたらした大地を踏み躙った、人間種の不遜をそのまま表すような街だ。
(それでさえ許し難いというのに――!)
噛み締めた牙の間から、灼熱が漏れ出る。
憤怒に濁りそうになる視界の中、街の中でざわめく人間が、己を指差していることに気がついた。
同時に、街の端に備えられた大筒が、徐々に角度を変えていく。
『存外に速いではないか』
言いながらも、その声音は侮辱の色に染まっている。
どのような兵装が向けられたところで、己に傷一つつけられないという自負の表れ。現に竜は砲塔を前にしてたじろぐ素振りを見せず、悠々と空をたゆたっていた。
角度が定められた大筒、総数は二十を越すか。その全てに魔力が凝縮され――放たれる。
『―――』
ただの鉛の塊ではない。
弾一つ一つに刻印された術式が幾つもの加護を発動させ、その重量を幾十倍にも引き上げた破壊力をもたらす。鉄壁の城砦と謳われる堅固な壁であっても、その一撃で粉々に砕かれることだろう。
並の竜種であれば、その砲弾の一撃で翼をへし折られかねない。
――だが。
『無駄なことを』
もうもうと上がった爆煙を吹き飛ばす。
蒼い空を背に舞う真紅の竜。その鱗には傷一つなく、煌々と紅の光を照り返していた。
地上から、さざなみのように感情の揺れが伝わってきた。動揺、恐怖、絶望。その彩りに眼を細める。
『今度は我が炎を見せてくれる』
口内に渦巻く炎が勢いを増し、火花が散っていく。
眼下に幾つも設置された大筒。そのどれを灼くべきかと視線を巡らせ――一段と目立つ建築物に、眼が留まった。
(あれだな)
街の中央に威風堂々とそびえ立つ城。
やたら輝くその外壁は見るだけで煩く、ゆえに下等な人間には眩しく映り、己には疎ましい。恐らくはこの国の中心地、栄華の象徴というべきものだ。
あれをただ一撃をもって破壊せしめたならば、より心地よい響きの絶望が聞こえることだろう。
(そうと決まれば、躊躇うことはない)
翼を大きく広げて滞空。
喉奥から込み上げる炎を口内で集中させ、その狙いを一点に定める。
『絶望しろ』
放たれたのは紅の閃光。
光弾は小さいながらも、あたかも二つ目の太陽の如き眩さを振り撒いていた。
刹那の内に着弾。
白銀の城壁が、凄まじい爆風と共に崩壊した。