第371話
突如訪れた二人の少年らが、離宮の正門を出ていく。
その背中を応接間の窓から見送りながら、皇女フランはそっと物憂げな溜め息を零した。
「……姫様。御加減は如何ですか」
「ありがとう爺や。大丈夫、ちょっと疲れただけですから」
「それならば良いのですが……」
客人二人と顔を合わせていた時間は、ほんの一時間にも満たなかったことだろう。
だがその場の緊張感と、ノアの口からもたらされた話の衝撃が、その数倍以上の時間が経ったかのように錯覚させていた。
セバスが軽く手を上げ、メイドに茶を用意するよう指示する。
そんな老執事の気遣いを快く思いながら、フランは手元の窓を指先でなぞり、今は街中へと溶け込んでしまった弟の姿を回想した。
「何はともあれ、あの子が無事だった。それに勝る喜びはありません」
「ノア様が行方知らずとなった時の姫様の消沈、今も思い出せます」
「そう、ですね」
段々と陽が傾き始めた空を見上げる。
ノアが突如として姿を暗ませた頃。当時のフランたちは三人兄弟揃って日々平穏に過ごし、明日の不安など抱いたこともなかった。ただ毎日を何気なく生き、そしてこのまま成長するものだと漠然と考えていたのだ。
そこに転換点を打ち込んだのが、ノアだ。
「あの時の私には、ノアの考えが分かりませんでした。ただ慌てふためき、そして塞ぎ込むことしかできなかった」
「姫様……」
「――ですが、今ならば分かります。きっとあの子は、この国で過ごす日々に飽きていた。定められたレールの上を歩む運命に、抗おうとしていた」
それは皇族や王族を始めとした、由緒正しい血統を背負う者ならば、皆一度はぶつかる葛藤だ。
だがノアは、彼らとは違った。
大抵が諦め妥協し、貴族の責務を果たすべくその身を費すことを受け入れる。そんな中にあってノアは、あくまで運命に逆らうことを選択した。
(きっと深く悩んだことでしょう。外を歩むには、あまりに私たちは世界を知らなさすぎた)
同じ状況にフランが直面したとして、フランはノアと同じ行動を選択することができるだろうか。
先祖代々築いてきた帝国は、あまりにも居心地が良かった。そこから脱するだけの気概を、果たして抱くことができるのだろうか。
「もし、私もあの子と共に――」
言いかけて、フランは首を横に振った。
「考えたところで、仕方のないことですね」
「………」
「大丈夫です爺や。今の私はそんなことはしませんから」
「私は何も案じておりませんとも」
もはや数年前とは状況が違うということだ。
長く続いた平和の下では、言ってしまえば皇帝さえいたならば、後の皇族は一人欠けたところで大問題にはならなかった。
だが今は戦乱の世。しかも反戦派筆頭と掲げられているフランが姿を暗ませれば、いらない騒動を招くことになってしまう。
帝国を導く皇族の姫として、それは断じて許容できることではない。
そんなフランの言葉を聞いて、一抹の不安を拭うことができたか。セバスはほっと表情を緩めた。
「――そういえば、セバス」
「はっ」
湿っぽくなってしまった空気を払拭するためか。
努めて華やいだ声を上げて、フランは畏まるセバスへ視線を流した。
「ノアに従っていた彼のこと、爺やはどう見ましたか?」
「あの若武者ですか」
「えぇ。セバスも存外、彼のことは気にかけていたようでしたから」
「……お恥ずかしいところを」
ノアとの再会を前に眼を暗ませていたかと思いきや、存外に見るべきところは見ていたらしい。
そんな主の明察を理解できなかった己を恥じながら、セバスは今しがた見送ったばかりのヤマトのことを思い出す。
「彼は、そうですな……。将来有望な若者でありました」
「へぇ? 爺やがそう言うなんて珍しいですね」
「それだけの才気を、彼から感じたということです」
あの特徴的な黒髪から察するに、極東出身の武者だろう。
出入りの際に手にしていた長刀も、ずいぶんと彼に馴染んでいるように見えた。まだ二十を越えた程度の年頃で、それほど刀剣に習熟しているという時点で、驚嘆に値するのだ。
「一人の武者として見ても一流でした。ですが彼は、それに加えて良い眼をしていました」
「良い眼?」
「えぇ。世の広さを知り、それでも己を見失わず。闇の中で道を見出さんとする、良き若者の眼です」
「……そう。私にはよく分かりませんけれど……」
呟きながら、フランは窓の外を再び見やる。
「ノアが信頼している人です。きっと爺やの言う通り、優れた人なのでしょうね」
「えぇ、間違いなく」
顔を見ずとも分かる。
セバスは今頃、執事として見せてはいけない顔をしていることだろう。若かりし頃の軍人としての血が騒ぎ出し、些か剣呑に過ぎる眼をしているに違いない。
それを隠すためなのか。窓ガラスに薄っすらと映るセバスは、顔を伏せ、フランの顔を覗き見ようとしなかった。
――だがそれは、今だけは好都合だったかもしれない。
(醜い顔をしているわね)
声には出さず、心の中で呟く。
窓ガラスに映った自分の顔。そこに浮かぶ感情は、ただ歓喜を示すものばかりではない。むしろ、よりドス黒い感情によって彩られていた。
(これは、嫉妬かしら)
愛すべきノアの隣に立っているあの男が、腹立たしい。
自分の知らないノアの数年を共に過ごした事実が、妬ましい。
これからもノアと生きるだろう未来が、羨ましい。
胸の内で負の感情ばかりが渦巻き、ふと気を緩めれば口から怨嗟の言葉を吐き出しそうになる。
「ふぅ――」
深呼吸。
鋼の理性で己を律していたところで、応接間の戸が控えめにノックされた。
「フラン様。お茶をお持ちしました」
「……えぇ、ありがとう」
気を取り直す。
今はただ、ノアが無事でいてくれたことを喜ぶべきだ。
そう気持ちを新たにしたフランは、戸を開けて入ってきたメイドを笑顔で迎え入れた。