第375話
皇城の裏口から入り、人目を忍んで歩くこと数分。
人気のない廊下まで出てきたところで、一行を先導していたセバスが立ち止まった。
「どうぞ、こちらです」
「……分かった。案内ありがとう」
ノアの謝意に、セバスは黙礼をもって応える。
そういう約束だったとはいえ、彼の協力なくしては皇城に忍び込むことはできなかっただろう。事前に手回しするだけでなく、当日に起こり得る不測の事態に備える。並大抵の労力で為せることではない。
ヤマトらを皇城まで導いてくれた、セバスと皇女フランに感謝を――、
「む」
「どうした?」
思わず漏れ出た声に、アナスタシアが耳聡く反応した。
先程までは人目を忍んでいたからか。完全な沈黙を保っていた彼女だが、その警戒もここならば必要ないと判断したのだろう。
だが、その安堵は些か早かったかもしれない。
(部屋の中から気配を感じる。数は……一人だけか?)
何の警戒もなく扉を開こうとしていたノアを、既のところで制止する。
扉越しに探っている限りでは、害意に近しいものは感じられない。襲撃者ではないのだろうか。
何にせよ、これは問い詰めなければならない案件だ。
「……これはどういうことだろうか」
「ふむ。まさか御気付きになられるとは思いませんでした」
鋭く睨めつければ、返ってきたのは感嘆の溜め息。
更に先を促すべく視線は逸らさない。
そんなヤマトの警戒に対して、セバスは几帳面に頭を垂れた。
「申し訳ありません。実は本日の面会に際し、こちらの御方が同席されることになりました」
「………」
「御伝えしなかったのは主の意向となります。くれぐれも御容赦を」
そう言いながら、セバスはゆっくりと扉を開く。
その先――無人のはずだった応接室には、白金色の髪を流すたおやかな女性が一人。
ヤマトの反応に先んじて、ノアが一歩前へ出た。
「姉さん!? どうしてここに……!?」
「あら、家族の数年振りの再会なのよ? 私が同席してもいいではないですか」
「だけど、姉さんは……もう」
言い返そうとして、結局ノアは口を閉ざす。
反論の理屈が思い浮かばなかった、わけではあるまい。きっと眼の前にいる女性――皇女フランの眼差しが、何物にも屈しない強さを秘めていると、直感で悟ったがゆえの諦念だ。
肩を落とすノアを愛おしげに見つめてから、フランは視線を逸らす。
「ヤマトさんに、貴方はアナスタシアさんでしたか。お話は弟から伺っています」
「はっ。そりゃどうも」
「弟がお世話になっているとか。ありがとうございます」
「礼を言われるようなことはしちゃいねぇよ。ただ利害が一致していただけだ」
折り目正しい感謝の言葉を前に、アナスタシアはつっけんどんに言い返す。
その無作法さに、後ろのセバスが眉をひそめていることが伝わってきた。
何かフォローをするべきだろうか。
僅かな間だけ逡巡するものの、フランが一切気にしていないらしいことに気づき、取り止める。
そうしたヤマトの葛藤を他所に、アナスタシアはフランに対して無遠慮に口を開いた。
「んで姫さんよ。聞いた話によれば、お前さんは謹慎中なんじゃなかったのか?」
「えぇ、そうよ」
「どうしてこっちに出張っているんだ? 止められるだろ普通」
「それはもう散々に。セバスにも他の侍女たちにも、ずいぶん諌められてしまったわ」
「そこまでして、どうして」。
そんな疑問を浮かべたアナスタシアの視線に、皇女フランは緩やかな笑みをもって応える。
「簡単なことよ。そうするだけの価値があると思ったから、ここに来ただけ。別にそれ以上の深い考えがあるわけじゃないわ」
「……価値ねぇ」
「今回の件で、お父様がどういった決断を下したのか。皇室の娘として、それは知らなければならないでしょう?」
「まあ、それはそうなんだがな」
(………?)
ふとした違和感を覚える。
いたって常識的な会話だったはずだが――、
(妙に引きがいいな)
視線をアナスタシアの方へ向けた。
朗々と語られたフランの動機は、聞いたところ嘘は混じっていない。彼女の中で、皇女としての責務を果たさんとする責任感があるのは間違いない。――だが、それが全てではないだろう。
そんなヤマトでも気づいたことを、アナスタシアが指摘していない。
その不自然さに小首を傾げながらも、深く考えることなく、ヤマトは思考を次の題へと移した。
(皇帝の命を破ってまで、ここに来る価値か)
小難しい理屈の推察はアナスタシアたちに任せるとして。
ヤマトの直感に任せるならば、それはきっと――ノアにある。
(数年振りに父と相対する弟。親子の会話が滞らないように、顔を覗かせたというところか?)
何の根拠もない当てずっぽうな推論だが、意外といい線をいっているような気がする。
ヤマトが脇から見ている限り、皇女フランのノアに対する情は少々行きすぎている。単なる姉弟の情と言い切ってしまうには強すぎるそれは、むしろ病的なほど――、
「―――っ!?」
殺気。
野次馬根性丸出しの思考に、冷水を浴びせられたような怖気が走った。
だがそれは、ほんの一瞬にも満たない刹那の内のこと。気がついた時には怖気など跡形もなく失せており、先程感じたばかりのものが、実は幻覚だったのではないかと疑いたくなってくる。
つい視線を巡らせて、皇女フランと眼が合う。
「あら。どうかなさいましたか?」
「……いや。何でもない」
言短く応えて、口を噤んだ。
やはり幻覚だったのだろうか。それにしては怖気は冷たすぎて、今なおその余韻を心臓に残している。
だが、それらしい気配を放った者は、見当もつかない。
(何だったんだ今のは)
考えられるとすれば、フランかセバスか。
だがフランは、見た限り武術を修めた様子はない。その指先はマメ一つない綺麗なもので、刀剣を握ったことなどないだろう繊細な形をしていた。
ならば、セバスが放ったのだろうか。
そう、露骨に視線を向けすぎたのがよくなかったのだろうか。
「ふむ? どうかなされましたか」
「……何でもない」
「そうですか。御気分が優れないようでしたら、別室へ案内致しますが」
「いや結構だ」
なおも訝しげに首を傾げるセバスだったが、ひとまず追求は取り止めてくれたらしい。先程までと同じく、応接室の壁近くに佇み、部屋全体へ気を巡らせ始める。
(セバスではない、な)
老執事の立ち居振る舞いからは、殺気を放った直後のような剣呑さが一切感じられなかった。
巧妙に隠しているという可能性もないではないが、そこまで疑いだしてはきりがない。
(幻だったのか……?)
皇城で皇帝と面会する。
そんな重役を目前にして、少々気を張り詰めすぎたのかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、若干の納得を得る。
そうしたところで。
「おや。いらっしゃったようです」
セバスが声を上げた。
釣られて室外の様子を探れば、確かに応接室へ歩み寄ってくる人の気配がある。
「おっ、いよいよだな」
「ノアはこちらに。ヤマトさんにアナスタシアさんも」
「ちょっ、姉さん。そんな掴まなくっても大丈夫だって……」
フランに手を引かれ、彼女の元までノアが連れられていく。
その背中を何気なく見送ったヤマトの耳に、アナスタシアの小声が滑り込んできた。
「おいヤマト、ちょっといいか」
「む?」
振り返ったところで、耳元までアナスタシアが口を寄せてくる。
フランやノア、セバスたちには絶対に聞こえないほどの声量で囁きかけてきた。
「気をつけろよ。あの女、まともじゃねぇ」
「ふむ」
それはまあ、妙に偏執的に弟を愛している辺りは、どう見てもまともではないのだが。
きっとアナスタシアが言いたいことはそういうことではあるまい。
「一目見て分かったが、奴は俺の同類だ。人としてあるべきモノが一つ、どっかに吹っ飛んじまってる」
「………」
「外見こそ理性的に見えるが、実際はそう取り繕っているだけだ。一枚皮を剥げば、正反対の本性が出てくると思っていい。絶対に気を許すんじゃねぇぞ」
それは、アナスタシアなりの警告だった。
ヤマトの眼には常識的な女性に見える皇女フランも、アナスタシアの眼にはそう映るらしい。その真偽がいかほどかまでは知らないが、ただの妄想と捨て置くわけにはいかないだろう。
(とはいえ、そう警戒する必要もない気がするが――)
無言のまま一考し、小さく頷く。
「警戒はしておこう」
そう応えてから、アナスタシアへ視線を向ける。
「あん? どうしたよ」
「……大したことではないのだがな」
ふと気になったことが一つ。
「自覚はあったのだな」
「は?」
「自分がまともでないという」
「………」
返答の代わりに、アナスタシアの指先で頭が小突かれた。